「バカとは何か?」について、過去、多くのバカを見聞きし、体験もし、自ら実践もし、それで分かったつもりで、実はよく分らないある種得体の知れないもの。それが「バカの論考」を推し勧めている。とことん、思う限りのバカをついばみ、書きもしながら、まだまだ書き足りてない。石川五右衛門は、「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」といった。
が、「世にバカの種は尽きまじ」ともいえる。何事も徹底すればひと段落着く。よって、「バカの論考」を続けてみる。「バカ」を揶揄し、嘲笑し、「バカ」を焙り出す目的でなく、「バカ」を止めるべきとの気持ちで書いている。人が「バカ」を止める世を想像するが、想像できない。人が「バカ」を止めたら、どうなる・こうなるを、まるで想像できない、その理由は、あり得ないからだ。
想像するけれども、想像できないというのは苦境である。苦境でありながら、反面微笑ましくもある。なぜなら、バカを行為する自分と、同じようにバカを行為する他人と、共に生きてこそ「人」であるからだ。人は「バカ」を止めて欲しいといいながら(書きながら)、反面、人は(含自分)もバカをやる楽しさを求めているのかも知れない。「バカも休み休み言えよ」という言葉がある。
「バカを言うな!」ではないなら、「バカを(言ってもいいが)断続的に言うな!」それが「バカも休み休み言えよ!」という言い方ではないかと。なるほど、人は他人のバカ発言を許容しているのが判る。もちろん、「バカなこと言うんじゃない」という奴もいる。昔の彼女は二言目に、「なにバカなこと言ってんの」と言った。自分はこの言葉をいう時の彼女が好きだった。
彼女がそういう言葉を発するとき、その生真面目な顔や仕草が、いつにもまして可愛く思えた。だからその言葉を期待し、彼女がその言葉を言いそうな(彼女にとっての)「バカ」発言を多用した。性格的に真面目な上に、「超」をプラスしても足りないくらいのクソ真面目な彼女は、世俗的に普通のことでも、「バカなこと」に思える女性なのだと、当初は考えていた。
しかし、女が魔物といわれるのは、「昼は淑女、夜は娼婦」といわれるように、傍から見て十分にバカなこと、破廉恥なことをやりながらも、なぜか本人はそうした意識のなさを感じるのだ。そんな女を得体の知れないものと、だんだん認識していくようになる。女は、自分にとっての、「○×」を的確かつ主観的に見極め、×を無意識に排除する能力を持っている。
判りやすく言えば、「(自らに)都合の悪い事は、すぐに忘れられるような、特別な心の仕掛けを持っている生物」という認識を得るに至った。いかに彼女が、「なにバカなこと言ってんの」と言ったところで、彼女は何一つバカを行為しない、バカな発言をしない聖人では決してない。なのに、そういう言葉を真顔で吐ける女と言う生き物の、可憐さに男は魅せられる。
同じ人間とはいえ、生息環境によって男と女は別の生き物に作られるが、それが分らなかった若き日にあって、女のつく嘘は耐えられなかった。あまりに恣意的、あまりに場当たり的につく嘘の類は、男を愚弄しているようにも感じられた。男同士なら、「人を舐めてんじゃないよ!」と出る言葉だが、女に言うのは不向きな言葉であるのは本能的にわかる。
だから、「見え透いた嘘は止めろ」みたいな、自然、トーンダウンした言い方になる。男は男に対等意識はあっても、男は女にそれはない。女には無意識に言葉が変わるが、別の言い方でいえば、男は女に甘いのかも知れない。甘いは弱いとも置き換えられる。もし、男が本当に女を対等と感じたら、行為も言葉も大きく変わるであろう。そこが女には分かっていない。
昇進や給与体系など、社会的な対等は必要だが、男は女を本質的に対等に見れないのは、本質が違うからだろう。女が男を区別(あるいは差別的に)するのと同じようにだ。それを、都合のいいところだけ推し出し、「男と女は対等でしょ?」と言われると、口に出さずとも腹が立つ。怒りというより、「何をいってんだ!」と、無知に対する怒りのようなもの。
「本当に男が女と対等に接したら女は恐くて男の側に寄れないよ」というのは、差別ではなく、男の思う真実かなと。あくまで力や生活環境が異なるという意味でだ。それはまた男が女を必要とし、必要とされる点からいっても、男は自然と女にやさしく振舞うように出来ている。出来ない男も中にはいるが、女を知らない、理解出来ていない無骨な男かも知れん。
女性を理解できる男の心情はよく判るが、女を理解できていない男の心情については、分らないゆえの想像である。すぐに女に暴力を奮ったり、男に対する喧嘩腰の暴言を吐く男もいるというが、鼓舞するだけでデリカシーが身についていないのだろう。そういう男は女性にモテない。だから、さらに力で抑えようとする。野卑な男は同性からみてもデリカシーはないな。
男は女にやさしく、また女も男にやさしく、性別というより、人間として自己愛と奉仕愛のバランス感覚は、環境や人間関係で身につけるものである。やさしさは本来、「十分に愛された者に自然と身につく情動」といわれる。なぜなら、十分に愛されることで周囲を信頼し、自分を信頼もでき、周囲の自分への反応に自分の感情が左右されることがない。
反対に、親から感情を押し付けられて育った子どもは、自身の内面の感情に怯える。なぜなら、親や周囲の要求に応えよう、叶えようとなり、そうしなければ、親・周囲から拒否されると思うからだ。それでは子どもとして生きていけない。その葛藤で怯えた性格になる。子どもが真に自分に強く生きるのは難しいが、そういう親を持った子は早い段階で親に媚びないことだ。
今の子どもは生まれて自立するまで、親元にいる期間が長すぎるから、心の摩擦や葛藤から「親殺し」、「子殺し」という不幸な結果も生まれる。子どもの多くは、「親の望む人間になろう」と頑張り、自己のアイデンティーも根づかぬ不幸な子どもになりやすい。だから子どもは自分が親に、「こうあって欲しい」と願うべきで、そういう子どもになるべきである。
それが子どもの主体性というものだが、欧米のように、「子は神からの授かりもの、親と言えども自由にすべきではない」という宗教的理念がない日本では、親があまりに子どもの人格を左右し、支配しすぎる。ここに不幸の元凶がある。自分は、親の期待に応えるなどと小学低学年からなかった。というより、ある事件が切っ掛けで喪失してしまった。
だから、子どもは親の加護化、保護下に置かれる立場ではあっても、親から人間として許されざる無慈悲な行為を親から受けたときは、親から立ち上がるべきと思うが、親を精神的に排除し、自らを信じて生きて行こうとするのはいつごろがいい?信頼できない親の称賛や、物的誘惑に動じないでいれるか?親を排除とばかりに、親を殺すことは断じてあってはならない。
そこを見誤り、過ちを犯した子どもは痛ましい。「これしかない」選択は、想像力の欠如だし、親を殺す以外のあらゆる選択を思考すべきだ。現に親を殺さない子は、ただ耐え忍んでいるだけでなく、殺す選択は自身の最大の不幸と冷静に考えているのではないのか?傷つけられて育った人間にだって、「やさし」は身につく。それは唯一、対象を反面教師にした場合であろう。
さて、5月25日は「遠い蒼空」さんのブログの、最後のメッセージが書かれた日。日付は時々思い出すが、「一週間。」と、たった3文字の言葉に「生」への希望が見て取れる。執着と言えるかも知れない。「一週間」は、"ホスピス生活"という表題で書かれたものだが、以後、一度も記事をおこすことなく、眺めることもなく、3週間後の6月20日永眠された。
5月1日の、"死ぬのか、オレが!"のタイトルはショックであった。「まだしたい事がある、死んでる暇はないぞ!」の言葉が切実である。5月7日の記事は、「余命あと一週間。急激に逝くのだろうか。」と、死への不信と疑問を呈している。生者にとって、死は当然の疑問である。医師に余命宣告を受けて後、書かれた「遠い蒼空」さんの記事を…
読みながら、人が死に臨む思いはいかばかりか想像するのだ。人は死ぬ前に何を思い、何を書きとめるのか、自身の予行演習のつもりもあるかも知れない。おそらく自分も、そうするのかなと…。余命宣告経験はないが、人が死に臨んで思うこと、書く事は、特別のことではないのだろう。いかに死が特別なことであっても、特別のことは書かないのでは?
文学を好み、文学を愛し、文学に傾注した「遠い蒼空」さんをして、死に間際の筆跡に特別の言葉らしきは何も見えなかった。5分後、10分後にこの世にいないと判れば、特別な言葉も出ようが、「一週間。」の3文字から、3週間後に彼は逝った。何も書けない昏睡状況だったかも知れない。人が残す特別の言葉は、数分後、数時間後に確実に死ぬ自殺であろう。
特攻隊員にもそれを見る。平和な時代、死に臨む自分はありきたりを書くのだろう。再度言うが、死は人生最大の特別な出来事であっても、死ぬまで人は特別の時間を過ごさないのかと。予測できない死、予測できない切羽詰った死に際し、心構えに思考を廻らせた。「遠い蒼空」さんは、なぜそういうハンドルにしたのか?心に蒼い空を望んでいたんだろう、きっと…。
「心に蒼空」なる心境は、雲一点ない清々しい澄みきった夏の青空と違って、"鬱蒼とした森"という表現からして、寒々しい、どんよりしたとの意味かも知れない。それも蒼空であるなら「大人の蒼空」とでもいえるかも知れない。あの世を信じない自分なので、会う事はないと思いますが、とにかく、「遠い蒼空」さん、死んでも元気でいて下さいよ。