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バカの論考 ④

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バカは犯したミスの収め方で判るといった。無様なバカになりたくない人は、真摯な自己批判をし、地位に連綿としない。バカはとことんバカになっても、自ら地位を物乞いをする。『武士は食わねど高楊枝』というのは好きな言葉だ。物乞いは武士にとってもっとも卑しく、醜く、忌避する行為である。また、『葉隠』には仕舞物(しまいもの)に手をだすなとある。

仕舞物とは、残り物、掘り出し物で、今で言うバーゲン商品。町人、商人から物を貰って喜ぶのは風儀の悪い事。また、百両の値打ちの物を五十両で入手するを卑しき心とする。つまり、そのようなことが癖とならば、千両の値打ちのある人物を五百両に評価する危険を犯し、大いなる損失を招くといっている。石田三成は、島左近を自身の禄の半分で雇ったという。

当時、三成の知行4万石だから、いきなり2万石でスカウトである。それが後に、「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」と言われる様になる。世の中にはどうしようもないバカもいれば、賢い人、立派な人もいる。人を「賢い」、「立派」と言えば、「アレが賢い?立派?」と文句をつけるのがいる。「あいつはバカだ」と言えば、なぜか怒る奴もいる。

「人にバカってお前は何さま?」と、なぜか絡んでくるのだ。バカをバカと言って、なぜ「お前は何さま?」と返すのか理解できない。別に何さまというでもないし、異論があるなら、「自分はそうは思わない」と言えばいいだけだろう。「(人をバカなどと)そんなこと言うもんじゃない」と絡む善人気取りは、自分が人を、「バカ」という以上に高い目線を向けている。

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「お前はこの世にバカがいないとでも?」、「そうじゃないけど、腹で思ってればいいだろ?」、「それなら、(バカ)に該当する対象について意見交換はしないということだな?」、「そうじゃないよ」、「いや、そう聞こえるな」、「他人をバカというその事にムカつくんだな、人を安易にバカといっていいのか?」、「安易じゃない。バカにバカというだけ」。こういう善人気取りはいる。

曽野綾子の、『善人はなぜまわりの人を不幸にするか』ではないが、言葉じりをとらえて正義の使者もしくは、善人気取りで絡んでくる。だからうっとうしい。バカだの、何だのと私情悪口を言う人間もいるが、例えば舛添知事のようなバカについていろいろ話し合うことも大事である。こういう奴は口には出さないが(出すとうっとうしいので)、「勝手にムカついてろ」だ。

小学生のころ、親の悪口を言ったら「親の悪口いっちゃダメ」という子はいた。男は悪ガキが多かったから、そういう級長的お説教は女子に多かった。「級長的お説教」といったが、級長であっても腹が立つ。「赤いものを赤いというように、悪いものを悪いと言ってどこが悪い?」と、迫ったことはないが、言えばおそらく、「育ててもらってるんでしょ」だろう。

「育ててもらってるなら何をされてもいいんか?」といえば、論理で返さず、「ダメはダメ」というのは目に見えている。それが子どもというものだ。「親の悪口はダメ」という奴は中学にも高校にもいたが、上の問いに論理で答えられるのか、一度試してみればよかった。バカは死ななきゃ直らないように、ダメな親が突然いい親になるわけがないし、ダメな親は永久にダメ。

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口に出そうが、出すまいが…。だからそういう奴の前では言わないようにすればいいだけの話。親の悪口を言わなかったらいい親になってくれるなら、すぐにでも言わないで置く。ダメな親に苦しめられ、それに対するせめてもの願いである。子どもはいつまでも無知・無力ではないし、そのようにタカをくくった親は危ない。子どもに殺される可能性がないともいえない。

「殺されないだけ有りがたいと思えよ」と親に言った事がある。ショックだったようだが、それも束の間、そんな言葉で反省したり、おとなしくなるような母親ではない。これまでいろいろなバカを見聞きしたが、もっともバカなのはやはり母親であった。その理由は、子ども(自分)に対する権力を持っているからでもある。権力なきバカは無視すればそれ以上の害はない。

ところが権力を持った上に、寝食を共にするバカが目の前にいると、油断をすれば伝染もする。だから、「こんなバカには絶対にならんぞ!」という強い戒めが必要になる。世の中でもっともよくないのが、バカが、「力と金」を持つことだという。持たせてはならない「バカに金と力」である。子は生まれながらに親の権力下にあるのは仕方ない。だから、権力にひれ伏さぬよう振舞うしかない。

親殺しが続いたときに、ある親が(心当たりがあるのか)、「子どもに殺されないようにするにはどうすればいいと思う?」と聞くので、「そんなことは絶対に予測はできないことだ」といった。世の中見渡せば、周囲からみて、「いい人・いい子」が殺人を犯したりと予測不能だ。が、あえて言うなら、「親を殺さない子どもを持つこと」。これなら殺されることはない。

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親子間でのトラブルはいつの時代にもあるが、近年においてどういう問題がクローズアップされているか、あくまで自分の想像だが、子どもが大人の楽しみを早いうちから求め過ぎている。そこの点での親との争いで、個別の問題というより社会全体の問題であろう。我ら子ども時代は、大人になる楽しみはたくさんあったが、どのようなものがあったろうか。

ずいぶん昔のことなので忘れてることもあるが、忘れ得ないものは成人映画(18禁というやつ)である。規制が解かれ、堂々見に行ける楽しみは、友人同士との昔話に出る男の共通の楽しみだ。が、今はネットで中学生でも見れる。「高校卒業したら携帯電話を持っていい?」と娘がお願いに来たのは、ほんの25年くらい前だった。今はもっていない子どもの方が珍しい。

「昔はよかった」、「昔は○○だった」と懐古主義に浸るのではなく、今の子どもが大人になる楽しみがない、という話。みんなが大人になりたいと思っていた時代、大人になることに憧れていた時代。それらはつまり、"大人の特権"という言葉に集約されている。成人映画や、携帯だけではない。夜遅く帰ってきても良いとか、いつ飲んだり食べたりしてもいいとか…。

自分用のテレビやオーデイオ、ウォークマンが持てる、好きな洋服を選んで買える、お化粧ができる、恋人とデートができる、SEXも大人のお仕事であった。まことささやかではあるが、「そういう大人の特権を持ちたい」という気持ちは誰にもあった。これは裏返せば、子どもは暗黙の我慢を強いられ、それを当たり前のように我慢をしていたということだ。

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強制だけではない、自己規制も多だあった。今は我慢を強いられることもなく、自己規制の必要もない自由な子どもたち。その方がいいように思いがちだが、反面、大人になる楽しみがなくなっている。今の子どもたちは、最初っからすべて持っている。許されている。自分専用の部屋、そこには当然テレビがあったり、オーディオもあったり、さらにはスマートフォン。

子どもが大人になる楽しみがないなら、「何のために生きてる?」などと思わないのか?いや、思ってしまうだろう。いきなり何もかも与えられたり、出来たとして、それでどうやって生きれば良いのかについて、分からなくならないのかと…懸念する。今の時代の子どもではないから想像するしかないが、自由すぎると、かえって何をやっていいのか分らないのでは?

自由は規制があるから価値がある。我慢も抑制もなく何でも自由なら人間はバカにならないか?節操のない人間をバカというようにである。わけが分からなくて引きこもったりするのではないのか?いつごろからこんな時代になったんだろう。70年代後半から80年代前半に生まれた人たちの最良のルートは、勉強して、いい大学に行って、いい会社に入ることだった。

だから東大は当然、学問しに行く大学だった。昨今は、東大というブランドを得るために行く学生も少なくない。確かにブランドではある。立花隆は、『東大生はバカになったか』の中で、「今の学生に教えるべくは、学生が歴史的に見て、どのような状況にあるということ。そこをしっかり教えると、『自分はもっと勉強しなければ…』と、なるのではないか?」と言う。

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そんなこんなを思考するに、やはりというか、子どもを取り囲む時代が大きく変わったのは、80年代ではないだろうか。70年代の子どもはまだ、"大人の特権"に憧れる空気があった。80年代といえば、東西冷戦時代であったが、世界が一変した出来事といえば、何はともあれ、ソ連が崩壊したこと。つまり、社会主義、共産主義体制が崩壊してしまったことだ。

なぜソ連は崩壊した?についてはネット内に山のように書かれている。ソ連に限らず、1980年代の中頃から、世界の社会主義諸国は音を立てて崩れた。「資本主義社会の抱える様々な矛盾は、必然的に社会主義社会を生み出す…」。これが社会主義国家を支えたマルクス理論の、確信に満ちた予言だった。他方、エンゲルスは、「空想から科学へ」と言った。


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