自分を、「律する法」と「利する法」がある。子どもがバカをやるのは仕方ないが、分別わきまえた大人が、そこそこの社会的地位をもった人が、こんなでは、大人を見て育つ子どもにいい環境とならない。ベネディクトは、『菊と刀』で「恥の文化」を著したが、日本文化の廉恥の精神に翳りが見え始めている。「恥知らず」もバカに属し、以下はそれ以外のバカの定義。
自分だけが大事のバカ、自分が正しいと信じて疑わぬバカ、自分の殻から一歩も外に出ようとしないバカ、道理がわからぬバカ、自分で考えようとしないバカ。これらが今回の舛添知事に当てはまる。さらに付け加えるなら、都民・国民に対する不誠実極まりないバカ。これだけプラスすれば極バカである。果たして舛添は、バカの上に幸福になっていいものか?
他人は容赦なく攻撃する舛添だが、自分のこととなるとよくもあれほどバカになれるかと、馬脚を現した舛添である。今後テレビで何を言おうが、バカの言葉を真に受ける者はいない以上、彼のジャーナリストとしての生命は終った。猪瀬もバカというが、あれは過ちであり、人間は誰も一時の過ちは犯すものだ。人間が真にバカであるかどうか、過ちの収め方にある。
バカの真正はそこに現れるというもの。過ちを犯したからバカではなく、過ちを過ちと認めない人間が真正のバカである。小うるさい東国原も出しゃばりバカで、あちこち顔を出しては、つまらんことを言う。彼は、「猪瀬さんが、舛添さんのことを言えたギリか?」と言ったが、「(前科持ちの)お前こそ言えたギリか?」と叩かれ反論できず。彼は芸人ならオモシロイ。
「東国原と舛添がケンカして、どちらもケガ(毛が)なくてよかったね」なら古典的ギャグだが、今は舛添を問題にすべきで、石原や猪瀬に絡むことた~ない。途中でケツを割っておきながら、善き知事だと言わんばかりの発言が小物すぎる。東国原に制止されたと思わないだろうが、猪瀬は舛添についてどんどん語るべし。どちらが破廉恥漢であるか、誰が見ても一目瞭然だ。
許認可業者から無利息の選挙資金の借り入れは誤解を生むが、あくまで誤解の段階であったのは事実。また、収支報告書に記載しなかったのは、記載できなかった理由を猪瀬が知っていたことになる。舛添は、自分の雇った第三者(弁護士)の聴取には応じるだろうが、自分を選んでくれた都民という第三者には口を閉ざす。こんなバカは見た事がない。
舛添は自分が雇った弁護士に、「厳しく徹底的に調査を」と戯言をいうが、彼らは顧客(依頼者)の利益になるよう働く。しかるに、どこのどんな弁護士を、どういう基準で選ぶかは舛添が決めること。自分の金で雇う弁護士を果たして(善意の)第三者と言えるのかの疑問は沸くが、「第三者に厳しく公正に調査していただきます」と、何度も何度も繰り返して言うところが嘘臭い。
「舛添さんは、なんであんなことしか言えないんですか?」と聞かれたので、「あんなことしか言えない人間なんだよ」と言っておく。他にいう事があれば言うが、言えないから同じ事ばかり言う。「バカの一つ覚え」という言葉を、彼は見せてくれている。元妻片山さつきは、舛添のバカを見近に知る人物だが、彼女には「称賛」と「お悔やみ」を同時に言いたい。
舛添のようなバカと結婚したことに対する「お悔やみ」と、さっさと結婚を解消した賢明さに対する「称賛」である。舛添はかつて朝日ジャーナル編集長だった下村満子との対談で、「女性は感情的で政治に向かない」と決め付け、その例をこう述べた。「人殺しが上手いのも実は女の方なんです。中国の動乱で三千人殺せば片付くという状況で、小平は三千人にとどめた。
もし、女性指揮官だったら、カッとなってもっと多くの人民を殺していたかも知れない」とし、下村の顰蹙を買う。かつて、「二つの言葉をいえば大臣は務まる」といった政治家がいた。二つの言葉とは、「個別の事案についてはお答えを差し控えます」と、「法と証拠に基づいて、適切にやっております」である。なるほど舛添はそれを模倣しているが、発言主の柳田法相は8日後に辞任。
発言はバカの謗りを免れないが、地元支持者への国会報告会での発言で詳細はこうだ。「9月17日(の内閣改造の際)、新幹線の中に電話があって、『おい、やれ』と(首相に)いわれ、『何をやるんですか』といったら、法相といわれて、『えーっ』て言ったんですが、何で俺がと…。皆さんも、『何で柳田が法相』と理解に苦しむでしょうが、一番理解できなかったのは私です。
私はこの20年近い間、法務関係は1回も触れたことはない。触れたことがない私が法相なので多くのみなさんから激励と心配をいただいたが、法相とはいいですね。二つ覚えておけばいいんですから。『個別の事案についてはお答えを差し控えます』と。これはいい文句ですよ。分からなかったらこれを言う。これで、だいぶ切り抜けて参りましたけど、実際の問題なんですよ。
『法と証拠に基づいて、適切にやっております』。この二つなんですよ。 まあ、何回使ったことか。使うたびに、野党からは責められ。政治家としての答えじゃないとさんざん怒られている。ただ、法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話。法を守って私は答弁している」。着物を脱いでパンツ一丁になれる地元選挙民の会合とはいえ軽率だった。
この発言について自民党の河井克行は、11月16日の衆議院法務委員会で「法相という職を汚している発言」として謝罪と撤回を要求。柳田が「委員会の審議では真摯な答弁を心掛けたい」と陳謝し再開した。その後柳田は、仙谷官房長官から厳重注意を受けている。柳田はその後も法相続投に強い意欲を示していたが、辞任やむなしの情勢となる。クビと言った方がいい。
これが当時、「烏合の衆」と揶揄された民主党政権の実体である。自民党アレルギーから国民は政権交代を望み、鳩山民主党にやらせてみたいとエールを送ったが、結果は散々だった。同じような答弁に終始し、他人任せで説明責任を果たさないバカ知事を辞めさせるのは、都民によるリコールもあるが、人口の多い東京都なら、署名も時間がかかって大変だ。
ならば都民の代表の議会に委ねるしかないが、舛添の議会解散権に怖れをなして保身の議員に対し、それなら都民は怒るしかない。都民の声を代表者する都議会議員が、我が身可愛さで報酬を受けるなど許せないが、保身という名のバカは世に多い。ハゲがバカというのは聞いた事がないが、子どもの頃に大人が「ハゲに悪人ナシ」と言っていたのは耳にした。
自分が生まれた地元での言葉と思いつつも、こういう事が日本のアチコチで言われているのかどうなのか、気になって検索かけてみたところ、あるわ、あるわ、なるほど「ハゲに悪人ナシ」は全国区言葉のようだ。面白半分に友人等といろいろハゲ談義をしたことがある。その中でズラ使用者が死んで幽霊になったとき、ズラをつけているのか、ハゲで幽霊なのかの疑問。
神の存在証明は哲学的に解決を見たが、ハゲズラ論争をした哲学者はいないし、我々レベルでの幽霊談義は所詮は水掛け論。経年で知識も増し、「思念体」などの言葉を駆使して思考すれば、思念体としての幽霊は、理想の姿が具現化されるゆえに。髪はきっと生えることになる。ありし日の一番ベストな状態で幽霊となって、挑んでくるはずだ。「挑むって誰に?」という問題はあろう。
都民ならぬ多くの国民が先の舛添の記者会見に辟易したが、「ハゲは悪人」とは断定できないが、「ハゲに悪人ナシ」が正しくないのは分かった。あれほど有権者や国民をバカにし、欺いた知事がかつていたろうか?東国原は都知事になりたかったようだが、同じハゲであっても舛添のようなバカではないだろう。舛添がしきりに言う第三者を橋下徹弁護士に依頼したら?の声もある。
橋下なら舛添の望みどおり、「厳しく徹底的に調査する」だろうが、その前に橋下は依頼があっても受けないし、また舛添が依頼をするはずがない。仮に依頼をしても、弁護士の仕事としての本分をわきまえる有能な弁護士なら、依頼人の利益のために働くのは当然である。だから、舛添を追い落とすようなことは絶対にしない。橋下は舛添の第三者依頼についてこう語る。
「政治資金規正法違反について弁護士による第三者委員会なんて全く意味なし」、「こんなのでごまかしてはダメ!」と、ツイッターで批判した。橋下はその理由として、「なぜなら政治資金規正法は、公私混同の使い方も違法にしていない。金の支出について記録があれば公私混同でも合法」といい、これは彼が弁護士としての、"悪知恵"部分を世間に披露した。
つまり、「政治資金規正法そのものがザル法。不動産を買わない限り原則支出について制約はない。あとはその使い方について有権者が政治判断を下すというのがこの法律の仕組み」と法律解説をし、その上で、「舛添問題における公私混同をいくら追及しても政治資金規正法上違法にはならない。これは政治倫理の問題。その事をメディアは分かっているのか?」と問う。
普段から議会が追及し、有権者に政治判断を下してもらうもの。「(舛添問題は)都議会の責任」と指摘した。法は完璧ではない以上弁護士というのは、法の網を見つけ、矛盾を提示するのが仕事。そもそも、「政治資金規正法」はあくまで監視が目的で、政治資金の適正な支出を目的にしていない。法に穴がある以上、「法の穴をついて何が悪い?」というのが橋下ならず、弁護士共通の思いである。