首相官邸のホームページに、「アベノミクス"3本の矢"」と題された安倍総理の経済政策が記されている。先の選挙で国民は自民党を支持したかに見えるが、「他の党よりマシ」というのが本音である。それほどに民主党政権の無能・無策ぶりに辟易したのだ。2009年7月21日、衆議院が解散。「政権交代選挙」が行われる。各種世論調査では終始民主党の圧倒的優勢が伝えられていた。
結果、絶対安定多数を超える308議席を確保し、民主党は政権交代を実現させた。308議席は一つの党が獲得した議席数としては戦後最多であり、比例区の得票も2984万4799票を獲得し、これは日本の選挙史上で政党名の得票としては過去最高を記録した。圧倒的人気を背景に成立した民主党政権だが、その民主党政権時代に日本に起きたことは「失われた3年」と言われている。
3年間の民主党政権で3人の総理が誕生した。鳩山由紀夫(2009年9月16日-2010年6月4日)、菅直人(2010年6月8日-2011年8月30日)、野田佳彦(2011年9月2日-2012年11月16日)と、絵に描いたような持ち回り内閣はいずれも短命である。野田政権下で衆議院は解散、12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙の結果、民主党は選挙前の230議席を大きく下回る57議席に終る。
期待が大きかった民主党だけに国民の失望・反動の選挙結果である。我が国の国政史上に大きな汚点を残してしまった民主党政権だった。民主党は2013年2月19日、慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科の曽根泰教教授を招き、「民主党再生の課題」と題して党改革創生本部(本部長・海江田万里代表)の第2回勉強会を開いたが、曽根教授はこのように述べている。
「2009年の総選挙の際に、民主党が政権を取ったらやってはいけないことをずいぶんアドバイスしたが、それを全部やったのが民主党だった」と曽根教授の口は辛辣であった。そして、「民主党は今回の総選挙で大負けしないで済む負け方の工夫もあったが、それにも失敗した」と話す。今さら口に苦い良薬を持ってきても、二度と民主党政権はないだろう。
大物議員の小選挙区落選者は、菅直人、田中真紀子、松本龍、仙谷由人、藤村修、小宮山洋子、樽床伸二、城島光力、田中慶秋、原口一博など。この中で落選の弁を、「国民の民度が低いから」と言った奴もいた。アレから2年、師走の第47回衆議院議員総選挙でまたも菅直人は落選。民主党の海江田万里代表、元みんなの党渡辺喜美、次世代の党中田宏らが議席守れず。
選挙で落選と言うのは国民の支持を得られなかったということだから、その原因が自分なりに分らないのは不幸なことだ。分ればもっと支持を得れるやり方を模索できたかもしれない。選挙は受かることがすべてだから、その場しのぎであれ受かる努力は大事。大学生が就活で面接テクニックを身につけ、好印象を当たえて採用されるようにと同じこと。
コレよりアレがいい、いや、そっちがいい、やはりコレがいい…、多くの「いい」があるから迷う。情報に恵まれていると、よりよいものをチョイスできるし、幸せなことである。自分はひと通り文字を書いた後で、画像や映像をチョイスしてブログを完成させる。どの文意にどの画像や映像を使うか迷うことはない。ぱっと決めて探すだけで、迷わないのはそこまで完成度を求めない。
センテンスに相応しい、これといった画像・映像はあるだろうが、あまり拘らない。偉人や賢人たちの名言はよく使うし、いい言葉を述べる一般人も多く、上手いこと考えるなと感心したりする。個人のブログから名言なり、良いセンテンスなりを拝借しようにも、ふと見ると、「無断転載禁止」の文字があり、それでは使えない。わざわざ断りを入れたりするのも面倒臭い。
せっかく善い文章や言葉に遭遇したのに引用できない…。自分などはしばし断定言葉で書くことが多く、気に触る人には「分ったようなことをいう人ですね?」とか言われたりするが、そんなの当たり前だろ?人がおいそれと物事が分るはずがないんだし、断定言葉であれ何であれ、所詮、分ったようなことしか書けない以上、わざわざそういう指摘の必要はナイ。
人は誰も分かったようにしか書けないのよ。ところで、「無断転載禁止」と断りを入れている人はなぜそうしている?著作権は営利を目的としたものの無断引用を禁じているが、そうでない場合も他人の文章の引用は著作者のお気に召さないものなのか?人はいろいろだからお気に召さない人がいてもいいが、なぜお気に召さないのかを理解できない自分に答えが欲しい。
答えがわからなくとも、疑問を深めれば、それも知識だと思っている。つまり、考えても答えが出せない問題は多く(特に他人の決め事など)、でない答えであっても思考すればそれすら知識だ。自分の文章なり、挿絵なり、写真なりを、利用されてなにを失うものがあるのかが分らない。無断でなければいい、断りを入れるならいい、という人がいた。それって自己満足か?無断が腹が立つだけか?
「常識だろ?」、「モラルだろ?」など言うが、自分の記事を丸ごとであれ、部分引用であれ、誰かが使ってくれてるのは名誉なことじゃないのか?偉人・賢人の名言引用は、それが素晴らしいからであり、同様にトーシロの素敵な言葉、あるいはイラスト、写真に感銘を受けた人がいるのは有り難いことではないのか?自分に知らないところで使われていても…
だから、人が何を許したくないのがまるで分らんのだ。自分の基準が他人の基準でないのは理解できるが、無断転載している人に「やめてください、違法です」っていうのは与えられた権利であって、そのことは間違ってない。が、それで何を得るんだ?さらにいえば、無断使用してる人に何の利得があるんだ? そこまで考えてみたことあるんか?と思ってしまう。ビジネスはそこまで考えることはないが。
ネットにこいう文があった。「無断転載はされて当然、そう思えないならネット上に絵を上げるな」と、一見過激な言い分だが的を得ている。「ネットに個人情報を出すことは漏洩して当然と思え」と同じこと。問題は悪用されるかどうかであろう。企業などのようなしっかりした管理体制がなされていても漏洩するわけだ。ガードもセキュリティも甘い、ブログに晒して引用されたと言う方が心が狭い。
と自分は思っている。が、無断引用を咎められたら丁重に謝って削除をする。人間いろいろだから、引用側は相手の基準に合わせるべきと思う。キャパの大小などと言ったところですぐに身につくわけではない。何が気に入らなイ理由は分らないといったが、想像はできる。おそらく「何様」気質性向か、妄信的遵法者か、それ以外に立腹する意味は理解できん。
自分が引用しようと思った記事は、"「死ぬまで生きよう」という心のリハビリ"という表題で書かれてあり、「もう、(死んでも)いい」というあきらめから、「死ぬまで生きよう」というところに行ってもらうには、どのような心の持たせ方があるのか?という大病患者のブログ。さするに「何様」気質には思えないが、「無断転載禁止」の文字が光る。おそらくこの方は、記事が一人歩きするのが嫌なのかと推察した。
几帳面な方なのだろう。すべてのことを"ぞんざいに"の自分とは性格が真逆だ。「死ぬまで生きよう」が、ことのほか難しい人はいるようだ。それと同じ境遇にならないと「死ぬまで生きる」ことの難しさが分らない。「生きていても面白くないから生きているだけ」という声も耳にするが、せっかく生きているなら面白く、楽しくできないものかと思うが、そのようにできない性格の人もいるんだろう。
「どうすれば楽しいのか分らない」という人は気の毒だ。自分は何をしても楽しい(楽しくない事はしないからか)。スポーツ観戦や趣味やら何やら楽しいという人もいれば、ショッピングが楽しいという人もいる。確かに気に入った何かを買うのは楽しい。自分は何かを買うときはまとめ買いをよくする。靴など一度に10足買ったり、気に入った洋服があれば何着でも。これを「大人買い」と言うらしい。
結局、何が楽しいかは買う瞬間にある。買って家に持ち帰る、あるいは郵送で届いた時点から喜びは減っていく。ブログも同じで、書いてるときが楽しく、書き終わったらもはや何でもない。多くのことがそうなのかも知れん。立花隆はインプット以上にアウトプットが大事と言った。例えば宝くじの正確な情報はというと、集めたお金の53%を国が持っていく事になっている。「ほんまかいな」と思う人は多いかも。
胴元が53%もかすめるなどは詐欺に近い。買うの止めようぜ。「一等が当たる確率は交通事故に合う確率より1000倍も高いのだ!」と主張すれば、立派な分析であり、解釈であり、評価である。これを元に自分は買わない。なぜ人が買うのかは分らないが、買わなくなった奴は何人かいたのは説得力が巧を奏した(?)ようだ。アウトプットの本質は説得力であろう。
企業などのプレゼンテーションは何より説得力が求められる。人と一対一で話すときには自分の思ってることを相手に伝える以外、気が回らなくとも何とかなるが、まったく立場の異なる3人以上の人間で議論になったときは、外の何人かの事も頭に入れておかねばならない。一対一の喧嘩やプレゼンならコミュニケーションも取り易いが、相手が3人のときは他の2人にも理解される必要がある。
女を口説くとき、自分の想いを言いさえすればいいなどと思ってる奴は大概モテない。そんな一方的は単にストーカーと一緒だ。相手がO.Kする状況とはどういうものであるかを想定できる人間が性交に成功する。つまり、説得の話術より納得させる話術が上回るし、相手をやんわり納得させるのが奥儀。自分の言いたいことだけでなく、相手の頭の中で今何が起きているかを考えながら話すこと。
自分にしかない能力、自分にしかない技量はあるだろう。他人に伝授できない、己の性格や生き方に関与するいっても、それだけではダメだろうな。自分のできること、できたことを他者に伝授し、誰もができるようにする人間こそ「仕事ができる人間」の正体であろう。つまり、自身の奥儀をマニュアル化できるかどうかで、いつまでも自分が関わっていなければならないのはダメ。「STAP細胞はあります」。声高らかに叫んだ人がいた。言葉は「ない」ものを「ある」といえる。「できない」ことも「できる」といえる便利なツールだが、「ある」ものが真に「ある」なら、「できる」ことが真に「できる」なら、何も言葉を借りる必要はない。「言行不一致」は言葉を有する人間の常であり、言葉と行動の一致をみないことは多すぎる。よって、言葉だけで人を信じるのは正しくないのよ。
「そんな、人を疑うのはよくない」などと偽善ぶったことをいう人は多いが、言葉を疑って何が悪い?「わたしを信じないのね?」、「オレの言う事を信用しないのか?」って当たり前だろ?そんな言葉を脅迫的、強要的に使う方が間違っている。「言って聞かせてやってみせねば人は動かず」と言った軍人がいた。彼は正しい。そもそも軍隊と言うところは上官は絶対という、道理のない世界だからだ。
仕事の糧は何か?お金だという人はいる。遊びだという人もいる。「ハングリー精神を持った人間は仕事ができる」、「遊び人は仕事ができない」、どちらも間違っている。勝手な決め事をいかにも正しいと思い込んでるだけだ。締め切りのある仕事を巧みにこなせるのは能力であろう。「締め切り効果」という心理学的用語にあるように、締め切りがある事で人間は普段異常の力を出せたりする。
かつて「新春スターかくし芸大会」というお正月定例の特番があった。テーブルの上に酒の入ったグラスを何十個も置き、テーブルクロスだけをさっと引く、一度も触れた事のないギターやピアノ、バイオリンなどの楽器で一度も間違えずに名曲を弾く、剣玉で名人芸を披露するなど、一見「ありえない課題」なのにできてしまうのが、「締め切り効果」である。自らを追い立てることで潜在能力を引き出す。
ふだん、ダラダラしていてもやる時はやる。これが真に仕事のできる人間だろう。いうまでもない仕事は生産性である。勉強とて同じこと。ダラダラ机の前に座っていて生産性が上がるわけがない。どちらも「集中力」という能力がモノを言う。「一夜漬け」も立派な能力だし、これも締め切り効果である。仕事や勉強に集中力を見せる人間は、同様に「遊び」も集中力でこなしてしまえるということ。
「よく学び、よく遊び」という標語の裏には「集中力」が潜んでいる。仕事の評価、勉強の評価を自らして満足感を得ている奴は、自身の満足感や達成感が成果の物指しになっている。まあ、人間の自然な感情だろうが、こういう奴は実は大した事はできないものだ。よく頑張った、前より良い物ができた、という満足感や自己評価は、実は相手にとって何の関係もない。
自分をよいしょする奴に周囲は「凄いね」、「頑張ったね」と口裏を合わし、お世辞を言うが、ようするに本人がそれを求めているのだ。それを人に認めてもらいたいという甘えは、幼児気質が抜けていない子どもである。本当にできる人間は自分に厳しいし、他人の世辞の類にも反応しない。まあ、「褒めたのに無愛想な奴だ」という人間もいる訳だから、会釈くらいはしておくのが世渡りだろう。
が、他人の評価を充てにして何かをしてるわけじゃない。ブログを止めた人の多くは、「閑古鳥が鳴いている」、「誰も来てくれない」、「一人で書いても張り合いがない」と言う人は、何が目的かを表している。始めからオワリまで転載記事で満たしてる人も多い。転載記事が悪いとは決して思わない。それを見ていない人には初出になるから。であるけれども、一言主観なり、感想はあっていいのでは?
書く事は調べること、調べることは考えることである。「調べる」ことなしに「知る」ことはできるが、「知る(知りたい)」ことなしに「調べる」はあり得ない。何かについて考えることは、「当面の答えを出す」に至る道程のこと。その「考える」を最も効率よくこなす行為が「書く」、「話す」である。思考の末に答に到達しなくとも疑問を深めれば、それも知識である。「やる」は人のためではない自らにである。
勉強やって100点とって褒めてもらってそれでやる気が沸くという子どもはいる。が、その子がそれを本気で好きでやるかどうかを見極める親なら、そう言う事はむしろ害悪と感じるはずだ。facebook創始者ザッカーバーグの父親の教育方針はユニークで、セレブ家庭にありがちなカネにものを言わせた子育てをしていない。息子の本気度を見極める父である。
日本で変わり者といわれれば人を見下げる代名詞となっているが、ザッカーバーグの変わり者の父は、"difference"という評価に値する。当たり前の発想ではザッカーバーグは存在しなかったかもしれない。好きな事はやり、嫌なことも逃げず、興味をもってやってみる。"手のわろき人のはばからず文書きちらすはよし"(徒然草 第三十五段)