いつからなのかテレビはバラエティ番組全盛で、それだけ番組が多いというのは、多くの人が見ていることになる。無芸芸人の何が面白いか理解に苦しむが、彼らが自分のバカさ加減を自慢し、相手のマヌケさを披露し、トンチンカンな返答で自分の無能を誇示し、そんなこんなのやり取りを聞いていると、笑えるどころか、つまらないを超えてテレビを消したくなる。
テレビの一方通行が問題になった時期があったが、最近は一方通行でよかったと思っている。こやつらとまともに話はできないだろう。チャップリンやモンティパイソン、ハロルド・ロイドなど、欧米のコミカルタレントやグループは、知的な笑いを提供してくれるが、彼らは日本人の無芸芸人とは笑いの質がまるで違う。質の差とは、"地バカ芸人"と、"知性芸人"のことを言う。
芸能人はともかく、自分の思う男の最強バカとはどんなバカか?その前に養老孟司氏のいうバカとは、自分の考えにこだわり、相手の考えを耳に入れない。全体の状況を考えて、多角的視点から適切な判断を下せない。などの人間に贈られる称号のようだ。そういう人間が、自分のいやな事、知りたくない事、興味のない事に対して、「バカの壁」を作って情報を無視する。
知りたくない、聞きたくないと「壁」を作って遮断している人間に、「話せば分る」などは土台無理。なぜ、そうまで頑なになるのかだが、自分の母親がまんまの人間なので推測しやすい。まず、支配欲が強い。だから自分の言う事を聞く相手、自分の思う成果を出す以外に子どもを褒めることはない。常に自分が物事を裁きたがり、それができないとストレスを感じる。
要約すれば「神」でありたいということ。誰にも従わず、誰にも従わせたがる。相手にストレスを与えるし、周囲を困らせていることが多いが、思いのほか自らが人間関係に悩んでいる。人と合わせる必要があっても上手く折り合えないから、人との交流をしたがらない。このように自分がこの世で一番偉いと錯覚する人間は、裸の王様であることに気付いていない。
人と交流したがらない人間にはいろいろ理由があろうが、交流してもゴルフや酒やパチンコの話題しか出せない人間がいる。政治や経済の話題ももてないのはテレビのニュースを見ていないのだろうか?確かに本を読んでいない人間は視野が狭い。視野が狭いのは関心が狭いのだろう。関心が広ければそれについて知識を得、思考を深めるために本を読むだろうから。
12月10日放送の「クローズアップ現代」は、『日本 "読書 ゼロ"社会の現実と今後』というタイトルで、読書時間ゼロが日本人の2人に1人にまで拡大していると警鐘を鳴らす。日本社会に広がる読書ゼロに強い危機感を抱く大学。ある大学では4年前まで貸し出し数は増え続け、年間17万冊に達していた。それが一転、毎年1万冊のペースで貸し出し数が減り続けている。
ある大学教授は、「本を読まない学生に論文の課題を出しても自分の意見を言えない。表面的な話をいくつかつなげ、それが自分の意見であるように錯覚する傾向性が見える」と危惧する。読書が脳に与える影響を研究する東京大学大学院の酒井邦嘉教授は、読書は五感を駆使するので、読書をしているときの脳は、ほかの活動をしているときとは違う特徴があるという。
「本を読むという行為は決して情報を得たいというためにやるわけではなくて、むしろ『自分の中からどの位引き出せるか』という営みなのです」。酒井教授のいうように、読書を通して過去に見た風景などの記憶をもとに、想像を膨らませ場面のイメージが脳の中に出来上がる。読書によるこうした一連のサイクルが、想像力を養うことにつながると考えられている。
「読書と言っても、そういう言葉だけでは実はなくて、視覚的に映像を頭の中に想起するとか、過去の自分の体験と照らし合わせて対比して考えるとか、自分で得られた情報から更に自分で自分の考えを構築するというプロセスがはいってくるので、人間の持っている創造的な能力がフルにいかされることになります。」(東京大学大学院総合文化研究科 酒井邦嘉教授)
ゲストの立花隆氏は酒井教授の説に対し、「視覚がまずきてみたいなね、そういう感じはまったくないですよね。ある本、ある文章を通してその人の脳を刺激する仕方ってものすごく違うわけですよ」と異論を述べ、「若い人が読書をしなくなることで、知的劣化が起こるのではと多くの人が心配しています」との国谷裕子キャスターの発言に立花氏はこう切り返す。
「知的環境そのものの変化の中で、むしろこの変化を利用してどんどん自分の知的能力をふくらませていってる人たちが、一方でものすごくいるんです。」と、固定的な思考を批判。折角の番組を立花氏にほぼ全否定された「クローズアップ現代」であり、それならと最後に国谷キャスターが、番組最後に問う。「本を読む上において最も頭を鍛えるには何をすればいい?」
立花氏は、読むだけではダメでアウトプットの必要性を説く。「何かをまとめて書くという体験に行かないと、より読書が深められない。知的な内容のものを深めるだけではなく、全体をまとめるためには、書くという行為が必要になる。」と、いうように、読むという行為が発見であるなら、書くという行為は立花氏のいうように、全体の"まとめ"であろう。
まとまりのない文章を書いている自分がいうのもおこがましいが、自分的にはまとまりを求めて書いているつもりである。"つもり"だから、実現できているか否かの主観判断は他人がすることだが、"つもり"という意識は大事であろう。ただし、安易に便宜的に使われる事も多い。「謝罪のつもり」、「親切のつもり」、「努力してるつもり…」など、確かに便利な言葉である。
「ブログは暇つぶしでね…」そういう意識はさらさらない。自分はブログに限らず暇だから「暇つぶし」に何かをやるという意識がない。そもそも「暇」と言うのが何なのか分らない。「暇だ~、することがない」などという人は何故にそうなのか?することがないということが実際あり得るのか?そこが分らない。本来「暇」というのは、することがない事を言うのではない。
しなければいけない事(義務・強制)から解放された時間だと感じている。ならば義務・強制でない自分の時間を持てて幸せだ。それなのに「することがない」とはなんということ、つまらん事を言ってると感じる。「男は敷居を跨げば七人の敵あり」と言われるほど(七人とは多くのとの意味)に、男は元来忙しいのである。だから、こういうことをいう男は自分的にはバカ男。
苦労も多いが苦労は肥しであって、そんな苦労はものともせずに立ち回るのが男である。そうはいえど、年齢を重ねるとソワソワの時間がなくなってしまう。ソワソワを味わえない淋しさを感じる。至れりつくせりの便利な文明社会で、あえて不便さに身を置く事もある。クルマで行くところを自転車、自転車で行けるところは歩き、歩いて行けるところは這って行く。
まあ、それはないだろうが速さは便利である。瞬達メールもいいが、2~3日かかる封書・手紙に趣がある。手紙の裏には差出人、開封までのわずかな時間のときめき感…、さまざまな思いが頭を過ぎるし、それらはある種の興奮に似たものだ。何より手紙の良さは自筆の温かさ。近年は賀状も機械に頼っている。かつて司馬遼太郎は、文明と文化の違いをこう説明した。
「ビルが建ち並び、電気水道が通ればそれはもう一つの文明である。しかし、文化は違う。人間の営みとそれに付随する精神というものがなければならぬ」。手紙は、古くから用いられてきた文化であるが、手紙を書かなくなって何十年になろう。書くといえばブログくらいか。"打っている"が、書くというのは時代の呼称だ。お風呂がシャワーであったりするように。
日々の生活で便利さは優先されてしかりだが、便利の恩恵に頼らず、時には文明に批判的になって、文化を見つめ直すのもいい。最強バカ男といいながらも我が身振り返れば、人間はバカに向かっていってるのではないか。バカはまれにみるものだったが、常時バカが増えていく気配を感じている。謙遜は自尊心の裏打ちと思えば「自分はバカだから」も易々言えない。
まあ、不用意な謙遜はイヤらしいので言わない事と決めている。どうにもならない人間を指して「バカ」と言う事が多いが、「人にバカという人がバカ」という反論はさすがに大人からは聞かれない。アレは子どもの喧嘩の常套句だ。人にバカと言う際は根拠を示さないと情緒的になってしまう。だから必ず根拠の提示を怠らない。でなければ人に「バカ」というのは難しい。
立花隆は1995年、東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。1996年 - 1998年には、東京大学教養学部で「立花ゼミ」を主催。その立花が『東大生はバカになったか』を書いたのが2001年で、なかなかセンセーショナルなタイトルであった。その中で立花はこのように記している。「歴史をたどれば、昔から東大生はバカだった(あるいはバカに育てられた)のだ。(略)それはもちろん基本的な知的能力を欠くと言う意味のバカではなく、コンドルセが教育の目的として述べている(略)「教育の目的は現制度の賛美者をつくることではなく、制度を批判し改善する能力を養うことである」という言葉に照らしてバカと言っているわけだが、実は最近の調査によると、東大生の中には、本当の単純バカが相当程度出てきているらしいことを知って、私はかなりショックを受けた。
立花のいう単純バカとは、現今の東大生のなかに、一円硬貨の直径(2cm)を0.1cmとか、5cmと答える者、東京―札幌間の直線距離(831km)を30kmと答える者、地球一周の長さ(40000km)を6000kmと答える者がいる。漢字を書かせると現段階⇒現代階、単純⇒単順、公害⇒工害、結果⇒決果、匹敵⇒必敵、自由化路線⇒自由化路戦とあらば、立花ならずともショックだろう。
教養とは、全体を幅広く見る巨視的能力を身につけることで、人に教養がないと近視眼人間になる。立花は教養をこう定義する。「教養とは、他者があなたを判断するとき、それがないとバカにしたくなるような一連の知的属性。それがあるからといってリスペクトしてもらえる訳ではないが、それがあれば大抵の人から、こいつは対等に言葉をかわす価値があると思ってもらえるだろうような知的属性。」
一円硬貨の直径を0.1cmと答えた東大生を想像してみる。実寸の2cmはとりあえず置いておいて、0.1cmというのは1cmの1/10だから、まずは1cmというのがどれくらいの長さを知る必要がある。最も分り易いのは、筆入れにある20cm定規を思い出せばいい。そこには1cmずつ20の目盛りが記されているが、1cmの長さが自然頭に浮かぶだろう。して0.1cmとは1mmのことである。
一円硬貨が1mmであれば、それは鼻くそ以下の大きさだ。この東大生は何かを勘違いしたと思われる。1cmや1mmの長さを想像できるなら、1円玉を正気で1mmと思うはずがない。次に東京―札幌間の直線距離(831km)を30kmと答えた東大生。30kmの長さが想像出来ていなかったのだろう。教養としてマラソンの距離(42.195km)を把握していればこんな数値が出るはずがない。
東京―札幌が30kmならマラソンより短い。40kmちょいの距離を2時間ちょいで走るランナーのスピードは時速は20km(秒速5m)となる。東京―札幌の実測831kmを直距離で走れば41時間かかるが、30kmと答えた東大生は、日本地図が頭に浮かんでも、地図中30kmの距離感がシュミレートできないのは、一度足りとも地図上で距離計測というお遊びをしなかったのか。
ちなみに東京・日本橋から30kmは、大宮、柏、横浜となる。したがってこの東大生は「単純バカ」の有資格者であろう。地球一周を6000kmと答えた者(実測は40000km)も、距離音痴というか、地図帳あたりを数字(距離)と照らし合わせて眺めるという遊びをしていないのでは?有要なことばかり塾で教わる勉強が沁み付き、遊びから学びの楽しさを感じたことがないと思える。
日本から6000kmといえば、名古屋―ホノルル(ハワイ州)くらいになる。日本から10000kmはオタワ(カナダ)、シチリア島(イタリア)、シカゴ(アメリカ)辺りになる。という風に、一度でもこのようなことを頭に入れたと入れないとでは違う。後は忘れるか残っているかの問題で、雑学の部類だが、距離的感覚を提示できるという意味で、これとて教養といえばそうとも言える。
教養>雑学という言葉の問題ではない。何でも興味を持つか持たないかの差が大きい。知的好奇心といえば聞こえはいいが、「HOW TO」よりも「WHAT」を考え抜くチカラが大事であり、好奇心は学問、仕事、コミュニケーションなどにおける、すべての原動力かもしれない。これが希薄な男は、"最強"とまでいわずとも、周囲から「バカ」の称号を授かるかもしれない。
「○○好奇心」という語句は、「知的好奇心」以外に「性的好奇心」、「病的好奇心」がある。「病的好奇心」とは、好奇心の強度が非常に大きいという程度を表わす言い方。「性的好奇心」は本能領域だからあって当たり前。人が本来隠すところだけに強い好奇の対象となるが、猥褻バカ教師は目に余る。数日前も県内屈指の進学校である青森高校教諭の教え子盗撮…
「男の最強バカ」の称号は青森高校原子真輝教諭他、猥褻教師に贈りたい。原子容疑者は12日午後9時半ごろ、修学旅行の引率中の京都市下京区の宿泊先ホテルで、女湯の脱衣ロッカーの上に仕掛けた遠隔操作ができる置き時計型ビデオカメラを使い、高校2年の教え子らを動画撮影した疑い。原子容疑者の原子爆弾並みのバカな行為に同情さえ抱かされる。
これしか女の裸を見る機会がなかったのか?性に渇望する男の気の毒さ。名門千葉大出身の彼は受験の勝利者であったのだろうが、女の道も自らが切り開けだ。マニュアル化された勉強より、自力で女一人口説く方が至難だろうが、こうなっては彼も受験の被害者かなと。勉強三昧による女飢饉が男に常軌を失わせる?気の毒だが受験戦争は斯くの落伍者も生む。