「老害」という言葉は以前からあったが、「暴走老人」という言葉は、田中眞紀子が衆議院議員時代、東京都知事を辞任した石原慎太郎が石原新党の立ち上げを宣言し、ロッキーの音楽に合わせて東京都を立ち去った。眞紀子はそんな石原を、「暴走老人で大変だ!」と批判した。石原はこの指摘に対し、「私は暴走老人だ!」と認め、「暴走老人宣言」をする。
石原慎太郎は眞紀子の父でもあり、かねてよりその金権政治を批判した政敵であった田中角栄について、『天才』というタイトルで著した。大川隆法ばりの霊言スタイルと話題を撒き、一人称文体で描いた奇書とも言われているが、奥付には、「すべては筆者によるフィクションであることをお断りしておきます」とある。小説だが、正直どういうジャンルなのか不明。
田中がロッキード事件でアメリカに嵌められたのは周知の事実だが、石原自身、「自分もかつてはアメリカに洗脳されていた」というのが本書である。石原はサルトルの実存主義の影響も受け、かつて三島由紀夫から、「こんな機会なのだから天下国家のことを考えるといい」的な手紙でもらったのを契機に、「表現の手段」として政治を選んだという。
石原は伊藤整にも、「俳優でもなんでもやったらいい。失敗しても文士は全部作品の肥やしになる」と言われたようで、こちらの影響もあったと思われる。それらから彼は十分に暴走老人資格者である。老人はその気力・体力の無さから、世の風当たりを避け、おとなしくしているべきものかも知れないが、石原の暴走老人宣言は、生き方の自負であろう。
石原は舛添都知事についてこう述べた。「舛添さんの問題はあまりに惨めな話で、ただ彼は何回も結婚したり、離婚したりしているからお金がない。私は知事時代、大きな改革をしたつもりですが、(その秘訣は)役人を使ったことですよ。役人は利口かもしれないが、発想力が全くない。その点、田中角栄という人は非常に素晴らしい歴史観を持っていた」。
とし、ロッキード事件について、「刑事免責に基づく証言とか、滅茶苦茶な裁判で葬られた田中角栄について、最高裁は謝罪すべきだ。最高裁は以前、ハンセン病の隔離政策について患者に謝罪した。あの田中角栄の裁判についても謝罪すべきだと思う。私も長いこと国会議員をやって最古参の一人だけれども、非常に古いアメリカの新聞記者の仲間がいた。
ポーカー仲間だった。彼らが言うんだ。(刑事)免責(に基づく証言の証拠採用)、それに対する反対尋問も許さない。こんな裁判しても良いんですか。これで法治国家といえるんですか、といわれた。私はとても恥ずかしかった」。田中眞紀子に暴走老人と揶揄はされたが、娘は娘、オヤジはオヤジと、石原は政治家田中角栄を評価してやまない。
「私は東大を出ていない。しかし、仮に東大を出ていれば卒業年次は(昭和)16年前期だ。今の次官は16年後期。私は大臣として初めて後輩の次官と相まみえることになった」。昭和46年、53歳で通産相に就いた田中角栄は、こんな就任スピーチで通産官僚たちを笑わせた。尋常高等小学校しか出ていない「たたき上げ」が売りの田中角栄である。
その田中に東大などそうそうたる大学を出たエリート官僚たちが数多く魅きつけられた。田中の魅力にスピーチの上手さがあげられる。発想力や資金力も政治家田中角栄の魅力であったが、スピーチで国民を惹き付け、さらには巧みな官僚操縦術で官僚たちを上手く使った。眞紀子もスピーチの上手さは定評だったが、官僚を使いこなすことは出来なかった。
田中は官僚の名前と顔をこまめに記憶していた。「顔色が良くないぞ。昨晩徹夜したのか。わるいな」などと声をかけたりした。せっかちで知られる田中だが、プライドの高い官僚たちに細かく指示したり、怒鳴りつけたりせず、遠回しな物言いで自発的に取り組むよう仕向けてもいた。ようするに田中は官僚たちの能力を認め、それを引き出すことに長けていた。
一方の眞紀子は、自分ばかりが有能で、官僚たちを無能と決めつけたことで反感を買った。かつて眞紀子とバトルを繰り広げた新党大地代表の鈴木宗男は、田中にこう教えられたという。「いいか。世の中は三すくみだ。役人は政治家に弱い。政治家が人事を握っているからだ。しかし、役人は国民に強い。国民は政治家に強い。だから世の中はうまくいっている」。
角栄は憎めない政治家だが、眞紀子は2012年の衆院選で、新潟5区の地元民からもそっぽを向かれ、現役大臣でありながらまさかの落選である。結局、眞紀子には庶民意識が欠落していたのだろう。それは彼女の著書『時の過ぎゆくままに』の中にも見える。、女がアメリカの高校に留学していたころ、ロックフェラー家の大邸宅に招待されたことを書いている。
角栄は庶民宰相の看板を引っさげて首相になったが、眞紀子は違うし、庶民は遺伝しない。どう転んでも庶民がロックフェラー家などに招待されるはずがない。鳩山由紀夫もお坊ちゃんで有名だが、橋本龍太郎元首相もお坊ちゃまであった。1963年、26歳の若さで代議士になった時、初登院に母親が付き添ってきたことで、そのマザコンぶりが話題となった。
子どもが母親べったりをマザコンというが、妻をママと呼ぶ夫もいる昨今なら、妻べったりをママコンと言っても良さそうなもの。眞紀子の夫である直紀が田中家に養子で迎え入れられたのが1969年。熊本県知事、参院議員、衆院議員などを歴任した鈴木直人氏を父に持つ直紀氏が慶応大学法学部を卒業し日本鋼管に就職していた時のことだった。
角栄は常々、「眞紀子には日本一の婿を探してやりたいんだが、あのじゃじゃ馬娘はさすがのオレの手にもかなわん」と側近に明かし、そんな角栄のお眼鏡にかなったのが直紀氏だった。側近は、「あの茫洋とした鈍牛ぶりは、余人をもって代えがたい」といい、「日本一我慢強い男」というのが眞紀子の婿に選んだ決定打だったということらしい。
「ようやくいいのが見つかった」と、角栄は手放しで喜んだらしい。誰がみても眞紀子嬢にうってつけの人物である。角栄氏のお膝元・旧新潟3区の元後援会幹部も、直紀氏が旧福島3区での衆院選に敗れ、参院新潟選挙区に鞍替えした98年のリベンジ選挙戦の模様をこう振り返る。「応援演説の眞紀子氏は、どちらが候補者かわからないほどの饒舌ぶり。
説が終わり支援者と握手をしていた直紀氏は、みかん箱から降りた眞紀子氏に、『パパ、何をクズクズやってんの!次行くんだから早く車に乗りなさい!』と一喝されていました。この"婦唱夫随"ぶりに、支援者はアッケに取られていました」。直紀氏はバツが悪そうに、「私は妻の下僕ですから」と漏らしていたというが、様子を知らない者でも分かる事。
直紀は2008年9月26日、自民党に離党届を提出。その後、第45回衆議院議員総選挙を目前に控えた翌年の2009年8月15日、新潟県長岡市内で記者会見を開き、眞紀子とともに民主党への入党を表明した。2012年1月13日には、野田第1次改造内閣で防衛大臣に任命され、初当選から約29年目にしての初入閣で、夫婦ともに喜びもひとしおであったろう。
ところが田中直紀防衛大臣は、舌鋒鋭い野党議員らを前に、"世紀の珍答弁"の連発で失笑を買う。自民党はこんなダメ大臣への問責決議案を提出せず、国会でイジメ倒す戦略を描いていた。ところが、「国会中継はクイズ番組なのか。みっともない」、「かわいそうで見ていられない」、「イジメは子供の教育にもよくない』など、有権者からの抗議が殺到した。
思いがけない同情論に救われたハズの田中大臣だが、鼻水が止まらないからと審議中に委員会室を抜け出し、カゼ薬の到着を待つ間、食堂でコーヒーを飲んでいた。「行方不明事件」を指弾されると、「私は日頃のクセで、食堂に行ったらただ座るのではなく、コーヒーを頼む精神でして。今後は国会内ではコーヒーを飲まない決意で臨みたいと思います」。
と、トンチンカンな答弁で再び失笑を買った─。これには野田首相ばかりか、他の閣僚からも見放されて孤立無援になったという。夫の涙ぐましい努力の末の初入閣だっただけに、眞紀子文科相の怒りも相当激しかったようで、野田総理に喧嘩を宣言したというが、「こんな人物が国の安全保障に関わる要職か?」を、敏感に感じていたのは国民だった。
眞紀子文科相も、文科省が決めた新設予定の3大学の開校認可をひっくり返し、その後に猛反発を受けて撤回するなど、自ら「暴走老婆」と化した。これには地元講演会関係者も、「またか…!」とウンザリ気味。存在をアピールしたかったのだろうが、やる事なす事が思いつき過ぎる。父角栄が守り続けた議席を失ったことを問われた眞紀子はこう応じた。
「時代背景が違う。価値観が多様化し、少子高齢化で政治へのニーズも変わってきている」。落選の街頭演説では、「角栄の娘」、「越後の白雪姫(!)」を前面に訴えたものの、「お父さんが泣いてるよ」とヤジが飛ぶ。眞紀子をジャンヌ・ダルクにたとえ、総理待望論をブチあげたのが渡部昇一。「タラは北海道」というが、もし眞紀子総理が実現していたら…
朴正煕元大統領長女で、現在針のむしろに立たされている朴槿恵大統領同様、悲惨であったろう。両名ともに、国家最高指導者だった父親を持ち、政治的資質、資性に富んでいると見られ勝ちだが、為政者に求められる「帝王学」を学んでいない者がリーダーにはおぼつかない。待望論のあった眞紀子だが、その器にあらずとの馬脚を現す結果となる。