遺書代わりにと始めたブログだが、遺書的なネタなどすぐに喪失する。遺書的なネタとは、家族や親族に伝えたい何かを残しておきたいということなどだが、そういうネタばかりで何年も続かない。よって、遺書的なネタを拡大し、父が何をどのように考えていたか、その軌跡を書き残すことにシフトした。変節というよりこれなら書く楽しみも湧くようになる。
音楽記事も多く書いたが、当方の操作ミスで誤って消してしまった。その数400~500はあったろうか…、2006年10月5日に始めたブログだが、初めてコメントは2007年1月9日で、遠い蒼空さんだった。彼は名古屋在住で大学の仏文科の先生で、2010年6月20日に末期ガンにて逝去された。自分のブログを気にいり、「人がこないね、なぜだろ?」と気にかけてくれた。
「蒼空文学賞」など設けて、自分のブログを宣伝してくれもしたが、人のブログを覗いたり書き込んだりなど、の交流を意図しない自分には当然ながら来客はない。遠い蒼空さんは、「コメントがなくて書く気が失せませんか?」と問い、自分の「そんなことはないです」の返答を不思議がった。彼は他者からのコメントがブログを書く張りになるとし、人も同じと考えていたようだ。
確かに原初期には、「わたしのブログにも来て下さい」など、ブログの宣伝コメントが多かったが、人の記事にあまり興味はなかった。遠い蒼空さんは、友だちを増やすアドバイスをいろいろくれたが、悪いと思いながらそれには従わなかった。ただし、記事を書く以上、いろいろなコメントがくる。性別や年齢を想像したり、文章から性格などを勝手にプロファイリングが結構面白い。
賛同もあれば批判もあり、知らない人が知らない相手をいきなり罵倒したり、誹謗するなどのネット特有のコメントもくる。実社会ではそのような非礼はないし、よって斯くの人物は病人というしかない。あまりに粗雑な書き込みは無視をするが、たまにどういう返信がくるかと煽ることもある。少しだけでも文字のやり取りをする方が、性格分析の楽しみもあるからだ。
そういう嗜好は人一倍強いと感じている。昔から人に興味を抱くほどに人間はオモシロイ。学術的興味とまで言わないが、真面目に興味を持つと、初対面の人でも見えてくるものがある。素直に自分を晒す人、なかなか実態を現さない人、理解するのが至難な人など、姿が見えないことでより興味が沸く。人に興味を持ち、人を思考することの楽しきこと哉。
見えない相手であれ、行間を読むことで老若男女くらいは分かるようになり、推理のプロセスが楽しい。実社会の見える相手よりも、感受性を駆使することで受信レベルも磨かれる。研ぎ澄まさないと見えてこない相手もいる。これらは無意識の訓練だろうが、どんな相手であれ、対象の興味が尽きることがない。罵り言葉を吐く人にあっては背景をいろいろ思考する。
直近の二つのコメントについて、どう考えたかをなぞってみる。3日のコメは、「なんというマスターベーション。さぞ気持ちいいだろうね」などと、下品な書き込みだが、いわゆる「バカの罵り」であり、本来は無視の類のもの。罵りコメをバカと言いながら罵りを返していては、自分も同等のバカである。嫌味で気晴らしする見えない主は、一体どういう人物なのだろうか。
この手のコメは一回限りの言い捨てが多く、情報の特定は難しい。よって、さらなる返信を書かせるべく、「まさか田嶋さん?」と疑問符にしてみた。コメの主は女性であるのは分かるが年齢はわからない。「マスターベーション」などと羞恥な言葉を平然と書く年代として50代以上はない。40代もない事はないが危い。よって、20代、30代であろう。などと勝手に推測する。
田嶋さんであるなどは目くそほどにも思ってないし、「差別主義者」という表題を閲覧する以上、このあたりの社会問題に興味を持つ、もしくは被差別経験者。で、最終的なプロファイリングは、30代後半の独身女性とした。返信を待ったが叶わなかった。しつこさがない点からしてさほど情緒の混乱もなく、それなりの思慮ありとの結論だが、しっかり文を読めてない。
とりあえず気に障ったところで罵ればいいとの動機であろう。自分のようなあっちゃこっちゃ跳んだ文の読解は至難であろう。自分が読んでも日数が経過していれば理解するのは数度の読み込みがいる。理解できないのは、書いたときの気持ちではないからだ。行の短いツイッターならともかく、まとまりも要点もない自分の文章に、随意のコメントは無謀であろう。
高校の現国の教師が常々言ったのは、「現代文は、読んで、読んで、読み込むこと」と、口酸っぱく教えた。確かに読むにつけ御利益はある。テストの御利益とは、正解につながる事。現代文はテストの冒頭だが、読み込む時間の必要ゆえに後回しにする。確かに読むにつけ理解は深まり、書き手の心境に同化するくらい読み込みたいが、時間の制約もある。
とことん分かるまで読むべきなのに、何で制限時間という奴があるのか?正しい答えを求めさせるなら、時間は無制限でいいはずだ。大事なのは「分かる」こと。と、言いたいが、時間制限は合理性の問題。現代文にしろ、小説にしろ、マンガにしろ、書き物の面白さは、書き手の心境に同化することである。そこら辺りまで追求できると、読む楽しさも倍増する。
また、文章表現は、「書き手と読み手の合作」といわれるが、書かれたものなしには、論理も認識も存在しないし、読み手不在の文章も無意味である。書くと読むが根本的に違うのを、文を書いてみるとよくわかる。たまにコメントが入った古い記事を読み直する、これって自分が書いたのか?と、自分で書いておきながら3回くらい読んでやっと理解に及ぶ文章もある。
書くのは難しいというが、実は読むのも難しい。人間の能力で重要なのは、①創造力、②読解力、③記憶力だと聞いた。「読む」はただ読むではなく、読み込むことだが、「読む」の本質は意味の理解である。西田幾太郎は、「読・書・考」といったが、文章を書くための適切な処方は容易でない。文法上誤りのない文章は、正しい文章であれ、美しい文章といえない。
泳ぎ方を学んでも水に入らぬ限り泳げない。誰でも書く力は持っている。してその能力を抽き出すためには、自らペンをとり白紙に文字を埋める作業を積み重ねるしかない。何かをいうとは何か?何か言うべきことを持つために何が必要か?そのためには、表現主体の内側が耕されていなくてはならない。つまり、「言うべきこと」は発見であり、創造である。
「読・書・考」の反復つまり、読んで、書いて、考える。上に記した、「書く」と、「読む」が違うのは、書いているときは、「書く」に専念し、読み手になった場合に自分の文は客観的に映るが、書いているときはさながら主観的である。自らの文をして、書き手と読み手の差となる。ピアニストの内田光子は、「ピアノを弾く理由は、音楽を自分の耳で聴きたいから弾く」と言った。
多くの子どもがピアノを弾いているとき、大方は聴いていないし、弾くことに夢中である。十本の指を駆使するピアノはそれほどに難しい。ところが達人となる、ピアノを弾くのは聴く事が主体となる。同じピアニストのグレン・グールドは、弟子をとらない理由をこう述べた。「誰かにテープ係になってもらい、生徒の演奏を録音し、後で聴かせることが最善の学習である」。
ピアノに限らず音楽(楽器)を奏すのに大事なことは、「聴く」こと。グールドは続ける。「本当にためになるものは、自分自身を見つめることからのみ得られる。教師にできる最良の事は、生徒をそっとしておいてやる事。ただし、いくつかの質問を投げかけて、自分の演奏には疑問の余地があり、その回答は自分で見つけるのを自覚させる事。教師にできるのは質問する事」。
弾き手が自分の演奏のどこが自分で気に入らないか、を自覚させるのが教師というのはよくわかる。試しに自分の出来る楽器演奏を録音してみるといい。ピアノであれギターであれサックスあれ、「なんだこの演奏はヒド過ぎる!」と感じれば、そこから修正が始まるのだ。他人の指摘より自らの発見が大事。グールドのいうように、教える立場とはそれ以上の何もない。
彼女には、「中傷は匿名であれ、(コメントの少ない)ココでは目立つよ」と伝え、反論はなかった。最新は5月11日のコメントである。書き手のプロファイリングでは、罵り目的でないのが分かる。理由として、「内緒」モードであったこと。内緒でも誹謗・中傷もあるが、「いままで見たなかでもトップクラスの駄作レビュー」のくだりは、罵りというより意見であろう。
素直な批判意見と感じた。書き手は映画レビューのみを期待したようだが、読むうちに話がアチコチ飛んで、「なんじゃ、これは?」となった。それで、「こんなのは映画レビューなんかじゃない、要旨もない、まとまりもない最低レベル」と感じた。映画レビューの期待感からすれば当然である。書き物の良し悪しは読み手の判断基準でなされるものだ。
読み手は「僕」からして男で、年齢は13~16くらいか。「駄作」という言葉にそれを見た。相手の知識レベルにもよるが、高2、高3くらいなら、「駄文」という言葉を使うのではないかと、これはあくまで主観である。「途中からよくわからない政治の話がが出てきたり、最後は謎の命令口調で締められたりと…」の行は、知ったかぶりのない素直な表現である。
若者から、「命令口調」とのの批判は改めるのが柔軟さで、強い言葉に反感を抱けば中身が伝わらないのは、自分も経験したから分かる。年長者は若い人から忘れ物を思い出させられる。若者に対するエールも、言葉の使い方ひとつで、「馬に念仏」と化してしまう。お偉い先生方なら、「少年よ、大志を抱け!」の命令もまかり通ろうが、自分はそこいらのただのおっさんである。
この少年は、家庭環境に特別問題がないのは、自分の映画レビューに、感慨がなかった事で分かる。自分の境遇に無関係であっても、感受生の高い人は想像力を働かせる。人それぞれの生活環境が、同じ映画一つにおいても、受ける印象はまるで違ってくる。共感、否定、どちらもナシ…、というように。人の情緒は生活環境によって異なる。
が、人間はどうしても、「自分に理解できないものに否定的になる」のは、イソップ物語の『酸っぱいブドウ』の例が示す。取ることの出来ないブドウを酸っぱいと慰めるように、自分にできないこと、理解に及ばぬことで自尊心を傷つけられ、だから対象を揶揄し、非難する。「人間の証明」という映画があったが、「若さ証明」とはこうしたもの。自ら気づかぬ限り判ることはない。
高い向上心で伸びていく人間は、できないこと、分らないものを対象のせいにすることない。すべてを自らの至らなさとすることが、向上の糸口になるからだ。人間の差というのは、そういう出発点の違いであろうが、そのことを理解し、できるようになる年齢も人によってマチマチだ。自分は遅くて30代くらいだった。人間は生あるかぎり向上すべきで、終点はない。