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『罪と刑罰』から「汚辱刑」

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年をとって思う事は、知ってる人がどんどんと消え、知らない人がどんどん増えていく。理由は言うまでもない、若い年代には時代の只中に生きていたが、老齢になるとその時代に生きてるという感覚が失せ、自分たちの生きた時代は遠く去ってしまっている。別の言い方で、「時代音痴」になっている。テレビで観る芸人や歌手や俳優たちの知らないこと甚だし。

そう分析してみた。確かに、新しいこと、新しいもの、新しい人たちを知らない。古い事はどんどん古くなり、喪失し、古い人たちもどんどん消えていく。仕方のないことだと思いながら、世間ズレのままに余生を送る老齢者である。新しいものに関しては、若い人に太刀打ちできるハズがない。となると、我々は若い人たちにひれ伏さなければならないのか?答えは「YES」。

若い人たちに、「時代遅れ」とツマハジキにされてしかりである。当たり前だし、自分は現代的な知識を組み込めていない。それで、「年寄りを粗末にするな、大事にしろ!」って吠えても無理がある。年寄りを大事にというなら、「そっと」放って置いてあげることではないかと…。老齢者も若い人にツマハジキにされるのが苦痛なら、老人の集団に寄って集っていることだ。

若い人と打ち解けたいなら、現代にしかと目を向け、様々なことに興味をもち、あるいは吸収し、習得していくことだ。そういう気概も気力もないなら、老人クラブで昔話に花を咲かせるのが無理のない生き方である。中島みゆきの『時代』のなかには、普遍的な言葉がある。サビの部分の以下の歌詞。「まわるまわるよ時代はまわる 喜び悲しみくり返し」の部分。

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みゆきのいう、「喜びや悲しみを繰り返す」というのは、仏教でいう輪廻転生であろう。弥生時代や平安・鎌倉時代、江戸・明治時代にあっても、人の世には悲しみと喜びが存在した。当たり前だから普遍性である。お釈迦さまは、「六道輪廻」というのを発見した。当初は五道(地獄、畜生、餓鬼、人間、天界)輪廻を発見され、後に阿修羅界が組み込まれて六道輪廻となる。

生命は、この6つの境界をグルグルと移り変わっていくと釈迦は言った。地獄に堕ちる者、動物や虫などに生まれ変わる者、餓鬼になる者、人間に生まれ変わる者、天界に召される者、そして阿修羅である。阿修羅とは、インドにおける悪魔の通称だが、リグ・ベーダ(バラモン教の聖典)においては、常に悪い意味とはかぎらず、特殊な神格をさす場合もある。

釈迦のいう、「阿修羅道」は、妄執によって苦しむ争いの世界。果報が優れていながら悪業も負うものが死後に阿修羅に生る。阿修羅の意訳は、「非天」という。これは阿修羅の果報が優れて天部の神にも似ているが、天には非ざるという意義から名づけられた。人間道の下とされ、天道・人間道と合わせて三善趣、あるいは畜生道・餓鬼道・地獄道・阿修羅道の四悪趣に分類される。

みゆきは時代を喜楽・悲哀と単純に捉えたが、彼女のいう時代とは世代のことをいう。時代とは、時間の流れを何らかの基準で区切った一定期間をいい、世代とは、(人間の生きる時間を前提)として、同じ時期に生まれた人たちの共有する期間をいう。喧嘩別れした恋人も夫婦も、次の時代では前世を知らずにめぐり合うと、互いが人間に転生した場合の輪廻を述べている。

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方や虫、方や人間に生まれた場合にはあり得ない。単純であるが共感する。釈迦の教えは複雑だが、生まれ変わりは人間である方がロマンチックである。もっとも、生まれ変わりなど、有るのか無いのかは定かでない。仏陀の生まれ変わりという基地外もいるし、美少年と誉れ高い天草四郎であるという準基地外もいる御時世。「基地外」という言葉にもユーモアがある。

♪今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩き出す、という語句はなかなかよい言い回しだ。道半ばで挫折した人々に来世への光明を見出さんと述べている。人は挫折しても来世の希望で死ねるものだろうか?いや、そうするのが穏やかな「死」であろう。この世に遺恨を残すよりも、次の世に思いを託す方がよい。もちろん、この場合も生まれ変わりは虫であってはならない。

人はまた人に生まれたいのだろう。自分はそんな事は思わない。前世の記憶がないなら、たとい蚊に生まれ、ゴキブリに生まれ変わって、手の平で一瞬に潰されようと、足で踏みつけられて瞬間に圧死しようと、それが蚊やゴキブリの宿命である。「オレは前世は人間だったのに、何で蚊なんかに生まれたんだよ、トホホ…」という記憶は耐えられないが、おそらく記憶はない。

だから、何に生まれたところで屁でもない。そんなご利益は宛てにしない、期待もない。せいぜい悪を行って世を生きる。たまに善もするが、天国に行きたいからではない。無意識の善、無意識の悪ならそれが人間だろう。地獄で科される労役などは屁とも思わぬが、牢獄で科される懲役は御免被りたい。極悪非道行為をしないのは、監獄に行きたくないからだ。

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宗教的なモラル感など、頭の隅にもない。おそらく極悪犯罪者も地獄に堕ちるという意識は無いのかも知れない。彼らがバカなのは、監獄に行きたくないとの思いは同じでも、おそらく犯罪行為は露呈しないだろうし、よって監獄に行くことも死刑になることもないということなのか?犯罪者の心理分析は容易でないが、後先など何も考えずに行為するのか?それもバカの類だ。

人間は考えなければバカをやる生き物だし、だから考えることは重要である。考えた上での愚かな行為ならそれらの結果は受け入れるしかないし、それを犯罪の成立とする。この世に犯罪がなくならないのは、人間がバカで愚かである事だが、少なくともバカで愚かでいたくないという気持ちを大切にすることだ。バカが犯罪を犯すのではなく、犯罪を犯した者がバカである。

権力者や為政者の弾圧を受け、のっぴきならぬ状況からの犯罪であったとしても、愚かな行為を抑えられないのは理由の遺憾に関わらず「罪」である。人間が間違いを起こす動物と言う前提で「罰」が設けられている。「罰」は「罪」の抑止目的の意味もあるが、純然たる「罪」の対価でもある。「罪刑法定主義」というのは、思想であって、これが近代刑法の原則とされている。

「罪刑法定主義」とは、いかなる行為を犯罪とするか、それに対して、いかなる刑罰が科せられるかが、あらかじめ法律によって定められていなければならない。これは、封建領主や専制君主が恣意的に処罰権を行使するのをチェックするためのもので、起源は遠く十三世紀の「マグナ・カルタ」にまで遡るが、法思想として体系化されるのは、十八世紀以降に属する。

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罪に対する罰の量刑をあらかじめ決めておかないと、人によって不公平の事態が発生することになる。こういう笑い話もある。国のために忠勤を働き、王様にも信頼されていた男が死罪となる犯罪を犯した。ギロチン、火あぶり、銃殺、絞首刑、車裂き、磔などから、王様は罪人に希望の死に方を選ぶよう、最大限の配慮を言い渡した。罪人は王様の配慮に謝意を述べて言った。

「有り難き温情に言葉はありません。お言葉に甘えて私の希望は、老衰でお願い申し上げます」。王様は言った。「いったん約束したからには、それを反故にしようとは思わぬ。そちを釈放し、老衰で死ぬまで待とう」。老衰が刑罰であるはずはないが、希望の死に方に合致はしている。刑罰とは何か?罪を犯したみせしめとして、苦痛を与えるというのが主目的の時代もあった。

十八世紀のイタリアの刑法学者で啓蒙思想家ベッカリーアの著『犯罪と刑罰』の、「汚辱刑」章に以下の記載がある。「自尊心に基づく犯罪、刑罰の苦痛を受けることに自らの名誉を感じているような罪人に対しては、肉体的苦痛を内容とする刑罰をもって臨まぬようしなければならない。彼らは狂信者ゆえ、嘲り、恥をかかせることによる以外、彼らを押さえつける方法はない。

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「自尊心に基づく犯罪」は、「確信犯」という用語のない時代の言い方で、『罪と罰』のラスコーリニコフの犯行も同様である。彼に対する「汚辱刑」の執行者は娼婦ソーニャである。ラスコーリニコフから犯行を告白されたとき、彼女は次の宣告をしている。「お立ちなさい!今すぐ、すぐに行って十字路に立ちなさい、お辞儀をして、まずあなたが汚した大地に接吻なさい。

それから四方を向いて、全世界にお辞儀をなさい。そして、みなに聞こえるように、『わたしが殺しました』と言うんです。そうしたら神さまが、あなたにまた命を授けてくださいます」。こう宣告した彼女は、乾草広場の中央でラスコーリニコフが大地に突伏したとき、その左手、五十歩ほどのところで、物陰に隠れて、ちゃんと刑の執行を見届けていた。

様々な事件の様々な罪に対する罰が「罪刑法定主義」に合致しているにせよ、加害者の死者への罰は納得行かない。稲毛殺人事件の被害者の友人が以下のメールをよこした。「りなっこちゃんは犯人に対して全く悪いことしてないのにこんな目に遭って…許せないって気持ちとで掻き乱れました。(略) りなっこちゃんを思い出してはまた会いたいと思い、いつか私が死んだら会える。

でも、死後の世界はないとも思っているので、あの世いう場所があったらいいのに。あの世はこういう気持ちからも作り出されたものなんだろうなと最初の子息子を亡くした時に思ったおんなじ気持ちになっています。あの世があり、そこで幸せに暮らしていてくれたら自分が安心できるのです」。この言葉に触発され、急遽記事を書いた。罪の度合いは様々だが、舛添知事…

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「あなたはソーニャの声を聞け!」。『罪と罰』くらい読んだのだろう?元学者なのだから…。みみっちい、こせこせした行為とはいえ明らかに確信犯。それを誤魔化すなどは断じて許せない。「汚辱刑」宣告者兼執行者のソーニャにひざまずくしかない。「舛添は日本国民の恥である」と、都民だけではない万民の思いである。恥知らずゆえに居座るのだろうが…


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