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「子どものストレス」の行方 ②

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事件も事故も数人と交じえただけで多くの人に聞いたわけではないが、中2少女のデュオ自殺、15歳の少女の母殺し、いずれもショックであろうことは聞かずともわかる。本ブログの表題は、「死ぬまで生きよう」で、自殺した13歳の2人の少女も、15歳の娘に殺された41歳の母親も、死ぬまで生きたことになるが、これは「死ぬまで生きよう」の真意に概等しない。

13歳と15歳の少女はいずれも被害者であろう。追い詰められたネズミがネコを噛んでも、ネズミは加害者でないように。弱い立場にある加害者を被害者と見なし、正しく処遇するのが司法に委ねられている。自殺少女たちの加害者は今のところ不明だが、15歳少女の加害者は母親である。父親は仕事で不在がちだったというが、無責任の謗りは免れない。

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当事者でないから分らない問題は確かにある。ここにも何度か書いたように、母親が子どもの躾や教育を牛耳って、父親に手出しさせない家庭もある。なぜ、そういう状況になるのかもさまざまな理由があるが、いかに仕事が忙しく不在がちといえども夫をたて、夫にいろいろ相談することは可能である。そうであれば夫も子どものことに積極的になるだろう。

夫を子どもに関心もたせるのは妻の力量でもある。「なぜそんなに簡単に死ぬのか?」、「なぜ簡単に人を殺すのか?」の巷の声は当然だし、周囲や部外者は、「簡単」という言葉をいうが、彼女らに「簡単」という言葉が当て嵌まらないのである。30歳、50歳の「簡単」と、13、15歳の「簡単」は違うし、自分もその年代時、思慮などほとんどなかった。

今、振り返るとバカだったとしか思えない。回想というものはそういうものだし、それでいい。昔の自分をバカと思えるなら、成長があったということだ。このような事件に遭遇するとき、ある言葉が浮かぶ。「何のために、ということが分かっていれば、どのような苦しみにも耐えられる」と、これはニーチェの言葉。彼の引用が多いのは彼の書を好んで読むからだ。

言葉は世の中の多くのことに当て嵌められ、あらゆるところで生きている。夫の死後、3人もの幼子を抱えて懸命に生きる母親の強い生命力に脱帽させられたし、受験生やスポーツ選手の頑張りもそうであろう。42.195kmのマラソンを見ながら、彼らの苦しみは想像しても克明には伝わらないが、ゴールという目標を描いて頑張っているだろう事は理解できる。

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ゴールがないのに走れといわれて誰が走るかと。上の言葉を補強するなら、「何のための苦しみか分らない苦しみは、もっとも耐えがたい」ものではないか。そのことを念頭に改めて考えてみる。13歳少女の自殺の要因は、人間関係に悩んだとしか発表がない。人間関係の人間が誰か特定されていない。親も兄弟も級友も知人も教師も近所のおっさんも人間だ。

報道によれば、両少女とも家庭関係に問題はなく、学校でいじめなども確認されていないが、数枚ともいえる遺書を分析・精査しなければ分らない。「中2病」というのは、いわゆるネットスラングで、「病」とあっても治療を要する病気でも精神疾患でもない。中学2年生頃の思春期にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄した言葉にすぎない。

これでくくる者もいるであろうが、人間関係と記された対象によって思考も変わるので、この件については考えようがない。一方、15歳少女は母親を殺した容疑であり、今のところ本人は黙秘を続けているという。が、15歳少女を逮捕と言うからにはあらかた状況証拠は揃っているはずだ。少女は黙秘を続けているというが、母親殺しを否定はしていない。

逮捕前の任意の事情聴取段階では、「勉強のやり方について、母親とけんかをしたことがある」などと話していた。また、すでに持っていた携帯電話を別のものに変更したいとして、母親と口論になっていたこともマスコミの捜査関係者への取材で分かった。「(友人らと自由に連絡が取れる)スマートフォンが欲しいと母親に言っているが、許してくれない」と述べていた。

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と、いうのを見ても、少女は家族としか通話・メールができない携帯を持たされていたようで、これは非常に拘束的である。なぜ、親はそのような携帯を持たせたかは明らかで、母親とすれば防犯意識であろう。しかし、見方を変えると子どもをまったく信用していないことで、子どもから見れば信頼感を持たれていない親となる。で、そういう親を信頼できるか?

問題はそこにある。信頼できない親、半ば敵対関係にある人間と毎日顔を突き合わせ、あげくあれこれ命令され、従わなければ発奮したり、物を投げつけられたり、「お前なんかいらない」(少女の友人の証言)などなど、ストレスを与え続けたら我慢が怒りに増幅していくのは当然であろう。それが殺人にまで行くか否かは、個々のモラルバランスの問題となる。

自分も同じような母を持っていた。携帯のない時代だが、女性から届く手紙の類はことごとく開封され、あげく捨てられたが、「うちの親はそんなことしないよ」と言う友人が特別に思えて羨ましかった。こんな事は当たり前のことだが、されるのが当たり前の家庭環境では、されないことが特別に思えてしまう。つまり、当たり前の家庭環境ではなかった事になる。

今に思えば「今日、○○という女から手紙が来ていた」と教える父に対し、「そういう事をしないようにお父さんからも注意して欲しい」と頼む発想はまるでなかった。手紙の内容は読めなくても、それを教えてくれた父に感謝していたからだ。これが思春期というものだ。そういう思春期の実体を親が理解もせず、無視し、親の保護意識だけで子どもは育たない。


それが分らないのが視野狭窄的母親という。息子を思うあまり、心配するあまり、鎖で縛って解放しない親と、思春期時期に戦うのは当然である。「小学校の頃は親に逆らわないいい子だったのに…」とバカなことを言う親って、今でもたくさんいるのだろうか?子どもは背丈と体重が大きくなる事だけが成長としか見えないのだろう。非常にバカの類の親だと思う。

少女の父親は警視庁の調べに対し、「教育や子育ては基本的に妻に任せていた」と発言している。「あまり教育に関心がなかった」のか、「関心を妻に奪われ、教育熱を失ったのか」、「恐妻家だから口出しできなかった」のかなどは分らない。が、今後父親に課せられたことは、事件の全責任を取る覚悟で娘との信頼関係を構築していくしかない。大変な道のりである。

父親がどういう性格であるかはわからないが、今後同居するなら事件に蓋をし、よそよそしい父娘の生活を想像しただけで息苦しくなる。自分なら明るく、快活に、事件の事は蓋をするより、「まあ、確かにヒドイ母親ではあったな。お父さんだって同じように殺ったかもしれん」などと、冗談交じりに、あるいは本気も含め、笑い話にする方が二人の今後にプラスになる。

故人を肴に罵るのではなく、悪い事は悪いと、それが親であれ教師であれ、友人であれ、一国の総理大臣であれ、親子が屈託なく話し合う事が大事である。悪い事は悪いのであって、そこを避けたり遠慮をすると、人間関係はギクシャクする。互いが共有できる事は共有する方がいい。親子は縦の関係だが、性の問題は口にだし難いが、人間の誰にも共通する問題だ。

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実際問題、親も同じ行為をしたわけだし、そこは隠さない。学校で性教育をすることになったとき、教師側から反発があった。親からも同じようにあったと言うが、それは今まで、先生はそういう事はしない、親もそういう事はしないのだという上に、生徒や子どもの尊敬があったからだ。バカげた話である。性は押入れの隅っこに隠しておけばいい、そういう事だった。

自分がPTAのときに、丁度小学校の生活科で性教育元年の年だった。性教育の出産シーンのビデオを地元の産婦人科で借りたりで全校生を前に体育館でやったとき、子どもは真実に触れることになった。が、事前の反対は強力だった。何事も初めての場合、当然にしてある反対など当たり前と思っていたし、反対意見を説得するのが発案者の自分の役目であった。

そのときに教師や親たちから聞いた様々な意見は、(滑稽として)今も忘れない。「襖を隔てて子どもと寝起きする住宅事情で、そういう事は親として避けたい」、「子どもがどこから生まれるという嘘を通している」、「自然にわかることをあえて教える必要はない」、「『お母さんもそういうことをしてるん?』と聞かれると困る」など、一切は自分たちの都合である。

イメージ 5教師は、「高学年の女子が傷つくのが見えています」、「もしわたしが6年生だったら、恥ずかしくて耐えられません」、「今、性急にやらなくともこれから学校でやって行くことなので…」などの意見を丁寧に説得したのが懐かしい。「真実を知るという事は、教える側も知る側もリスクはあるが、子どもが真実を知る事を曖昧にする理由は、大人の都合では?」などと…。

大人の事情で物事をぼかすことに、子どもはもっとも関心を持つが、それをぼかして分らないだろう、はぐらかせば済むというのは、大人が子どもを見くびっているからである。大人にとって都合の悪い事は先延ばしにする、それが教育か?今どきの(といっても20年も前だから、当時の)子どもが、コンドームが何のためのものかを知らないものはいない。全員とはいわないが…

ふと当時を思い出したが、親子は、教師は、できるだけ心を開いて、本音で向き合うことが大事である。性は親と子を、教師と生徒を、互いを平行に誘う題材である。性がオープンな家庭には、妙なわだかまりはないのでは?親の都合で子どもを虐げるなら、子どもは子どもの都合で親を信じる対象と見ない。互いが嘘の素振りをするが、そこには大きな乖離がある。

15歳の少女にとって、母親を殺すに至った具体的な動機は、あり過ぎてまとめられないのだろうし、母親を殺害した時の様子や手口は、死体を見たときの生々しさを思い出したくない事として、記憶の隅に排除していると考えられる。だから、口を閉ざしていると推察する。殺ったのは分かっているが、15歳の少女にとって、記憶の蒸し返しには躊躇いがある。


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