ブログを書き、コメントを受け入れる以上、いろいろなコメントが舞い込む。何のためにブログをやるか(書くか)については、ひとそれぞれで他人の事はさて置き自分の理由は何度か書いたが、10年近くやっていると動機も主旨も変遷する。最初は多分「遺書代わり」だったと思う。「思う」としたのは、やはり10年前のことだから、「断定」にも翳りが出る。
記憶が曖昧というのではなく、昨日や1週間まえのような鮮明な記憶ではないので、あえて断定を避けるべきかなと。何しろ10年前といえば、「ひと昔」と言うほどにおぼろは仕方がない。「父はこんなことを考えていたのか…」という実体を死後に伝えるのが目的なのはハッキリ記憶にある。理由は、今は亡き父が一体どういう人だったかを知りたかったからだ。
父がどうといっても父を見てきた自分だから、父がどういう人か分かっている。が、それはあくまで父としての父であって、父が父から離れた父のことを自分は知らない。自分のことをどのように見、どのように考えていたかを生前の言葉や動向で知る事はあっても、具体的に言葉や文字にしたものはない。それが不満でならなかった。父という実体をしる上で…。
自分にとっては父であるが、時たま垣間見る人間という一面、さらには大人たちと会話をする父の社会人としての一面、通夜に来席された父の知人なり友人と言う人から聞いた父の側面は、通夜ということもあって額面どおり受け取れないが、それでも自分の知らない父を耳にできて新鮮な思いであった。遠方から来席の叔父貴たちも、知らざる父の一面を明かしてくれた。
通夜というのは故人を偲び、思い出に浸る場でもあるようで、自然とそのようになる。そんななか、おそらく誰よりも父を知るであろう母の言葉はショックであった。が、時間の経過の中で、ショックも和らぎ父の生前一切のことを肯定する自分だった。父というのは、子どもの前における一つのポジションにすぎない。そんな当たり前の事も考えることにもなれた。
「聖職などといわれるけど、教師だって人間だ」という言葉を友人の教師に直に聞いたことがある。彼は組合活動に専念し、教頭~校長という管理職を目指さない生き方を選んだ奴だが、本音は「目指せない」状況にあったようだ。手の平を変えることを羞恥と感じていたんだと自分は察する。別の言い方をすれば、"要領が悪い"。が、そういう人間は以外に多い。
根っから教頭・校長になりたくないという思いは伝わってこないのが、言葉の端々に聞き取れたからだ。奴も教員仲間内では、自分の知らない別の顔があるのだろう。例えば小学時代や中・高の同級生から昔話を聞くと、自分のまったく知らない自分を聞くことになる。「へ~、そんなことがあったんか?」、「自分がそんなことをしたのか?」などは、当の自分が驚く。
自分は自分を見ていないが、他人の目はこちらを捉えているんだろう。自分は自分を「する」ものでしかなく、他人は自分(こちら)を見るものでしかない。自分は自分を見ていれないし、他人はまた自分(こちら)を「する」ことはできない。考えてみると当たり前だが、このように考えると、自分の行為を客観的にみることに寄与でき(メタ認知)、早とちりや過ちを防止できる。
が、正直いって、自分が自分を「やって」面白いのは、主観的に生きるからで、自分を客観視した生き方は、他人から「善い人」に見えるが、そんなつまらない生き方を自分は選択しない。子どもの言葉でいうと、「いい子ブリッ子」的になる。「いい人ぶる」は、主体生なく自身を偽っている悪い言葉である。人間は大なり小なり自制はあるが、それが過ぎる人間を言う。
小・中学生時分の同輩が、「お前はこうだった」というのは別に構わないが、今直同じだと思っているような言い方をするバカがいる。なぜバカかといえば、その時のままで50歳、60歳であるはずがないが、その間をまったくスルーしたことでそのように思うのだろう。会っていない、言葉も交えていないとはいえ、「人間は成長する」くらいの想像力はないのか?
それがないという意味での「バカ」である。もちろん、15歳から何の成長もないなら、それもバカであるが…。だから、同窓会などで、「あの時はバカやってたな~」など、昔話に和気藹々と花を咲かせるのはいいが、「あの時のバカのまま」としか思えない人間はバカである。が、自分より高い地位にあるとか、幸福そうであるとかの人間に対し、卑屈になるのがいる。
いうまでもない、他人の成功を素直に喜べない妬み根性は、屈折した心情の持ち主である。残念ながらその種の人間も人間だ。反対に、ちょっとばかり偉くなったからと、何様的な気持ちの人間もいる。こちらも残念だが人間である。いろんな人間がごった煮のようにうごめく、それが社会の面白さで、いちいちあげつらうより、客観的に眺める方が楽しめる。
随分前に一度言った事がある。50歳の自分を昔の10歳のままみたいにいう奴に、「人は変わるだろ?そう思えないならお前はバカだ」と。その言葉に返せない彼は自分に立腹したようだ。偏見を指摘されて腹を立てるのはいずれに罪あり?自分は、そういう奴の立腹など放っておく。言わなければ同級生として円満でいれるが、バカを指摘してやるのも、自尊心である。
気に障ることを言うのは人間お互いさまだし、おそらく自分も無意識にそういう言葉を吐いているのだろう。その事は許容しあうべきだが、問題は「バカ」なことを平然という人間で、それを許容するためには、自分も同等の「バカ」を言えばよいが、そこは多少の人間的差がある。田舎に居住の土着人間は、平気でバカをいうが、彼にはそれが真っ当なのだ。
あまりにも醜いし、聞くのもバカげたような事を平然という人間とは、どう転んでも付き合えない。いって直る見込みもない。こういう人間の傍にはいない方がいいが、地域で連帯しなければならないときはどうする?悪いが、「バカ」を「バカ」と指摘して、周囲を徐々に啓蒙リードしていくしかない。「バカ」な考えに従う周囲を変えて行く力と自信があるかないかが問われる。
それがあると思えば遠慮はいらない。こんな事はどこにでもある。スポーツのチーム内にもある。今までAの指導が正しいとされている中に、新たな考えの持ち主であるBが参入すれば、当然AとBとの間に軋轢は生まれる。周囲はそれを敏感に感じる。Bの論理に正当性があればAは孤立をするが、そういう場合にAは自分の仲間を増やそうと躍起になる。
仲間は双方の力関係に困惑するが、最終的には正しさが勝利する。BはAのように仲間を引き込む事はせず、自身の正しさだけを信念とすれば、卑怯で姑息なAより支持は集まる。正しいというのは、それだけで説得力をもち、それが本来的な勝負であるべきだが、それだけで社会は動かない。「Bさんが正しいと思うけど、でもAさんに世話になってて…」
そういう場合も、「人間関係も大事ですからね」と加護してやればいい。正しいものが勝利する場合、人間関係も問題もあって、時間を要すこともある。世の中はこういう事例が実に多い。勉強がよくできるとか、頭がいいとかではやっていけない世界が世の中にある。秀才型脆弱人間より、堂々肝の据わった人間が社会では大事で、それを知れば子育ても変わってくる。
自分は一貫してそれを訴えている。支配階級にいても、リードして行く力量のない人間は、人間関係の軋轢に苦悩するだけだ。正しいことを信じ、自力でそれを組み立て、実行できるらような子育てとは何か?を模索するといい。子どもを弱くするか、度胸をつけるかは、親の力が大きいと感じる。人目を気にし、周囲に迎合する親には、出来ないかもしれない。
「強く、逞しい子ども!」という標語を最近みないが、死語になったのか?勉強できた方が勝ちが蔓延しているのだろうか?いざ、大勢の中ではそんなことは絶対にない。なぜなら企業内や部課所内の混乱のほとんどはリーダーシップの問題である。仏教には「他力本願は救われる」とあるが、社会で他力本願人間は振り落とされ、自力本願の人間は救われる。
面白いもので、皆がよくないと避けることや危ないと逃げたりすることのなかに、そうでない事が多い。つまり上の言葉は、「守りに入っている」現われだろう。リスクを背負いこむ事が、実は元気の源である経験は誰も持っているはずだし、ヒヤヒヤ、ワクワク、ドキドキのない人生ってつまらないと思う。だからギャンブル…という行為も分からなくはない。