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なぜ犯罪者になるのか?③

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フロムの『自由からの逃走』は、ナチズムの社会心理分析業績書だが、そのままオウム真理教集団の分析に概等する。宮台真司はこれを元に、『終わりなき日常を生きろ』を書いたのだろう。オウム真理教による組織犯罪(地下鉄サリン事件だけで死者13人、負傷者約6300人)にすれば、個人犯罪である酒鬼薔薇事件は規模は小さいが、フロムの心理分析が当てはまる。

オウム真理教がさまざまな事件を起こしたからいうわけではないが、宗教嫌いの自分は麻原彰晃の風貌から食わせ物と見ていた。仏教に帰依したとか、空中浮遊をやるとか、そんな麻原を崇める優秀大卒のインテリ信者さえも、「アホかこいつら?」の印象であった。典型的な精神異常者でいうなら幼女連続殺人の宮崎勤。彼には少年Aのような克明な記憶はなかった。

彼が言葉は支離滅裂である。例えば、「ネズミ人間が出てきて、わぁーっとなる。気づいたら女の子が倒れて、肉物体になっていた」みたいなことを言う。異常犯罪にはこのような解離性障害者の実態もある。「あの時は自分でない自分がいた」などの言い方もするが、少年Aにはそれがない。彼は酒鬼薔薇聖斗やバモイドオキ神であるときも、自我喪失はなかった。

少年Aは決して異常性格ではないが、正常と異常の微妙な境界線上にいる、サイコパス(精神病質者)であろう。麻原彰晃については精神科医によって、「反社会性人格障害」、「自己愛性人格障害」、「妄想性人格障害」などとされたが、「人格障害」とは精神異常ではなく、程度の差はあれ現代人の誰もが有するもので、「健常者」と「異常者」を境界するものではない。

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異常者は隔離されるが、その事で平穏な市民生活が送れている。つまり、異常者と定められた方が市民にとっては安全である。今回取り上げた、朝霞少女誘拐事件、闇サイト殺人事件、岡山同僚殺人死体遺棄事件、そして知人の友人が被害者となった稲毛殺人事件における加害者が、決して異常者ではない事。健常者が殺人者として我々の周囲にいる事が怖ろしい。

人は過ちを犯す動物だ。なぜそうなのかを考えた事がある。今でも考えるが、答えを模索するときに他の動物について思考することも多い。例えば子育てにおいても、人間の歪な子育てを他の動物と比較したとき、純粋に動物から学ぶ事はある。同様に、他の動物は過ちを犯すのだろうか?イヌやネコがドジな行動をすることはある。YouTube などで紹介され、思わず笑い転げる。

人間のドジもたくさん紹介され、あり得ないような抱腹絶倒のドジもある。ドジとは間の抜けた失敗のこと、また(自分も含めた)そういう人間を罵っていう時に使う。ドジの正確な語源は未詳だが、「鈍遅(どんち)」が転訛したという説が有力か。間の抜けた失敗でなくとも、「ドジった」といって笑い話にすることもある。例えば、万引きを見つかった時に「ドジった」などと…

刑事事件となった過去の自分の過ちでさえ、「ドジな過去」などといえば柔らかい。「後にパトカーがいるのを気づかず、スピード違反で捕まった。まったくドジな自分だよ」と言う奴に、「そりゃ~ドジだわ」と返す。まあ、「ドジ」は「バカだね~」でもいい。人は多かれ犯罪者である。スピード違反(交通違反)も犯罪者だが、起訴される刑法犯と違って行政犯である。

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免停になれば「前歴1」となり、これも「前科」とは違う。が、刑法のみならず各種法令の禁止や規制に触れるのは、立小便(軽犯罪)も含め、すべて犯罪である。それらを我々は運が悪いと解釈するが、これは故意に起こした犯罪の自己正当化。人間社会に犯罪は切っても切れないし、イヌが人に噛み付いてもイヌを犯罪者(犯罪犬)と言わない。飼い主がいれば飼い主の犯罪となる。

名古屋の「闇サイト殺人」で無期懲役の地裁判決が下った川岸健治はこのように言った。「被害者は運が悪かっただけ。今でも悪いことは、バレなきゃいいという気持ちは変わらない。生かしてもらえてよかった。ありがたい」。事件の首謀者である川岸は、事件後に警察に電話を入れ、自首をしたことで死刑を免れた。被害者の母磯谷富美子さんは、そんな川岸をもっとも卑劣という。

「きっかけをつくった責任より、自首で事件の解決に寄与したことの方が重いのでしょうか?」と、切実に問いかけるが、控訴審においても、川岸被告の自首をどう評価するかが最大の焦点であった。富美子の怒りはその事だけでなく、川岸被告だけが車内で監禁中の利恵さんに2度、性的暴行を加えたこともあり、「この事が軽くあしらわれてなりません」と語っている。

「囚人のジレンマ」は人間の身勝手さを現すが、自分が首謀して仲間を寄せ集め、事件を起こしたにも関わらず、事が終るや否、自分の命が助かることだけを考えた川岸の演技を裁判官は評価をした。別の裁判官なら違う判断が下されたに違いないだけに、富美子さんの気持ちもいたたまれない。これも運が悪かったことになる。「運」というのは時に非情である。

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「人は過ちを犯す動物」と書いた。この言葉は人の世で一般的に提起される言葉であり、あえて否定するべくもないと思われるが、その場合は故意も過ちに含めるから成り立つ。意図的にスピード違反をし、「過ちだった」といっていいものか?そういう言葉が出るのは、ネズミ捕り(交通取締り)にかかったからで、そうでなければ「過ち」だの「ドジった」などの言葉はない。

これは凶悪犯川岸のいう、「今でも悪いことは、バレなきゃいいという気持ちは変わらない」が、正論となる。つまり、人はバレないことを前提に悪事をし、バレたらバレたで心ない謝罪で体裁を繕う。上の言葉を口にするもしないも人それぞれだが、誰も否定はできないし、問題は悪事の度合いであろう。東芝事件、三菱自動車事件、赤福、白い恋人たち、すべて確信犯だ。

歴代の社長3人をはじめ、取締役16人の半数が辞任した東芝不正会計問題は、「利益至上主義」の名の下に1562億円という、膨大な金額の不適切な会計処理が行われ、そのスケールの大きさに驚く。これが歴史ある一部上場企業の実態であろう。会社も人も、バレなければ善人である。犯罪心理学上詐欺行為を繰り返す人は、大きく2種類に区別できる。第一は「空想虚言症」タイプ。

空想虚言症とは、自分の空想や妄想で思い描いたことが、あたかも本当のことのように錯覚、嘘も真実と思い込む。よって、詐欺行為で相手から金銭を引き出す際も、虚言ではなく本人なりの真実で相手を説得する。普通の演技なら嘘のほころびも出ようが、本人は嘘をついてるつもりはないので説得力があり、相手に嘘の内容を真実と思い込ませることに成功する。

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第二は、「演技性パーソナリティ障害」といわれるタイプ。このタイプは、完全な「演技」によって相手を騙して自分をよく見せようとする。嘘を嘘とハッキリ認識した上で、役者を熱演して人を騙す。演技の質が高いほど、完全に相手を騙すことが可能となり、金銭などを引き出すなどの詐欺行為を働く。このタイプは自分の演技力などの能力を、利欲のためだけに使う。

これら「空想虚言症」と「演技性パーソナリティ」の明確な違いは、嘘を自覚しているか否かである。つまり前者は嘘が嘘であることを忘れて真実と思い込む。後者は嘘を前提に行動するが、いずれも相手を巧妙に騙すことになる。今回の東芝も三菱も前者と考えられる。「過ち」を「過ち」として強く認識していなかったのでは?それで責任が逃れられる事もないが。

露呈すれば、整列して例の如く頭を下げる。このような大企業の組織的詐欺行為をみるに「人間は過ちを犯すもの」でなく、「人間は過ちを犯してはならない」姿勢が重要である。なぜなら、「過ち」とされる行動が起るにはそれぞれ原因がある。行動は原因なしに起らない。すべての行動は原因からみれば正当性があるという意味で正しく「過ち」という行動は存在しない。

「過ち」と判断しているのはあくまで解釈である。人が同じ過ちを繰り返す原因、そのことを嘆く理由は、「過ちは繰り返さないはず」という思い込みにある。東芝不適切会計問題にしろ、6年間不適切会計を何ら「過ち」と解釈することがなかったことになる。それを今回第三者委員会から「不適切」と指摘されて、歴代3社長や16人の取締役はどうすれば良いのか?

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人間だけに見られる特有の行動は「反省」であるが、単に「反省しました」が何だというのか?社長以下がテレビカメラの前で、揃って頭を下げるなどアホ臭いセレモニーであろう。彼らは真剣に、「何が間違っていた?」、「なぜ間違っていた?」、「自分や周りの人にどんな迷惑がかかった?」、「代わりにどうすべきだった?」などを積極的に話すのを聴いたことがない。

確かに記者会見で謝罪の言葉は聞くが、何とかその場を取り繕った(許してもらうための逃避的な行動)反省に見えてしまう。人間は許しを乞うという偽善を平気でやるものだが、詫びて、謝って、何とか自分の存在を認めてもらおうとする。存在を否定されたくないのはひしひしと伝わって来る。バカいっちゃいかん、お前らの存在なんかまるでなかったということだ。

だから、見境もなくただただ謝り、相手に受け入れられようと、その態度が茶番である。それが謝罪の本質とばかりに偽善を行うが、罪を真に悔いることは、決して謝ることではないんだよ。謝って許されたいではなく、相手の怒りや憎しみを受け入れ、それらと対峙していくこと。許しを乞うという偽善を犯す者を自分は信用しない。謝罪は言い訳に過ぎない。

だから武士は腹を切った。その行為には、許しを乞うなどの気持ちは微塵もないという態度を示している。何とも男らしい態度であろう。謝って許されたいという女々しさは、本来は男の取る態度ではない。詫びや謝罪の言葉を簡単に吐く男がいるが、真に強い人間は決して謝ったりはしない。誤解なきよういっておくが、謝りたくないから謝らないのではない。

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犯した罪に対する制裁は、相手が自分を憎み殺したいという怒りを受け入れることである。謝ることで何が変わるというのか?謝ることで相手にかけた迷惑が取り返せるとでもいうのか?願っても変わらないものかも知れないが、とりあえず謝っておこうなどはやめたい。真の謝罪とは、言葉すくなに相手の憎しみが和らぎ、自分の存在を再び認めてもらうこと。

善良そうな顔や言葉、行動の底にあるものは、弱々しく相手に取り入って生きようとする卑劣さであろう。真の謝罪をするときに、相応しい言葉がそうそう見つかるものだろうか?だからといって通り一遍の言葉には虚しさを抱く。気の効いた言葉や他人受けする善良な態度や、そういう言動を人間は意図的にしてみせるが、無骨で不器用な人間に誠実者多し。


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