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なぜ犯罪者になるのか?②

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「なぜ犯罪者になるのか?」を考える時、「なぜ自分は犯罪者にならなかった?」を考えて見た。そのことをここにも書いたし、自分の事はそれなりの理解を得たが、犯罪者というのは、人それぞれに様々な事情があるのは分かる。個々に事情はあろうが、率先して犯罪者になりたい者は稀であろう。なぜ犯罪者になったか、当たり前にいえば犯罪を起こしたからである。

正確にいえば犯罪が露呈(バレた)したからである。犯罪を起こしても行為者が分からなければ犯罪者を特定できない。それなら犯罪者とならない。人によっては、「露呈しようがすまいが、犯罪を犯した者は犯罪者である」と考える者もいよう。自身が、「自分は犯罪者だ」と認めればである。が、自分が認識するだけでは犯罪者ではないと自分は考える。

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刑法の原則は、「疑わしきは罰せず」。正確な言葉は、「疑わしきは被告人の利益に」。これは、なんぴとも犯罪の積極的な証明がない限り、有罪とされたり、不利益な裁判を受けることがないとする法諺(ほうげん)である。人を殺していようが、証拠が特定できない場合は犯罪者の汚名はきせられない。証拠がそろい、犯罪事実が確定したら送検され、公判が開かれる。

犯罪は客観的な視点を構成要件とする以上、客観的事実を示す証拠が集まらない場合、自白を証拠採用することになるが、自白は本当に犯罪の証拠になり得るのか?客観的にみれば自白も立派な証拠だが、「自白を唯一の証拠とすることはできない」と憲法にある。つまり、自白だけで犯罪は認定できず、第三者の証言や、状況的証拠などで固める必要がある。

なぜ憲法に定められているかを推測するに、旧憲法下においては、容疑者を拷問するなどによって自白を強要し、それをよりどころに有罪にすることがあった。人間は追い詰められると無実であっても、嘘の自白をすることもある。これを冤罪といい、新憲法下の文言は冤罪を防止するのが目的である。以下の事例は、自白の危険性を示すもの。

息子が父親を殺した。目撃者は母親しかいない。それを庇うために母親が嘘の自白で罪をかぶる。ありがちな事例で、過去にもあった。「私が殺しました。息子は関係ありません」、「本人が言うのだから間違いあるまい」では真の犯人を見逃すことになり、社会正義に反する。「自白は証拠にならない」ではなく、「自白のみを証拠として有罪にできない」である。

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人は自白による自らの有罪を立証できないが、有罪を無罪にすることは可能である。覆った冤罪事件などは自白強要の場合で、公判において被告は一貫して無罪を主張し、「再審」や「やりなおし裁判」となる。反対に無罪判決が出たあと、いかなる理由であれ有罪に変更はできない。これを「一事不再理」原則といい、これも憲法で決められている。

「何人も(中略)既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない」(日本国憲法第39条)。刑が確定した後に、いかなる証拠が見つかろうとも同じ事件を裁判で審理をし、有罪にすることはできない。「百人の罪人を放免するとも、一人の無辜(無実)の民を罰するなかれ」という法格言もある。アメリカではこの原則がより厳格に適用される。

一審の陪審裁判で無罪評決となった場合に検察は控訴できない。つまり、無罪評決は下された瞬間に確定する。日本では無罪判決を受けた直後に検察が上訴するケースは多い。映画『真実の行方』のラストで肝を冷やした人は多いのではないか。E.ノートン演ずる容疑者に対し、無罪尽力した弁護士(R.ギア)が、放心状態に陥るあの場面である。

本作品公開当時、E.ノートン演じる容疑者の青年アーロン役は当初、L.デカプリオが熱望したと伝えられたが、それを奪いとって一躍スターダムに登りつめたのがE.ノートンである。デカプリオにノートンほどのアクはなく、どちらが善人顔といわれればノートンである。ノートンが善人顔であるがゆえに背筋の凍る思いになる。彼の不気味な演技が忘れられない。


我々は、遠くで起こった犯罪について新聞やテレビなどのメディアでその事実を知るしかないが、メディアは犯罪事実のみを伝えるにとどまらず、学者や専門家を登場させ、犯罪について分析したり語らせたり、これは必要なのことなのか、どうなのか? E.H.フロムは、『自由からの逃走』の中で、近代におけるマスメディアの影響についてにも触れている。

人間は他者の影響を受けた思想や感情などを、自分自身のものだと思い込むこともあるとフロムは延べ、その一例として新聞の影響をあげている。一般的な新聞読者にある政治問題について尋ねると、その人は新聞に書いている意見を、自分の思考の結果と思い込んで語るように、マスメディアが人々にあたえる「刷り込み効果」は大きい。

オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995年3月発生)以降、雑誌のコラムやエッセイなどで、「善悪の概念の否定」や、「悪の肯定」が盛んに言われるようになった。社会学者である宮台真司の、『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)あたりが、オピニオンとして代表的なものではないだろうか。同著には、"オウム完全克服マニュアル"という副題がある。

「正義の否定」、「善悪の概念の否定」、「悪の肯定」などは、『ツァラトゥストラ』、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』などのニーチェ思想に通じる。道徳的な価値観を罵倒、冷笑するニヒリズムやシニシズム思想家ニーチェをメディアが流行させることは犯罪の誘発になる?ニーチェ思想が犯罪の動機になるということは、犯罪心理学の分野で以前からいわれていた。

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犯罪者になるためのHOW TO本というより、犯罪を読み解く本。犯罪心理学者がさまざまな犯罪をわかりやすく解説した『犯罪ハンドブック』には、『ニーチェ』の項目がある。1ページという短い項目だが、ニーチェ思想がいままでいくつかの犯罪を誘発したとし、ニーチェ哲学は青年を心酔させ、熱狂させる危険かつ魅力的で麻薬的な作用があるとし、そのうえで、

「彼の影響は大はナチズムから、小は確信犯罪、生の無意味さの極限、ニヒリズムによる実存的殺人にまで及んでいる」とある。ニーチェのいう「超人」にあこがれた青年が起こした例として、1924年にシカゴでおこった殺人事件をあげている。日本では、酒鬼薔薇聖斗事件で逮捕された少年Aが、逮捕後の精神鑑定で「全てのものに優劣はない。善悪もない」という言葉を語っている。

有名な酒鬼薔薇の手記には、「神は死んだ」というニーチェの引用もあった。「全てのものに優劣はない。善悪もない」という彼の発言は、ニーチェの著書に影響を受けたのは間違いない。14歳の少年が、ニーチェやダンテの文章を引用すること自体、恐るべき早熟性といえるし、調書には彼の信じられないほどの、自己評価能力や客観性が散見される。

「善悪もない」といっている以上、彼の犯罪はニーチェの思想であるところの、背徳主義による犯罪だったといえる。酒鬼薔薇こと少年Aについては、学者による様々な分析がなされた。親の躾が悪い、学校が悪い、社会が悪いなどの議論もあり、それらはいずれももっともらしい説明がつくが、そんなことで14歳の子どもが、あのような大それた犯罪を行えるのか?

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再掲すれば、少年Aは、6年生の女児2名の頭をラバーハンマーで殴り、1か月後に4年生の女児を今度は八角げんのう(大型の)金ヅチで殴って脳挫傷で死に至らしめ、さらに10分後に別の女児の腹を小刀で刺す。これだけでも信じ難いことだが、さらにその2か月後、顔なじみの小6男児の首を絞めて殺し、その首を切断して自分の通う中学校の校門にさらす。

新聞社には挑戦状とおぼしき手紙を数通差し出す、というようなことをするだろうか?いかなる識者が、もっともらしい分析をしようとも、常人には理解のできない事件である。少年Aは供述調書の中で、男児を殺したりすることで満足感を得る自分にたいする嫌悪感から、それを正当化するために新聞社に挑戦状を出すという発想になったと言う。

自分以外の何者かの犯行に見せかける、つまり「偽りの犯人像」を表現するには手紙が最適だったと供述調書にある。彼は新聞社に宛てた手紙の中にこう記している。「ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている」。この事は「元少年A」として再びメディアに登場した事でも分かる。手記を書いて収入を得ること事態は違法ではない。

が、自分の幸福が他者を踏み台にした上で成されるのを許すわけには行かない。買って読むのは自由だが、おそらくそうした心ある人間は、興味がある事件といえど、彼の生活源に加担をしたくない。自分はこの事件に強い好奇心をもち、当然、手記は読みたかったが、己の興味を満たす事より、自分の良心が彼への加担を許さなかった。古本なら…?

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