「人はなぜ犯罪者になる?」このような大きな命題に答えを出せるほどの知識も、経験も、学問的素養もないが、考えることはできる。考える意味は答えを求めるためとはいえ、自ら出した答えが果たして正しいものであるか否かは分らない。それならいっそのこと学者や賢人の述べている答えをそのまま受け入れる方が手間も省けるし、自分の考える者よりは勝る。
と、このように考えるのが偏差値世代の特質という。われわれ旧人類にそういう考えはなく、いきなり虎の巻参考書で答えをみるのは邪道だし、恥さらしでもある。こういう諺がある。「親の意見と茄子の花は、千に一つも無駄はない」。これは子どもの頃に母親からしきりにいわれた言葉である。「バカの一つ覚え」というように、同じ事を聴かされると耳にタコができるし、言うほうも同じように口にタコができてるはずだ。
子は親の意見を聞くべきであり、子を思う親の言葉というのは、有り難く、尊く、そして正しく、千に一つの無駄もないものだ。という意味だ。あえて解説しなくても分かっているが、茄子の花は咲いたら必ず実になるということにかけている。と、このことを知って言葉を理解するのがいい。茄子の花はいいとしても、あえていうならこの諺は間違っている。
否定する理由として、親の子を思う心は純粋でない場合もあるって、親の意見が正しいばかりではない。エゴや欲をむき出しする親もいたり、子どもを自己実現の道具に利用する親もいる。諺の作り手は分らないが、おそらく儒家であろう。諺の意味をよ~く考えてみるに、「親の意見にムダはない」であって、「親の意見が正しい」とはいっていない。そこを混同しないことだ。
では、「ムダ」と「正しい」はどう違うのか?となる。その前に「ムダ」とは何?ということが先決で、「ムダ」は「無駄」と記す。辞書を引けば簡単に答えは得れるが、自分は塾の講師のような手っ取り早い合理性を追求する立場になく、物事を根本から思考する。「無駄」の語句についても、楽しくイロイロ考えたい。「無駄話」、「無駄使い」、「無駄毛」、「無駄足」、「無駄口」などがある。
これらの語句はすべて同じ意味の「無駄」に当てはまる。こういう思考パターンをすると、辞書を見ずとも意味に近づく。これが考える楽しさである。昨今の勉強は、学問の楽しさを根本的に奪っているし、そうまでして合理的に大量のものを、ただただ覚えるだけという事が本質的に「無駄」であるか?その無駄を「有用」とする受験システムそのものが間違っている。
そんな無駄なことをして東大に入る必要があるのかと、これが自分の無駄についての見解だが、批判的にならない限り「無駄」を無駄とは思わない。あるいは、「無駄であってもやるしかない」という結論になる。「無駄毛」は無駄でも生やしておくしかないと思う女性がいるのだろうか?乳首のおケケなんか、3日おきに抜いているはずだ。理由?無駄だから。
無駄なものがあっては恥ずかしい、みっともないからだ。もともとそこに、それなりの理由があって生えているものなのに、あってはダメなものである。今の受験制度を無駄とし、無駄でもやらなきゃと塾の講師は仕事がら子どもを洗脳するが、そんな無駄なことをして幸せなのか?幸せになれるのか?と、無駄なことをさせず、別の幸せを模索させる親がいてもいい。
悲惨な子ども時代を送った自分は、子どもの「今」を大事にしたいが、塾の講師が流行らせた「今でしょ!」には当初から批判的だった。どうやったら東大に入れる、優秀大学に入れるに躍起になる保護者に大うけした塾の講師の言葉は、エステの従業員が、「大金積んでもエステはすべき」と同じ我田引水である。人間は自分の価値観に沿うことを信じる。
偏差値入試批判は、茂木健一郎のいうように学力批判ではないし、人物の良し悪しを入試で見ろという事でもないし、学問という多様性を画一的なペーパーテストで判断するのは可笑しいということ。この考えを突きつめると彼のいう、「東大生はバカ」となる。社会的関心度や、受験学問以外でも高い好奇心を抱く東大生もいろいろいるから「比喩」であろう。
「男は幼稚」、「女はズルい」などと、あるいは「女はバカ」、「男はカス」、こういう場合の「男」、「女」をすべての総称と勝手に解釈してムキになるバカがいる。そんなのすべてに当てはまるわけがないと思うが、ムキになる種は他人事とは思えない心当たりがあるからだ。人によっては、「女がすべて○○みたいな言い方は許せない!」と吠えている。
斯くの思慮がなさ、幼児性はまさに子どもと同じ。もしくは、いちいち上げ足を取りたい醜悪な性格の持ち主といえる。聞き流すべきことをあえて、「聞き流せない」と拘る人も、心の狭い人と判断するしかない。「男はバカだ」と女がいえば、「ああ、それはいえてる」と受け流せばばいいし、「女はバカだ」と男がいえば、「そうなのよね~」といってどこにも問題はない。
困ったちゃん女性は、「自分のことを言われてる気がする」と勝手に思い込んで立腹する。、自分が決め付けているのに、「決め付けは許せない」と吠え立てる。こういう人はおそらく、「自分はバカだ」などととは口にしない、高き自尊心所有者であろう。長く生きてるといろんな人間のパターンを知ることとなり、驚くこともなくなるし、対処の仕方もそれなりに身につく。
「みなさん、早く年を取りましょう」これが最近の自分のテーゼである。それくらいに若き頃はバカであったし、「無知もバカ」の類である。書くことの主題が反れるのはいつものことで、だから主題はない方がいいが、反れたらまとめ方という能力も身につくことになる。何事もプラス思考でいれば、人間はそれほど困ることにはなるまいと。さて、本日は何を書こうとしたのだ?
この時点で忘れているので、書き出しに戻ることしばしば…。犯罪者についてだった。どうすれば犯罪がなくなるかについては、いかなる学者といえども名案はなかろう。「銃を持つのは相手も銃をもっているからだ」という論理も頷ける。一番いいのは、銃を作らないこと。さらにいうなら、銃など発明されるべきではなかった。と、これは消極的な思考である。
昔、とある高校がバイク通学を禁止にした。理由はバイク事故が多かったからである。だから悪いのはバイクであり、そのバイクを使わせないのがいい、これが学校の論理である。人を教育(つまり、バイクについての心得)するのではなく、なんでも禁止にするのが手っ取り早いという横着な教育者が増え、それらの意見が職員会議で決定されるのだろう。
「エレキ禁止令」も、「長髪禁止令」も、国民的放送局が「グループサウンズは出場させない」というのもあった。禁止は普遍的な正しさではなく、時代の名残りに過ぎない。「なぜ犯罪がなくならない?」について逆説的にいえば、「すべての犯罪は人間が孤独でいられない」。これについてはE・H・フロムが、『自由からの逃走』で心理を解き明かしている。
近代社会は、前近代社会の絆から個人を解放することで一定の安定を与えたが、それに反して、個人的自我の実現、即ち個人の知的、感情的、あるいは感覚的な諸能力の表現という、積極的な意味における自由を獲得できぬまま、かえって不安をつくり上げたこと。フロムはナチズムの社会心理を分析したことで有名だが、民主主義はまたヒトラーのような人間を生む。
フロムは、ナチズム台頭の因を社会・経済的側面からだけでなく、社会心理学的側面から分析した。人間やある社会階層が政治的、経済的危機状況に置かれたときに起こる、「権威主義的性格」をマゾ・サド的側面から解明した。ファシズムとは、強権的、独裁的、非民主的性格をもった政治運動いい、自由主義・共産主義反対、独裁的指導者や暴力政治の謳歌を特徴とする。
ナチズムとはファシズム運動を、一方ではヒトラーの権威に従い、その犠牲になる喜びを感じ、他方では自分より劣ったユダヤ人などを蔑視・虐待することで、欲求不満や劣等感を解消しようとした心理や行動の現れである。親に盲従する一見いい子が、学校ではいじめを主導するように、親の奴隷としての個性の喪失と、画一化が進行する現代の社会病理である。
よって「親の意見と茄子の花は~」の慣用句は危険である。本当に無駄がないのかどうかは自分が思考して決めることだ。恋愛禁止を公言したバカな親がいたが、当事者からすれば周囲がバカだからおあいこでいい。問題は、子どもが親の強権に犠牲になるか否かである。青年期というのは、体が急速に伸び、成長もし、今まで保たれていたバランスが崩れ始める。
親も小学生時代の良い子と同じように考えてはいけない。心と体が分裂することで、身体と心の葛藤、違和感が青年期の悩みの源泉となる。体毛、乳房、初潮、精通という第二次性徴から、自己嫌悪や不浄感を抱くこともあるが、思春期には性欲との闘いも始まる。性欲とは生理的な欲求に加え、不安から逃げたい、愛されたい欲求、劣等感・無力感からの逃避要求もある。
こうした複合性をどれだけの親が理解をしていることか。子どもの自慰行為を見つけて叱りつける親もいるというが、その事がいたく子どもの心を傷つけ、その反動から自暴自棄になったり、性的不感症になることもある。もっとも身近で、心を許せる親であるからこそ、こどものすべてを受け入れなければならならい。子どもの心の病の多くは親によって発症する。
苦悩や不幸や不安ばかり続くと、人間は誰でもオオカミになる。問題を起こす大半の子は、親のいう事をよく聞く子、真面目で勉強もできる子が多いのは、彼らは親の期待を裏切りたくないという、自分を殺した生き方を続けていたからだ。それがそのまま、思春期をやり過ごせるはずがない。子どもの思春期時期に変革すべきは、むしろ親の側ではないかと。