常々思うことだが、「子どもの幸せ」とは何であろうか?子どもは家族の一員であるから、「家族の幸せ」とリンクする。また、「家族の幸せ」は、「家庭の幸せ」とリンクする。が、いずれ巣立ちをし、幸せに生きて行くのは子どもであり、親は子どもの将来的幸せを、幼少時期から手助けできるのだろうか?できると信じて親の価値観を押し付ける親はいる。
子どもが早いうちから目指すものがあって、それは子どもにとっての漠然とした夢でも、その夢に向かって努力をするなら、それが本当の子どもにとっての幸せの追求であろう。それなら親は積極的に関わればいい。主体は子どもで、親は精神・物質の両面からサポートすることになる。たとえ子どもの夢が叶わなくても、過程において子どもは幸せな境遇となる。
ところが、主体性のない子どもに親が先回りし、他にすることがないとばかりに、勉強、勉強、勉強…、と躍起になる典型的な親病はいかがなものか。勉強の苦手な子どもはいるが、子どもの人権を無視した親の子どもへの関わりは、欧米では考えられない日本的な子育観である。「子どもの幸せは親の主体性」というのが、なぜにこの国で横行するのだろうか。
「子どもの幸せは親が決める」と言う支配的な子育ては、「子は神からの授かり物」という宗教観のなさでもある。親が判断する子どもの幸せが多くの悲劇を生んだ。日本人と欧米人の教育観の違いを、あるドイツ人が記している。夫婦ともにハイデルベルグ大学で学位を得、来日後日本の大学で教鞭をとるドイツ人が、日本の子育てにカルチャーショックを受けたと記している。
当時、16歳の長男、14歳の長女、12歳の次男の父母が、日本で子育てすることに大きな戸惑いを感じたと言う。夫婦は、このまま日本に滞在することは、子どもたちの成長にとって、プラスになるどころか、マイナスになる危機感をもったというが、後戻りは許されず、日本における真剣な子育てを考えることにした奮戦記が、一冊の著書にまとめられている。
幸いにしてドイツ人夫妻は、二つの異なる文化の知恵を合わせで独自の道を探索できたとの結論である。子育て問題において最初にぶち当たったのが、次女の通う小学校のPTA会長を簡単に引き受けてしまったこと。そこでの保護者や教師たちとの接触を通して、夫妻は日本における家庭での子どもの躾、また、学校教育における問題の深刻さを強く感じたようである。
我々日本人にとっては、何ら問題なく当たり前のことが、ドイツ人にとっては深刻で由々しき問題である事に、同じ人間としてその教育観の差異に驚かされた。そういえば日本人でもあり、教育者でも何でもない一介の市井人である自分が、小学校のPTAに初めて関わったときも、部会などを通して多くの教師や保護者への違和感を当ブログに記している。
真剣に子育てを考えるなら当然にして不可解な日本の教育体系や狭い価値観に驚くはずだが、こういう風に書くと"だったら我々は真剣に子育てを考えてないと言うことか"とクレームが来そうだが、まさにそのクレームこそが問題提起である。子育てに正しい、間違いはないという前提で、教育論をかざすのは矛盾するが、オカシイの一番の問題は知育偏重であった。
「知育」・「徳育」、さらには「体育」。いずれも大事なものなのに、「徳」・「体」をなおざりにした点数主義の親が多いということ。成績がよければ人徳などどうでもいいという親は居ないだろう。また人徳があれば成績などとるに足りないと判断する親も居ない。が、難しいのは、どうやってそれをバランスよく配合し、両立させるかであって、そこが上手く行えない。
「知」も「徳」も大事と言う点で異論なくば、自ずと良い子育てとは、そのバランスが取れたものであるという答えが導かれる。それならば、「子育てに善悪はない」という事も多少は言い換えられるはずだ。言葉を変えれば、「躾」と「勉学」の両輪を親が意識すべきだが、勉学は教師や「塾」に委ねられ「躾」は親に委ねられるのが一般的であろう。
つまり、親は「躾」を担当すればいいことになる。「躾」を厳しくするというのは、言う事、成す事に口うるさい親のイメージであるが、決してそうではない。自分の場合は人が社会人になるという前提で、当たり前に身につけるべきことを当たり前に身につけさすという風に考えた。そのように考えれば、教育論をぶち上げる「何様親?」ということでもない。
当たり前のことを当たり前に子に身につけさせたい親は、当たり前の親である。そこに揚げ足をとったり、偏見を抱いたり、そういう親は変わっているか、子どもに当たり前の社会教育を施すことに興味がないのであろう。親が子に施す家庭教育とは、何を前提にしてなされるかといえば、社会教育であって、親が子どもを支配・管理することではないということ。
社会教育を考えるから、他人の子どもの目に余る行為に注意ができるのではないかと自分は考える。電車の車内やスーパー内で走り回る子どもに腹が立つのではない。それがいけない事、危ないこと、であるから注意をする。なぜいけない、なぜ危ないまでを諭す機会はないが(親ではないので手短に注意をするから)、言って分からせるのは親の役目であろう。
社会の教育力とは、単純に悪い事をしたら怖いおじさんに叱られるでも十分だろう。いや、おじさんに叱られるからこそ、行為がよくない事と理解するのが子どもであろう。悪い事だと思わないからはしゃいでいるのだし、親や周囲が注意しなければ、その子に行為の善悪を伝えられない。つまり、行為の善悪を伝えるということが、「叱る」ということである。
とはいっても、気が乗らないときも、面倒くさいときもあり、所詮は他人の子どもを叱らないこともあるが、もし、自分の子どもならそんな事は思わないし、思ってる場合でもない。他人の子への責任感が薄いのはやむを得ない。子ども時分の近所の恐いおじさんを思い出すが、決してそういうおじさんは好かれなかったし、おじさん側も好かれたい気はなかったろう。
デカイひと声発するおじさんもいれば、やさしい言い方のおじさんもいた。もちろん、自分も状況を判断して変えている。緊急性の場合はとりあえず怒鳴ってやめさせる。それを耳にした母親の対応もいろいろだ。大きく三段階に分かれる。①「すみません」と謝る親。②「すみません」とはいうが怒鳴り声に不満を見せる。③「何もいわない」ですっとぼける。
④は非常にマレだが、「何もいわない」+「こちらを睨みつける」。そうであっても親のガン付けなど気にしない。親がどうであれ、危険を緊急的に子どもに伝えたいだけ。狭いところを走り回って、出会いがしらに人に当たったり、商品が崩れ落ちたり、いかにも危険である。「注意しない親の神経を疑う」など、いちいち考えない。そんなことより止めさせればいいこと。
子どもを取り囲む、「家庭教育」、「学校教育」、「社会教育」の三態だが、いずれも薄れているといわれる昨今だ。親は子どもを溺愛、教師はサラリーマン化、他人のこになど興味がない、というのが要因であろう。特に③は、他人の子どもでも危険は危険という愛情があれば注意はできる。現に、母性本能を発揮して注意するおばちゃんを見かけることもある。
「このおばちゃん、本当に子どもの危険を思っているんだな」と教わったりする。だから思わず声が出る。「(この子らは危ないね~)」と声に出さず一人呟くおばちゃんも居たりする。腹では親の顔が見たいくらいに思っているのだろう。注意は社会教育の場ではあるが、そんなことより「危険」という緊急性である。親は子どもに家に帰ってから諭せばいい。
「今日、おじさんに注意されたでしょう?もうしないように」なら70点の親である。本当は、「注意されたからしないように」ではなく、親としての主体性で言うべきで、それなら点数はあがる。いい管理職というのは、「自分はいいけど、他のうるさい上司もいるから止めとけ」みたいな言い方をする。つまり、自分は「いい人である」を売るというのが根底にある。
「人がうるさいから止めとけ」はがダメ上司であるように、そのような言い方をする親も、子どもにいい顔をしたい、嫌われたくない、など真剣な子育て観が希薄であろう。このように、「子育てに善悪はない」といいながら、具体的に思考すれば、様々な問題が現れる。一つのことには多くの要素が発見できる。そのように視野を広げて考えるのも人間の能力である。
将棋や囲碁の強い人は、結局人より多くを考えるからであり、何事においても広い思考から答えを模索するのがよいに決まっている。事物に対する視野の広さ、子どもを取り巻く視界の広さ、自身を客観的に見つめる目、それらが合わさって一つ一つの結論が出る。「あなたはスーパーで走り回る子どもを注意できるか?」という問質しひとつにおいてもである。