1ヶ月前の3月26日、大分県中津市の私立東九州龍谷高の男性教諭(50歳代)が、一部の生徒に定期試験の数学の問題を事前に教えていた問題は、無期限出勤停止となったようだ。教諭は自宅で学習塾を開き、試験と同じ問題を使っていた。同高は教諭を出勤停止にし、弁護士らによる第三者委員会を設置し調査した。教諭は20年ほど前から自宅で私塾を開いている。
当然にして同高の生徒も通っていた。学校では数学を担当し、受け持つクラスの試験問題を作成している。今月になって、生徒の間で「塾で定期試験と同じような問題が出ている」とのうわさが流れたため、学校側が教諭に尋ねたところ、「定期試験の前に、塾で試験と同じ問題を使ったこともある。塾生には試験に出るとは言っていない」などと説明したという。
ハッキリいってこれはダメだ。こんなことが許される道理がない。なぜなら、同教諭の私塾に通う生徒は、試験問題と同じ問題に事前に知り、解いているわけで、同教諭の私塾に通わない同学年の学生とは不公平になる。なんでこういった問題に弁護士を立てて議論すべきなのかは、おそらく処分の妥当性を模索するためだろうが、自分が校長なら以下のようにいう。
教諭 :「試験と同じ問題を使ったが、試験に出るとは言っていない」
校長 :「だから何なんだ?試験に出ると塾生にいわねば問題ないとでも?」
教諭 :「どういう問題があるのか指摘していただきたい」
校長 :「塾生だけに事前に問題を目に触れさせるのと、まったく別の問題で試験を行うのは同じと思うのか?このことの公平性について、先ずは君の考えを聞こう」
教諭 :「試験に出るといってないので問題ないと思っていますが…」
校長 :「そんなことは聞いてない。公平なのかどうなのか?」
教諭 :「試験に出るといわないなら、公平と思います」
校長 :「バカだね君は。出る出ないに関わらず、試験に出ると同じ問題を事前に解かせるのを問題アリと思わないのか?心ある教師なら、私塾で出した同じ問題は全生徒に公平を期するとの理由で避けると思うがね。君の公平とはその程度のもの?」
教諭 :「随分と失礼な言い方ですね。バカとは言葉が過ぎませんか?」
校長 :「あまりのバカさに率直な言葉をいっただけだ。バカに立腹する前に、バカを改めてもらいたい。それができないなら辞めてもらうしかない。どちらにせよ君の行為については、第三者委員会に量って処遇を決める」
教諭 :「私は問題ないと思いますが…」
校長 :「君が決める問題じゃない。生徒全員にアンケートをとれば、生徒たちの気持ちが分かると思うよ。君自身の善悪の問題ではないんだ。おそらく生徒は不公平と言うだろう、君はそうは思わないとでも?」
教諭 :「もし、生徒がそう言ったとしても、私は間違ったことはしていません」
校長 :「返す返すバカだね君は。試験は誰のためにやるのか分かっているのか?学生にとって、絶対に公正、公平であるべきもの。それが分らないで教師をやる資格はない」
教諭 :「学生がどうであれ、校長がどうであれ、試験に出るといわない問題を解かせたのは悪いと思いません」
校長 :「君の考えが裁きを受けるに該当するか、第三者に諮って処遇する」
無意味な水掛け論では埒もあかず、こういう場合、弁護士を交えた第三者委員会を設置が妥当である。世間には個々の解釈で、「よい」、「よくない」の判断はいくらでも可能だ。意図的に悪事を働きながら、「悪いことだとは思わなかった」がまかり通るなら、罪に対する罰は当て嵌められない。「そうか、君は知らなかったのか、なら仕方がないな」って、子どもじゃないんだし。
公立高校教諭と私立高校とでは当然にして身分が異なる。前者は都道府県公務員で、給与は人事院勧告に準拠し、基本的に年齢で昇給する。自治体の中での異動があり、早ければ数年で転勤となる。同一教科の場合、学校を超えた研究会があり、知人も比較的増える。私学教諭の身分は学校法人職員。給与はピンキリで、ピンだと公立の1.5倍くらいのところもある。
逆にキリの場合、公立の6~7割程度のところもある。基本的に異動はなく、系列校が無い場合は定年まで同じ学校に勤めることもある。一般的に私学の場合、理事長(創立者・経営者)のカラーが強く反映する。例えば労働組合に入っているだけで,ボーナス査定が最低となる学校もある。異動がない分校風や人間関係が合わない場合、転勤願いもだせず苦労もある。
私立高校教諭は外部(民間企業とか)から来た先生も居たり、公立のように教師になる為の難しい採用試験もない。だからというわけでもないが、色々な先生が居てもおかしくはなく、学校によっては縁故もある。したがって、上記のようなことを、「そんなの常識で分かるだろう?」といっても、そうならない大人(教師)もいる。常識の度合いは人によって違う。
そういう場合に、非常識な大人(教師)をどうすべきか?そこで言われるのが、「公序良俗」という言葉。「公序良俗」とは、公の秩序、善良の風俗の略語。公(国家社会)の秩序を主眼とする。また、善良の風俗とは、社会の一般的道徳観念を主眼としていわれるが、両者をあえて区別する必要はない。要するに行為の社会的妥当性のことを「公序良俗」という。
教諭の言うように、私塾で出された問題と同じ問題が試験に出された場合、問題を知る者の有利性と、知らない者の不利性は明らかに対等ではなく、両者に差がつくこと自体公平でないが、問題ない(差はない)というのは詭弁である。教諭にそこが分らないなら、何らかの処分を科して分からせる必要がある。教諭は公正性が分らず、同じ問題をだしたのか?
自分の私塾に通う学生の成績向上を目論んだ所業か、これは本人にしか分らないし、問いただしても真実は語るまい。人間はそういうものであり、あらかじめそういう前提で、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と憲法に保障されている(日本国憲法第38条)。これは聞いたことが真実か嘘か分らないなら、聞かずに調べろということでもある。
人を殺した人間に「お前が殺しただろう?」と自白を強要しても、嘘を言ってもいいということ。それを憲法で保障している。ここに憲法の基本的な考え方が織り込まれている。つまり、憲法の規定は個人を律する物ではなく、国家や行政を律する性質のもの。よって、警察などに「不利益な供述を強要」されたとしたら、その捜査は違憲という判断になる。
憲法は、最終的には個人の権利保護を目的としているが、律するのはあくまで国家である。人間の性質は複雑で、自発的に真実をいう者、強要されて真実をいう者、自発的に嘘をいう者、強要されて嘘をいう者などいろいろで、大体この4パターンだが、当事者がどれに該当するかなど、誰にも分らない。嘘発見器という手法もあるが、証拠主義が妥当だろう。
人は動機(欲求)を持たないでは生きてはいない。我々の身体そのものが生きるという欲求の営みであり、動機的には我々から利己主義の一掃は難しい。「人間は機械と同じ」と言ったマーク・トウェイン。気質の影響もあるが、人間の行動はその遺伝性と生息地、あるいは交友関係などからもたらされる外的力に動かされているに過ぎず、人間は自分自身を支配する力を持ってはいない。
故に、人間は「自己中心の欲望で動く機械にすぎない」といえる。壊れた機械は社会的に排除することが、社会的に正当化されうるか。という命題がドストエフスキーの『罪と罰』であるように、罪を犯した人間に罰を科すということは、法治国家で当たり前のように行われるが、果たしてそれが犯罪を犯した個人だけの責任といいきれるのか、などは深い思考で為されるべき問題だ。
人間の人格形成は、親や環境や周囲の影響を多分に受ける。そもそも、人間は自分の考えなど持っていない。その点は他の動物も含めて機械と同じであろう。気質や環境、教育など外からの影響によってその性能が変わる。子どものすべてが、真っ直ぐに正常に育つとは限らないし、歪んだり、ねじれて育つ子どもには、おそらく歪でねじれた環境があったはずだ。そこに気質が加味される。
人間は心理や倫理や宗教観などの価値が、一つにシンプルに結論されるが、人間はあまりに複雑多面的で定義は難しい。自殺で命を絶つ人の多くは、死にたいから死ぬと考えるが、実は生きたいのに死ぬという。なぜ、そうなのかを想像で考えるしかないが、死人に口なしである。古くは長屋王が服毒、平清経が21歳で入水、超能力者御船千鶴子は24歳で服毒。
有島武郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成らは、この世に出てきて、自殺の真の理由を語ってくれれば、少しなりとも理解できるだろうか。高校の頃、なぜ文豪が自殺するのか理解できなかった。解説や注釈は目にするが今でも真相は分らない。芥川が「ぼんやりした不安のため」と書き置いたし、太宰が境界型人格障害であるのは分かっている…。
先日も書いたが、当てつけ自殺はするものではない。脳内シミュレーションで自己完結するのが得策だ。親の存在が苦しく、負担になるなら距離を置く。いじめの相手がやるせないなら距離を置く。何も「死ぬ」という永遠の距離である必要はない。距離には数メートルから、数キロ、数十キロと、いくらでも選択できるる。死んで生を終えるより、離れた生をやればいい。
久々にアランの『幸福論』を読んだ。『幸福論』は幸福になるために読むのではなく、幸福を知るためにある。93項目に、「幸福」とある項目は5つ。『幸福論』なのに幸福に関する項目がたったの5つ…で幸福論?自分以外の他人など関係ないと人はいうが、他人と自分という関係だ。すべてのものは何らかの関係にある。そういう気持ちでいつも書いている。