人が自由な精神(心)をもっているか、顔や髪形、着衣に現れたりするが、何より話をしてみるのが一番分かる。「百聞は一見にしかず」という言葉になぞらえ、多少意味は違うけれども、「百見は一聞にしかず」と言い換えられる。20代の後半だったか、皮ジャンを着て親戚の通夜に行ったとき、どこの誰か知らない親族であろう人が、自分にこう言った。
「人間は着てる服を見れば中身がわかる」。面と向かっていうので、自分はこう言い返した。「爺むさいって言葉知ってます?服装や外見では分かりませんが、その人の言葉を聞けば一発で分かります」。この言葉に動揺したのか、それまでいくぶん笑顔気味だった爺むさ爺々の顔色がみるみる硬直した。どういう返答するのか期待したが返ってこなかった。
「何を言うのも結構だが、ならばこちらの言葉も受け入れよ」。言い返すときはそういう気でいるし、自分の返答に相手が文句を言うなら上の言葉を返す。これらは、生徒が教師に、子どもが親に、弟子が師匠に、愚民が賢者に、中卒が大卒に、貧者が富裕者になどなど、すべてに当てはまる当たり前の法則である。が、儒家思想はこれを許さないようだ。
「○○(上位者)に口応えするもんじゃない」と押さえつけるが、これは文句以外のナニものでない。言われて言い返されたら、さらに応酬すればいいだけなのに、「法度」を持ち出すようでは、単なる無能権威者でしかない。ましてや言い返されて逆上するような人間などは思春期の少年ならまだしもである。まあ、お堅い人の気持ちは分かるし、こっちはそう思って聞くだけ。
つまり、心に受け入れられる発言ではないということ。尊敬される賢者とは、心に伝わる言葉を吐く人をいう。いくつになってもいじめっ子のような言葉を吐いて、年寄り面をしてる人間はいるが、何の成長もないまま白髪になっただけである。一過性の人間関係なら、言うも言わぬもいいが、付き合う人を選ぶのは人にとって大事なことで、無益な人は避けた方がよい。
何かしら得るところ、学べる何かを提示してくれる人からは、単に知識や意見交換だけでなく、人間についての深さなどを学べる。見栄だけで行動するような人は避け、物事の分かる人こそ自身の視野を広げられる。大事なことは知識でなく知人ではないかと…。もう一つ大事なことは真に信頼できる人と付き合うことだ。「腹に一物」ある人間は、必ずしっぺ返しをする。
信用できない人と議論する価値もなく、たとえ意見の相違はあっても、信用できる人なら価値は大きい。真に協力関係を結べない人と関わりはもたぬ方が懸命という経験則である。相違や対比を怖れることはない。森羅万象は対比から成り、対比が有るがゆえに世界は持続し、しかも美しい。決して優秀な人と付き合うのがいいのではなく、平凡な人と肩を並べて歩くこと。
いかに賢人といえど、人の好意と言う後押しがなければ、その人の生は無味乾燥である。人に嫌われる賢人は、概ね心なき人が多い。つまり、引き立ててもらえるのも他人あってのもので、愚者といえども敬意は大切だ。自分が長身であるのは、背の低い人の中で目立っているだけである。相手の発言を聞けば中身が見えるように、「文は人なり」が如く書き物も同じこと。
例えばブログは自己主張である。自分は未熟で愚かとの前提で、自己の主張をすればいい。「未熟者でバカだから自己主張はしない」、「できない」というのもその人の考えだが、バカでも自己主張はあるはずだ。相手の反論に怖れず、それも自己主張と思えばいい。相手の論を見下し、一笑するがごとく封殺する人もいるし、そういう人との議論は中止するのがいい。
他人の意見を批判するなら、キチンと対案を出して納得させるようにすべきである。批判を良しとする自分はその事を心掛けるし、他者の意見を無慈悲に封殺するのは建設的でない。他者の意見は説得できてナンボ、説得できなければ自分が無能というしかない。「こいつは何を言ってもダメ」という場合もあるが、それは自分の能力を超えられなかったということ。
必ず説得できる何かはあるはずだと、有能な営業マンが模索するように、自身に対する挑戦であろう。無能営業マンは、説得できなかった顧客を「あんなバカに無駄な時間を使った」などと自身を慰めるが、慰めて能力が向上するだろうか?ダメ営業マンはその考え方を変えない限り有能者とはならない。苦しくも自己責任を自覚することこそ、向上の一歩である。
未熟と思うから研鑽もし、努力もできる。よく議論をして、「相手を傷つけた」というが、目に余るような汚い言葉や人格批判ではなく、論理の世界で相手を傷つけるなどあり得ない。勝ち負けの議論ではなく、バカでもいいから発言に責任をもって議論をするわけで、論駁した相手が傷つくなどは無用である。そんな風に思う人間にはどこか議論に勝ったという驕りが見える。
乱雑な言い合いでなく、真摯で丁寧な議論をすべきである。「丁寧」とはいうまでもなく、自分の発言に対する責任である。また責任とは相手の批判に対する謙虚さでもある。企業の不祥事などに見る虚偽の謝罪が嘘っぽいのは、責任の言い訳三昧であるからだ。言い訳や責任逃れをするつもりでのこのこ出て来、セレモニー的な謝罪などするなと言いたい。
言い訳が事実であったとして、だから責任が回避できるものではないが、願わくは責任の軽減を望んでいる。「言い訳は武士の恥」。赤穂浪士の討ち入りの要因となった浅野長矩の吉良義央に対する殿中刃傷においても、耐え難き屈辱の始終を裁きの場で目付に弄したところで、切腹・お家断絶は免れない。むしろ、そのような言い訳をすることが恥とされた。
「言い訳」したきことはさまざまあっても、しないことが武士道の魅力であり、男の心意気であろう。言い訳は主観的となり、どうしても自己正当化に聞こえる。よって、言い訳を「恥」とする気概や精神性が男子に有されるべきと思う。なぜなら、事実の説明と言い訳は混同しやすく、聞く側も判断が難しい。ならば、見苦しき言い訳より、静かなる男を評価したい。
ライフハッカー日本版、4月24日の記事の見出しに、"幸せをつかむコツは「がんばらない」こと"とあり、研究結果の但し書きがあった。学術誌にも紹介されているが、この場合の「幸せ」とは、ネガティブな感情よりポジティブな感情が上回っている状態を指す。研究を行ったJune Gruber博士によると、過度の幸福感が人間にとっては良くない影響をもたらすと言う。
博士は、「人生における幸福度と、その人にとって有益な結果が出るかどうかには、直接的な関係はないようだ」と述べている。幸せであることが必ずしも良い人生にはつながらず、悲しい、不安、イライラするといったネガティブな感情こそ大切という。幸せにとらわれるあまりモチベーションが下がり、新しいアイデアが浮かばないなどマイナス面を指摘する。
幸せな状態が続くと、落ち込んでじっくりと物思いにふけったり、怒りのあまりやる気を引き起こすエネルギーが湧いてきたりする経験は味わえないばかりか、幸せであるにも関わらず、より幸せを求めれば自分の期待感をうまくコントロールできなくなり、失敗する恐れが高くなる。すでに幸せになれそうなことをしているのに、さらに幸せを求めるのは逆効果となる。
ばかりか、リスクの高い行動をとるといった問題に陥ることもあるという。幸せの追求に限界があるとする科学的な根拠については、学術誌『Emotion』で、B. Mauss博士が以下のように解説する。「一見したところ、幸福を重んじれば良い結果につながるのが当然のような気がするのは、幸せに価値を置く人ほど、幸福度が高まると考えられているかだ(中略)。
幸福を目指した場合、この目標の追求がパラドックスを招く可能性がある。というのも、本人の評価(失望や不満)が、その人が目指していたもの(幸福)と相容れないからで、この論考から、直感に反した仮説が導き出される。すなわち、幸福に高い価値を置く人は、達成困難なまでに高いレベルに幸せの基準を置くので、現実の自分の気持ちに失望感を覚える。
結局、幸福を求めるほど幸せが目減りするというパラドックスが生じる"。この逆説的効果の実例として、オールAを目指して勉強している学生を考えてみる。何時間も猛勉強をした揚げ句、Bプラスがたった1つでもあると、ひどく落ち込んでしまう。大半の人は、Bプラスが1つあっても素晴らしい成績じゃないか、などと言ったりするが、本人はそうではない。
自分に対する期待をあまりに高めてしまった結果、完璧でなければ最悪だと解釈してしまう。幸福についても同じように、すでに今やっていることを楽しめているのに、幸せという状態にこだわりすぎると、がっかり感を味わうことになる。「幸せかどうか」を意識することなく、ただ好きなことをやっているほうが、かえって幸せになれるということだ。
人は幸福を追い求めてきた。反面、幸福は追えば追うほど手から離れて行くことを知っている。こんにち、「三大幸福論」と言えば、ヒルティ(1891年)、アラン(1925年)、ラッセル(1930年)の幸福論を指すが、自分は最近、次のヒルティの素朴な言葉が幸福に思えてならない。 「寝床につくときに、 翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である。」