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「親バカ」も「バカ親」

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将棋を指す以上、「バカ将棋指し」にはなりたくないと、「バカ」を見て自戒するように、親になる前から「バカ親」には絶対にならない意識を強く持っていた。しかし、巷には多くの、「バカ将棋指し」や、「バカ親」がおり、彼らは自然とそうなったようだ。「バカ親」の定義もいろいろだが、幼少期からバカ親を見て育った自分には、恰好の、「バカ親」の見本が幸いした。

「良い人間」を模倣すると、「良い人間」になるのか?「良い」の定義もいろいろだから「好人格」と規定し、ならば、「好人格」を模倣すると、「好人格者」になるのか?「なる」といいたいが、その前に、「好人格」を模倣できるのか?小学校の頃、「一日一善」を指導された。子どもは素直だから、どこかに「善」がないか、探したりもし、難しい「善」を頑張ったこともある。

所詮は、「うがいの励行」、「手洗いの励行」と同じで、やんちゃな男の子はなかなか続かない。20歳も過ぎた頃にある恋人が、外から帰ったら必ず手を洗うのを見て、「すごいな」と思ったことがある。自分に対しても、「手を洗わなきゃダメよ」と指図をするが、従わない自分に諦めたようで、彼女は黙々と手を洗っていた。その事は、「良い事」と認めながら眺めていた。

「良い事」と思いながらもできないのが人間。やはり、習慣がものを言う。「好人格」を真似るのもなかなか難しいが、悪い人間の真似はすぐに身につく人間だ。身につくというか、悪に染まりやすい人間の弱さだろう。この世に善人・悪人どっちが多いといえば、おそらく悪人。ほとんどの人間が悪人だと思っている。悪人とは、「悪事」行為だけでなく、「性悪」も含めてだが。

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「性悪説」信奉ではないが、大人になる事は悪に染まることだと思っている。無垢な幼児を眺めながら、子どもは自然で美しい生き物である。はたして、「悪」の心を持った子どもがいるのか?とてもそんな風には見えない。相対的に子どもは、可愛く、率直で、忍耐強く、向学心も協調性も、さらには遊び心も持っている。しかし、大人の大多数は命がけで「事」に対峙する。

命を張って争い、命を張って諍う大人は、我々祖先の名残りと見るべきか?大人に限らず、子どもが起こす凶悪な事件に接することもある。そういう子どもも、ランドセルを背負ったあどけない子どもも、白昼、街頭ですれ違いざまに出会う子どもという生き物すべてが、将来の我々の子孫と考えれば、進化というのは「光」だけにあらず、怖ろしい点も含まれる。

様々な現実を目にし、また触れながら、それでも我々は我々の未来を信じている。20世紀前半のイギリス人小説家で詩人でありながら、児童文学者のウォルター・デ・ラ・メアは、「幼な心の詩人」と評され、ストーリーを楽しむというより、彼の描き出す美しい詩的なイメージや幻想の風景に触れる。小説や詩の主人公たちは、自分の心のなかに広がる世界を大切にしている。

  "こども"とは
  近未来の呼称である。
  これこそ、
  またこれのみが、
  人類の王国を約束する。
  ――――ウォルター・デ・ラ・メア 『ある早朝より』


「バカ親」は、子どもが築こうとする未来の王国の破壊者である。そんな、「バカ親」になってはならないと戒めながらも、いざ親になれば、よほど意識をしておかないと、「バカ親」の誘惑は日常絶え間ない。親には特権として用意されている、「親バカ」という言葉は、「バカ親」の言い換えである。「親バカ」とは子どもを甘やかせるようで、実は親が親自身を甘やかせること。

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「バカ将棋指し」が対局相手に迷惑をかけるように、「バカ親」は子どもをダメにするばかりか、社会や周辺にも迷惑をかける。「バカ親」の定義は何だ?細々した要件を言えばキリがないが、端的にいえば、子どもに悪影響を与え、周囲にも迷惑をかける親をいう。「親バカ」なる成語も、親に程度許容された宿命的概念とはいえ、自分はイイ事に思えない。

バカに気付くのは大事だが、気づいただけで、「人格向上」はない。バカに気づき、バカを止めたくらいで人格が向上するなら、多くの人格者が存在する。単にバカでないだけである。人格者に向いた向上心は、さらなる自分磨きが必要だ。近年目立つ「バカ親」の具他例として、金があるのに子どもの給食費を払わず、パチンコ、レジャーなどの遊興に使う親。

スーパーなどの人の多い店内を駆け回っても注意しない親しかり、電車の座席に土足であがる子どもを注意しないのは「バカ親」の定番。あげればキリがない。コンビニ店を経営する妻の妹から聞いた話。親子連れの子どもが来店、子どもは4~5歳で、キャンディ代金を親が支払った。すぐ食べるかと袋に入れずテープを貼ると、その子はキャンディを床に投げつけた。

それを見た親はこう言った。「わたしたちのは袋に入れ、子どもの分だけテープが気に入らないようです。同じように袋に入れてもらえませんか?」。正当な言い分と感じる親もいよう。が、手渡されたキャンディを床に投げつけるのはどうであろうか?自分ならば(と前置きするが)、我が子の行為は到底許さないし、投げ捨てた子どもの手を叩き、以下のように言う。

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「そんなことをするなら二度と買ってあげないよ!」。子どもといえど、将来は社会に生きて行くことになる。よくない行為は早いうちから教えたり指摘するのは当然のこと。子どもだからいい、子どもだから許されるは、親が勝手に許しているだけだ。周囲の大人は親が子どもに寛容であることを、「親バカ」として許す部分はあるが、それに甘えぬ親を評価するハズ。

心ない態度を店にも謝罪する。そんな親に対し、「立派な親だな」と、親バカ容認派であっても、そのように感じる大人もいよう。が、「そんな事までする必要がある?まだ何も分らない子どもなんだし…」と感じる親もいるはずだ。善悪はあえていわないが、どちらが子どものためかの選択は、親自身の考え方一つである。親の考えるように子どもは育っていく。

以前も書いたが、感動した若い父親の話を再掲する。スーパーの大型店には3台ものエレベーターがある。そこに夫婦と子どもがやって来た。5歳くらいの女の子である。少女は全部のエレベーターの停止指示ボタンを上下とも押して笑っていた。それが子どもの他愛のない遊びなのだろうが、30代くらいの若い父親が、子どもの手を思い切り叩いて叱った。


「そんなことするもんじゃない!」と、子どもの目を見据えて威厳に満ちた声だった。叱るだけでなく手をピシャリと罰を与えたこの若き父親に感動した。この少女はいい親を持ったいい家庭に生まれて幸せだな。キチンと躾のできる親を持ったこどもは幸福である。「今はまだ言っても分らない」という親は子どもを見くびっており、だから躾もしないでいる。

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子どもの楽しみを奪いたくないという親心はわかるが、周囲に迷惑をかけること(公共性)と、個人的なことのケジメはつけるべきであろう。もし、同じ事を欧米人なら、周囲の誰かが親に注意する。住宅街の隣の家の芝が伸び放題で手入れしていなくてもハッキリ苦情をいうし、それでこそ全体的に美しい住宅街となる。日本人は近隣と事を荒立てたくないを一義とする。

日本人のいう「他人は他人」の、「他人」とは風景と同じ事。欧米人は、「他人も人」である。本人が愚鈍なら周囲が分からせればいいが、敵となりたくない日本人は、陰で悪口を言う。悪口といえば、70歳、80歳になっても止められないのはなぜだろう?そこに人間の孤独の影をみる。悪口をいう人のタイプ別心理というのがネットにあった。正確というより、妥当な分析である。

 ・ライバルを蹴落とすタイプ
 ・自尊心が高いタイプ
 ・ストレスを発散するタイプ
 ・負け犬の遠吠えタイプ
 ・冗談として発言するタイプ

当たっているのも違うのもあるように思う。自分の考える悪口好きの根底にあるのは、ネガティブな考え持った人、孤独な人ではないか?悲観的、自虐的、自己否定、内気、うつ的傾向、過去にこだわる、非社交的、劣等感が強い、過去に拘る。こういったネガティブ思考でマイナスの生き方をする人は多いが、今回、「バカ将棋指し」はこれらに該当する。

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昨日、爺さんがポツンと相手を求めて座っているので声をかけた。「無理にとはいいませんが、よかったらやりませんか?」と、顔を覗きながら子どもを諭すように言ってみた。案の定(予期していた)爺さんは無視して言葉を発さない。「やりませんか?」と二度言ってみる。目も合わさぬ爺さんの顔を見ながら、斯くのワザとらしい態度ができる爺さんに感心した。

ダダをこねてる子どもでも、人としての反応は示すが、爺さんは年季も入っているのか微動だにしない。光景自体はカワイイものだが、大人がやると大人気ない。(つまらん人ですのう…)と、口に出さず腹で思っておく。本人は無視をしてるのだろうが、茶化されているなど気づくハズもない。80歳にしてこの醜態、なんともお気の毒としか言いようがない。

人格者に共通するのは、誰にでも愛ある言葉をかける人ではないかと…。偉業を成した人とか、すぐれた教育家とかでなくとも、「人に愛」があればいい。将棋をやる者なら分かることだが、負けた側が先手をもって指すのは、ルールというより勝者への敬意であろう。勝者をリスペクトする自然な気持ちが湧かぬ人を、「つまらん人」と自分は見る。


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