今月15日、長男に長男が生まれた。名は薫。長女が葵だから二人ともクサカンムリ。意識したのかどうなのか、長男は自分が一文字だからか、一文字に拘っている。「二人とも草食系だな」と言っておく。19日に長女と息子、自分ら夫婦、長男夫婦と2児(一人は生後4日)も含めた8人で寿司店に出かけた。そこで長男の嫁が、「昨日観ましたか?」という。
「何を?」、「橋下さんの新番組です」。「そっか~、観ようと思って忘れてた。11日からだったよね~、昨日で2回めか!」、「そうです。面白かったですよ。自分の息子の入学式に、勤務校の入学式を休んで出席した先生がいたじゃないですか、それについて橋下さんと尾木ママが言い合いしてました。橋下さんは、それの何がいけないの?っていってました」。
「橋下がそんな風に?意外だね。何でだろ?」。のっけからそんな会話で始まった夕食会は、長男誕生の祝と長女の息子の15歳の誕生日(23日)を兼ねていた。長男の嫁は自分が橋下ファンであるのを知って話題を出したようで、まさか尾木ママ嫌いまでは知らないはずだが…。尾木ママは橋下の教育改革にイチャモンをつけており、それで橋下の番組に呼んだようだ。
宴が終って気になってYouTubeを探すとUPされていたので、11日分と18日分をまとめて観た。11日の議題は「育休」についてで、【尾木ママVS橋下因縁バトル】と、局側が煽っていた。主旨はというと、男性国会議員として初めて育児休暇を取ると宣言して話題になった自民党の宮崎謙介衆院議員(35)だが、妻の出産6日前に不倫をするというチャライ男だった。
結局それが元で国会議員を辞職することとなる。この事により、世の男性の育休に対するイメージが悪化し、育休を取りづらくなったのでは?という設問である。尾木は宮崎謙介議員の英断に、「国会議員さんが率先してくだされば、波及効果絶大です」とエールを送っていた。このゲス議員のせいで育休のイメージが悪くなったかどうかについて二人は分かれた。
尾木は「悪くなった」、橋下は「悪くなっていない」ということで始まったバトルだったが、最終的に尾木は橋下の意見に同調し、「悪くなっていない」と意見を変えた。自分の思考にない他者の考えを聞いて、持論を変えるのは何も悪いことではない。「主張を貫かないのは意志が弱い」などという人間もいるが、正しいと思ったことに考えを変えるのはいいことだ。
論破されたことを揶揄する風潮は、つまらぬ鬩ぎあいを助長するだけだし、論破されることは恥でも何でもない。それだけ良い意見に触れて素直に心が動いたということだし、つまらぬ自尊心を捨てた事を評価すべきである。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉も、このことを示している。人間は知らないことの塊だから、井の中の蛙から外に出るべき…。
尾木の柔軟さはいいが、どちらかというと彼は自らの内にある考えをまとめて話す講演者タイプ。対論や意見交換で説得力ある発言はない。解剖学者養老孟司も言いっぱなしで反論をしない著述家タイプ。なぜ反論しないか、おそらく思考が硬直だからと察する。一方的に言うより反論が難しい。尾木の反論に精彩がないのは、単に頭が悪いからだろう。
人から授かることを嫌う人間もいるが、素直な人間にむしろ「徳」がある。学ぶ力のある者は、価値のない道端の石や幼児の遊びを見ているだけでも何かを掴む。自尊心やプライドが災いしてか、つまらん人間の何と多き哉。「ためにする議論」、「ためにする批判」というものがある。この場合の「ため」とは「為」と書き、「為行為」のことを指摘する。
「為行為」とは、「ある目的を達しようとする下心あって行う」事をいい、何かに役だつの、「為になる」とニュアンスは似ているがまるで意味が違う言葉。「議論のための議論」、「批判のための批判」は、なんとも味気なくてつまらない。新島襄に、「諸君の議論に、愛の油を加えよ」という言葉があるが、頭がいいというより、生きる土壌が違うのだろう。
新島襄は、キリスト教の布教家であり明治六大教育家の一人とされる。同志社大学(前身は同志社英学校)を興したことでも知られるが、ときの政府がkキリスト教を邪宗として禁止していた明治の初め、キリスト教自由主義の学校を作った新島襄について、以下の話が伝わっている。学校を作って間もないころ、一部の学生によるストライキがあったが、やがて収まった。
ある朝の朝礼で新島は、「今度のことは、学生の君たちが悪いのでも、教師の皆さんの手落ちでもありません。すべては私に責任がある。罰せられるべきはこの私です。」と延べ、彼は持っていたステッキで左手を打った。力余ってステッキは折れてしまった。すれを見たストライキに参加した学生の一人が、小走りに彼のところに寄り、ステッキを取り上げたという。
経営者の社員に対する愛、教師の生徒に対する愛、親の子に対する愛、そういった本来は無形なものである「愛」が、等しく欠けているように思う。「社是」や「社訓」には綺麗ごとを書き並べ、従業員を奴隷のように酷使する企業。生徒のためといいながら、己の保身しか頭にない教師、子どものためと言いながら、自己の欲求のために子どもを塾漬けにする親。
もちろん、そうでない人もいるにはいるが、自分の思い込みや綺麗ごとに疑いをかけることはあまりしない。人間は欲で愚かな生き物だから、注意しなければ子どもは巻き沿いになるという危機感すら持たない。「愛」というものの本質は、自己の犠牲の上に成り立つものであるようだ。「輝くもの、必ずしも金ならず」という言葉の中にも「愛」の本質が隠されている。
さて、尾木と橋下の番組だが、やはりバラエティー構成の感は否めないし、そのように観なければ『朝まで生テレビ』的言い合い状態になる。ディレクターも視聴者が嫌悪感を抱かぬようトーンを抑えた構成を意図するのはやむを得ない。のっけの会話の議論は18日放送分だが、この問題について昨年の4月15日の記事に書いた。内容は覚えてないので改めて読み直す。
これがその当時の自分の考えのようだ。今は?何も変わっていない。尾木の考えは、「勤務校の生徒より、自分の子どもを優先するのはオカしい」である。一方、橋下は、「自分の子どもの入学式を優先させたからといって、それはそれで一つの選択」と、善悪良否の問題ではないという意見を述べている。二人の対論は映像を見れば明らかだからいう事もない。
自分の考えは結果的に尾木と同じだが、理由は全然違う。また自分は橋下の考えと基本は同じである。公務員の行為を公務員外の人間が判断し、それで良否や善悪をいったところで、所詮は部外者意見であろう。問題があるとすれば、公務員の規律や心の緩みを指導する校長である。新島襄が校長として訓示した、「生徒や教員に責はない。すべては自分だ」のように。
今の社会のように、誰も責任を取らないし、取らないでもいいようになっているようでは、正しいものを見つける事は難しい。正しいものを見つけるための身近な方法は、悪いものを見つけることだ。何が悪い、これが悪いとなって初めて正しいものが見つかる。橋下も自分も「選択」といったのは、公務員ならでの選択ということ。公務員以外ではあり得ない。
尾木のいう、「公務より私益優先はオカシイ」を自分に当てはめると、「オカシイ」どころではなく、公務より私益優先になどはまずならない。やれ息子の結婚式、やれ家族・親族の葬儀ならともかく、いつもいつも絶対に公務優先というのではなく、自分なりの重要度に鑑みてである。今回の橋下は、番組を盛り上げる意識であえて無理を言ってる感じがした。
「いい」、「悪い」でない「選択」というスタンスで、あえて「いい」としたからには、「選択」以外の理由も求められる。「入学しに担任が出ることがそんなに重要なんですかね?」と、教師経験のない橋下は尾木に問うしかない。さらに橋下は、「自分は民間企業に勤めた経験もない」と、民間企業の社員が入学式で会社を休めない事くらいは分かっている。
それで善悪を判断しろと言われても、茶番といえば茶番である。善悪良否の基準や価値観は個人に帰属されるもので、それについての正当な判断は民間も公務員も上司が判断し、許可を出す。あらためていうが、民間で許可は出さないし、強行に休暇を取ろうとする社員と摩擦は発生する。「橋下は自分の子どもを優先して何が悪い」に立脚してあれこれ述べたが…
腑に落ちないのは、せっかく橋下が尾木に、「入学式に担任が出ることがそんなに重要か?」と聞かれてなぜ尾木は、「高校生の子の入学式に親が出ることが重要か?」と問わなかったのか?重要どうのこうのより仕事だろ?ならば欠席がよくない。後者は親の自己満足。「いいえ、自己満足ではありません。親子にとって大切なことです」という親もいるであろう。
そのようにいわなければ、学校(仕事)を休んでまで行った理由が他愛ないものになってしまう。「ええ、もちろん自己満足です。それの何が悪い?」という人なら、なにものにもめげぬ立派な価値観を持った親だと思うが、御託や理屈を並べる人を信用しない。橋下は、「子どもを優先してなにが悪い」と言いながら、公務中にそれをしなかった。よって現在の意見である。
首長時代は、「したくてもできなかった」ということなのか?それはそれで橋下の選択だし、彼に帰属する問題だ。したくてしたくてたまらなかったが、公人であり、そんなことで公務を欠席すると、マスコミに何を言われるか分かったものではない。そういう危惧があったかも知れない。自分はハナっから子どもの入学式になど出席する発想がないから、我慢もクソもない。
それで冷たい親だと子どもに言われたとしても、一年に一度の入学式が、それ以外の364日より大事な、重要な、親の子どもに対する誠実な儀式、愛の表現などと全く思わない。そんなことを責めるような子ども、そういう人間関係(親子関係)すらも理解できない。尾木に組する、橋下に組するではなく、賛同も反対も無い、自分は自分の価値観を構築していく。