漱石の『こゝろ』を読んだのは松本清張にはまっていた中学一年のときだ。恋愛も友情も分らない年齢ということもあり、主人公の葛藤する心に真の理解は及ばなかった。長いこと間が空いて、『こゝろ』を映像で観たのは80年代になってからだ。『こゝろ』の映像作品は、実に8作品(映画3、テレビドラマ4、アニメ1)のラインナップがあり、その中の映画2本を鑑賞した。
『こゝろ』に見る男の友情と恋愛の板ばさみになることの苦悩ってのはやはり当世時代風であり、昨今のドライな人間関係だとあれほど湿っぽいことにはなるまい。『こゝろ』批判はあるが、漱石はあの時代の人だ。こんにちの社会通念にあった物語を書けない。よってこの作品に対する漱石批判は、当時の時代批判ということになる。先鋒は文学者で東大教授の小森陽一である。
小森は1987年、『こゝろ』の解釈を巡って東京大教授・三好行雄と論争して注目を集めた。確かに『こゝろ』は問題の多い作品であり、結末は先生が私に手渡した遺書で終わっている。しかし、青年と奥さんが結ばれるという解釈を小森陽一が唱えている。小森はまた、当世時代について、「経済的自立がなかった女が現実に生きていくためには、結婚が重大問題であった」とする。
奥さんは間貸しした当初から、境遇、財産、家柄等を勘案し、先生を結婚相手の第一候補として考えていた。奥さんが先生の国元の事情を知りたがったり、Kが同居する前、奥さんは先生とお嬢さんを着物を買う名目でに連れ出したり、そこでお嬢さんの着物を先生に選ばせたり、奥さんが二人を接近させたがっているという先生の観察は、当たっていたはずである。
作品解釈は文学者の範疇であり、仕事であり、小森は『こゝろ』を貧しい小説と位置づけている。それが漱石研究者としての小森陽一の漱石への敬意(?)といっていい。漱石の『こゝろ』はそれくらいに、心をキチンと理解することも大事である。21世紀が「心の時代」といわれて久しいが、社会情況が急激に変化する現代では、とにかく人間の心を理解しない事には始まらない。
「心が痛む」とか、「心残り」とか、「男心」、「女心」などの言葉を多様するが、「心とは何ですか?」と聞かれると、誰も答えに窮してしまう。心理学者の中でも「心とは一体何なのか」、「心をどう定義したらよいのか」ということについて共通の認識はないようだ。それくらい難しい人間の「心」についていろいろ考えてみる。人間の「心」とは何で、一体どうなっているのだろうか。
まずは「心」の特性について思考する。人間の心の特性を、「生物的な存在」であると同時に「社会的存在」と位置づける。「生物的な存在」としての特徴は、自分がいて他人がいて、そこに互いの心は通う。一人でも「心」は外界のさまざまを感受するが、自分と他者という自他の区別をするのが心。受け入れたい他者もいれば、受け入れたくないと、断固拒否する他者もいる。
また、問題なく受け入れてる相手であっても、こちらがニューロティック(神経症的)な時と、フラットな時とで違う。ニューロティックな時に自分の周辺に他者が来ただけで心が侵された気持ちになる。人間の心を支配するのは脳であるから、心とは脳のことである。なのに悲しく辛いとき胸が痛むという。なぜ臓器に影響するのか?実はアドレナリンという物質のせいである。
自分の性向の問題もある。むかしむかしあるところの洋菓子店に2人の売り子がいました。一人は美人さん、もう一人は不美人さんでした。おそらく美人さんのほうが看板として映え、目だったとこだろうが、誰も見向きもしない不美人女性の心に、思い上がりのない新鮮さを感じていた。引き合いあまたの美人など放っておけばいいわけで、これは一種の同情心か?
美人がブサ面を彼氏にするのは母性的慈愛という。価値とは、一定の社会・文化・グループ・個人によって望ましいとみなされる行為や思考の特性である。さするに価値の総体にあって美人の価値もその一つ。自己決定という価値もあり、この世に無価値のものはない。むか~し、ある洋菓子店に美人と不美人の売り子がいた。自分は美人を無視し、不美人に熱心であった。
ある日美人に手紙を渡され、「何であんな子がいいわけ?」と書かれていた。これを女の嫉妬という。相手より自分が上と思う女の自信は相当のようだ。男がそんなはしたない行為をするはずがない。まあ、その女は厚化粧でケバく、年増であり、自分は化粧臭いのは好きでなかっただけ。今でも思い出す、銀座・並木通り4丁目の洋菓子店「ポニー」のケーキ売り場の女だった。
かれこれ40年前だが、二人ともいいお婆ちゃんになっているだろう。「ローマは一日にして成らず」という諺があるが、「ローバは一日にして成らず」だ。彼女らの顔に刻まれた年輪(シワ)をしかと眺めてみたい。長野県伊那出身の不美人O子は世田谷の池尻に友だち二人で住んでいたが、自分がそこに通うようになり、同居女性が迷惑していたのを自分は気づかなかった。
O子も周囲から「あなた一人の部屋じゃないし、少しは考えて…」など言われていたらしい。それはそうだろうな。でもそういう事は一言もいわない。女の恋心の強さであろう。そんなこんなで同居人の友だちが自分に直接言ってきた。「少しは考えてよ」。の意味はあまり来るなということ。「ごめんなさい」と自分に謝るしょんぼり顔を今でも思い出す。妙子という名の耐える女だった。
こういう恋の刺激は今はどこを掘ってもない。人間は刺激を受けると、対抗物質「アドレナリン」が放出される。恋人の前でドキドキするのもそうで、シマウマの前にライオンが現れると反射的に逃げるのもアドレナリンの作用。胸がドキドキ、胸が痛いは、アドレナリンが一気に心臓を運動モードにするからだ。脳の作用だが、頭よりも胸が痛いので「心が痛む」というようになった。
古人は心の宿り処を内臓と見たのだろう。新渡戸稲造は『武士道』の中で、切腹を次のように説明している。「我は我が霊魂の座す所を開き、貴殿にそれを見せよう。穢れているか清らかか、貴殿みずからが見よ」。中国では、切腹のことを剖腹といい、男と交わったと噂された未婚の女性が、身の潔白を証明するために、剖腹して死んだという話が多く伝わっている。
相手の心が分かった時点で相手を分ったことになる。つまり、「人間の心の中(脳)で起きる生理的な出来事」や、「脳で一体何が起きているかということ」が理解できれば、人間を分かったというが、なかなかそれが分からない。大脳生理学者や心理学者、精神分析学者らの研究対象である「心」について、脳で起きる生理的なプロセス、生理的な出来事が少しづつ分ってきた。
現在の時点で人間の心について、「脳で何が起きているかは分からないが、何か生理学的な変化が起きていて、その結果、遠心性神経系(運動神経系)を通って動作や行動になってあらわれる」ということは分かってきた。人間の心は身体(大脳)にあるから、当然身体の影響を受けている。人間を支配するのは環境であるが、環境は主に外的環境と内的環境に分けられる。
内的環境とは、本人を取り囲む親・兄弟などの家族、外的環境とは社会(学校、会社、友人その他周辺人)となる。したがって心の動きとは、「外的環境のもとで内的環境の中にある脳内における生理学的活動」と定義できる。現在の科学で人間の心の詳細を解き明かせないが、脳内で起こる生理学的な変化の結果、運動神経系路を通って様々な動作や行動に現れる。
ややこしいがこれが心の実態だ。心のない人間はいないが、「心ない人間」というのはいる。何が人間的かというのかも難しいように、「心ない人間」というのも様々な要素が絡むと難しい。原爆投下を正当化するアメリカだが、人をひとり殺せば殺人者でも、戦時中においては、1000人殺せば英雄である。「人道に外れる」というが、何をもって人道というのか、いえるのか?
人の上に神がいて、神を崇める人間は神の指令を受ける。「汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において堂々と迎え撃つがよい」。神の命は「人道」になんら反しないばかりか、神の命こそ正しい人の道を清めるものなりである。人の心にはそれぞれ信じるところの神がいる。自分の心のどこを探して神はいないし、人間の魅力とは神仏に無縁の心だと思っている。
オーストラリアの人質事件など、神の命で人殺しをする人間は一種の狂人だ。人間の最も魅力的なものは、邪神に左右されない心であり、魅力的な「心」を持った人は美しい。「愛情」、「優しさ」、「思いやり」、「親切さ」…、これらは別々のような感じがするが、一言でいうと「心」である。コンピューターが計算が速くても、本当に人間が必要とすることは、計算の速さではない。
高学歴であっても心の冷たい人はいる。無学歴で心の温かい人はいる。どちらを結婚相手に選ぶのかで、選ぶ側の心も見えてくる。「どんなに心のよい人でも食っていかなきゃ行けないでしょう?」と前者を選ぶ人は言う。正論ぶった言葉に正論はない。正論とは、どこから崩しにかかっても崩れない。前者の人に自分は言いたいのだ。「今の時代、飢え死になんかするか?」
「食っていくのが大事と詭弁を言わず、贅沢したいと言えばいい」。糟糠の妻が死語といわれる現代、人選びは「心」から「物質」に移行し、それが元での喧騒が離婚の多さにつながっている。「結婚相手は収入4000万」と大言壮語を吐いた世間知らずのお嬢さんが、離婚して現実的になった事で、「この女は本質的バカではない」を実感した。彼女に学習機能が働いている。
価値と価値はぶつかりやすく、欲方向に収束する。心と心のぶつかり合いはあっても、心ある者同士は善行に収斂していく。「心ある人」を相手に選んだことがよい結果をもたらす。「心ない人」相手を選んだ人たちは、欲や見栄にまみれて家庭運営に苦労するだろう。「心ある人」の意味が、"欲や見栄にまみれない人格"だけでも、欲や見栄にまみれた人との差は大いにある。
なぜ、人を心で選ぼうとしない?現代社会が功利主義で、価値重視の育てられ方をした。「心」と「価値」は対極にある。人間は外面ではない、内面重視というのは、美しく響くが実は多くは詭弁であり、嘘に決まっている。世の中に美人よりブサイクが好きという男がいると思うか?イケメンよりブサイクが好きという女がいるか?しかし、「イケメンはいらない」と真顔で言う女はいる。
イケメン男の浮気に翻弄され、辛い思いをした女がイケメン要らないと言う。女を見る目の肥えた男も、美人なんか3日で飽きると分っている。それにくらべて「優しさ」、「献身さ」、「奥床しさ」…、そんなものが飽きるはずがない。表面的な価値観よりも内面の美に移行するのは人間の成熟であろう。外観よりも使い勝手のよいマイホームを選ぶ理由は、人は家の中で暮らすからだ。
ブサイクがイイのはブサイクに新たな価値を求めたこと。だが、実際にブサイクの立場からみると景色は違うようだ。見た目を重視する女性は言う。「痩せたり綺麗になったり…、見た目に自信を持つ事で、内面も変えていけるきっかけになるし、実際見た目綺麗な人ってやっぱり得してる」。これに反論する女性は、「見た目が綺麗になったからって変わるわけないよ!
分かってくれる人はきっといるはずだよ!私は心だけ見てくれればそれで充分だな…」。これに女性が言い返す。「そんなの綺麗事よ!」と、根本が違うから結論は出ないが、美人の方が内面重視、ブスが見た目重視なら説得力もあるが、そうはならないのが女性の世界。こんな反動も食らう。「なによ、自分がちょっと美人だからって、あの言い方ないんじゃない?」
女性の「美」に対する執着の凄さ。見も蓋もない言い方かもしれぬが、どんなに人柄が良く有能でも、ブスってだけで冷遇されることも事実。性悪はネコかぶって隠せるが、ブスを隠す事はできない。頭から紙袋をかぶっていい社会が到来すればの話。先月挙式した三女の夫の父に、「うちの子はかなりネコかぶってるので注意しておいてください」
といったところ、「ははは、うちの女房なんか3年ネコかぶってましたから…」と、これには脱帽。もっとも一番ほっとしたのは、「余計なこと言ってから!」と父にむかついていた三女。「うちは3年もかぶんらんし」と言う。よく、「第一印象は大事」とかの言葉を聞くが、第一印象のなにが大事なのか?話を始めれば、その時点で第一印象もクソもなくなるわけだ。
話すまでのきっかけと言ったところで、その程度の儚い命の「第一印象」などないに等しい。実際はどうだか、性悪いといわれる沢尻エリカと森三中の大島美幸となら、どっちと結婚したい?と聞かれたら100%大島だが、もし自分が20歳そこそこの年齢だと、100%沢尻というかも知れん。他人から、「美人妻もらって羨ましい」などと言われたい見栄もあるんだろう。
性悪女や性格の良い女を過去にたくさん見てきた。一緒にいて落ち着ける女は控え目で性格の良い女。心のいい、性格のいい女は男にとって財産である。それほどの女はなかなか現れないが、この世に生を受けたなら、美しい心をもった女に出会わずして一生を終えるは不幸なことだ。よい女はよい心を育むべく教育があったのだろう、なされたのだろう。
今の時代に生を受けて、質素でよい心を持った女に出会うのは至難かも知れないが、今の自分が20歳なら現代に生きる現代人。1952年公開の映画に『現代人』というのがある。60年前も当時は現代に生きる現代人で埋まっていた。同様に2010年代も現代人である。言葉は同じでも、人はみなその時代を生きるしかない。
人間の心の本質は決して変わるものではないが、もし変わったというなら、変えたのは社会であろう。「歌は世につれ、世は歌につれ」という慣用句がある。世の中の変化に応じ、歌も変化し、歌の変化によって世の中も影響を受けるとの意味だが、「人は世につれ、世は人につれ」は成立するか?人は世情を反映し、世情は人を反映している…