心理学とは「心」を研究する学問で、「心」はふつう、意識と同じものと考えられている。ところが、深層心理学は、「心」は意識だけではなく無意識も含んでいると指摘する。これは深層心理学が心の病を治療する実践の中で生まれてきた。創始者たちは、人間の心の中にふつうの意識では知り得ない何かがある事を認めないかぎり、自分たちの臨床経験をうまく説明できないと感じていたようだ。
「心」が意識であるなら、人間の意識というのは生理的な出来事ではないし、よって「心」は「物」ではない。生理的出来事と意識との間の関係については、哲学的に数多の議論がなされているようだ。いうまでもないが、脳で起きる生理的な出来事と、この意識現象とは相関していると。だから脳で何が起きているか分かっていなくとも、脳で起きる生理的な出来事に対応して意識があるということになる。
意識は行動を引き起こすが、意識がなくとも行動を引き起こす事も分っている。 人間の意識(見えたとか聞こえているとか、気分がいいとか)と、人間の脳の中で起きている生理的な出来事にどのような関係があるのかが解明されれば、人間の全てが知りつくされることになる。人が何かを「美しい」と感じるのを意識していても、それがなぜ自分には「美しい」と感じられるかについては無意識である。
意識は無意識なものによって決定されている。「心」について思考すると心理学的な考察となりやすく、別の観点から「心」に迫ってみる。「心にゆとりがある」、「心のゆとりが大事」という言い方がなされるが、「心のゆとり」とはどういう状態をいう?「ゆとり」の意味は、物事に余裕があり窮屈でないこと。だから、「心のゆとり」とは、心に余裕があって窮屈でないこと。
では「心の余裕」とは?「お金に余裕がある」といえば支出に対する収入の差に開きがあるということだ。月30万の給料で30万使っていれば余裕はゼロと、物で考えると分りやすいが、「心」は物ではない。この場合の余裕とは?大らかな人間と神経質な人間がいたとする。人から言われたちょっとしたことでイライラしたり、機嫌が悪くなるのはどっち?
言わずとも分ろう心にゆとりのないとは、大らかさがない人間のこと。不機嫌になりやすく他人に不快を与える。自分のことで精一杯だから、他人の事を考える余裕がない。こういう人間とは付き合わないことにしている。誰でもそうだろう。人が避けるべく人間の典型だ。何かあるとイライラ立腹するのは自分のためと思って入るようだが、世間は無人島じゃない。
そんな人間でも我慢して付き合うのが大らかさなのか?仕事仲間とか公的な付き合いならやぶさかでないが、私的な交流をする意味がない。嫌な気持ちにさせられるという人間もいるが、自分の場合は相手の狭量さからくる無神経さに腹が立つ。こういうタイプはあからさまに機嫌の悪さを見せ付けることが多く、そういう時には押さえずハッキリ言う事にしている。
「なんなんだー、そのふてくされた顔は?なにが気に入らないのか知らないが、場の雰囲気を壊してることくらい気づいたらどうだ?トイレにでも行って収めて来いよ」。こんなヤツに遠慮することない。まあ、付き合わないという前に相手が逃げていくだろうが、実際子どもじゃないんだし、チンカス洗って出直して来いと、この手のヤツにはこれくらい言った方がいい。
でなければ相手は気がつかない。言ったところで直らないけれども、人前で恥をかかされて、それでも直そうとしないならどうにもならない。そういう奴は恥をかかさなければダメだ。人前で恥をかかせて自己啓発を期待する。でなければこういう人間は人に好かれない。一人の人間のために皆が嫌な思いをしていることに気づく以前に、自分の機嫌の悪さを訴えたい。
それが子どもなんだよ。大人の仲間入りしたければ大らかになれ。心にゆとりのある人間は危機に際してもジタバタしないものだ。「よく思った事をいえますね~」といわれるが、中傷や嫌味なんか言う気もないし、人に愛と思えばなんでもない事。人前で恥をかかせるのも愛情よ。やっとこ己の愚かさに気づく人間もいる。食ってかかるなら席を外して二人で話し込む。
自分の心の問題を他人を巻き込むことで解決しようとするヤツがいる。それは、幼少期に不機嫌な態度をして、それを母親が「どうしたの?なにかあったの?」と慮ってくれるのがいい大人になっても直らないというだけ。周囲はお前のオカンではないんだ、お前の不機嫌に心配し、配慮してくれるものなどいないんだよと、そういう事を親は教えない。では誰が言いきかせる?
口を塞ぐ人間が多い中で、そいつの背負った不幸を見れる人間なら言える。それを言って逆恨みされる事もあろうが、人と人と、心と心で触れ合うと言うことはそういう事。それで人間関係がうまくいかないなら、虚飾やるしかない。まあ、自分はやらないから。救われるべきは自分なのよ。他人を巻きぞいにしてどうにもなる問題ではない。こういう論理を親は説明しないね。
自分の不機嫌に人はすぐに対応してくれるなどという、社会では通用しないワガママ特権意識を家庭で植え付け、子どもがある年代になって、「そんなガキみたいなことやるんじゃないよ」と、手の平を返す親がいるか?まあ、乳幼児期の特権階級時代まではいいとしても、動物の親が子どもがある程度の年齢に達したら、餌を与えないような事を人間もやればいい。こういう人は間違いなく他人から敬遠される。我々が幸せになるためには、どういう人と接するかは大きな要素となる。そういう判断能力が大事ということだ。世の中には誠実な人もいればズルイ人もいる。人を愛する人もいれば、搾取する人もいる。コツコツ努力する人もいれば、他人を利用する人もいる。そういう人を見極めないと、ズルズル相手の術中にはまってしまう。
悪人は人を騙すのが上手い。善い人を演じるのも上手い。自分が欲しい物、狙っている物を隠すのが上手い。「悩んでいる人を救いたい」などと平気で言う。そんなに心のゆとりが人にあるのか?悩んでいる人をそう簡単に救えるものではない。「何かお手伝いできるなら」くらいがいいところだ。相手の話に耳を傾けるとか、安らぎをあたえるとか、その程度くらいだろう。
人が人に接する限界があることを最初から打ち出しておく。でないと、相手は期待し、期待を持たせて逃げなければいけないハメになる。付き合う相手を選べといったが、人の本心は必ず出る。この世で隠して隠し通せるものは何もない。あらゆる手立てをすればどんな巧妙な浮気だってバレる。まず、親切を売る人は注意した方がいい。特に押し売り気味の人。
親切を売る人は恩を売ろうという魂胆がある。自分の行為をいちいち説明する人も嘘っぽい。ある行為が優しい行為として、「だから私はしてるんです」と説明する人はたいてい嘘。自分の言葉を直接相手だけに言うのではなく、世間にあえていうのはたいてい嘘。もしくは相手を評価しながら実は自分を売ってる人。優しさも訴えも自分の行為に純粋なら説明は要らない。
過剰な親切は目論見があることが多い。いい人ぶりたいも目論みの一つ。相手が恩を抱く過剰な親切はすべきではないのよ。人から着せられた「恩」はあまり喜べないものだし。だから、礼を言う側は、相手の負担にならないように注意が要るし、過剰が決していいわけではない。あまりに謙遜する人、不必要なまでに謙るひとも、実は高邁な自尊心の裏返しと見る。
心を操作し、演じる人は少なくない。「あなたの心の住み家はどこですか?」といわれても何のことか分らないだろう。「終の住み家」とは、自分が死ぬまで住む場所のこと。「心の住み家」とは自分が自然でいれる処。小さい家族の中で見栄をはるでなく、小さいに仲間のなかで虚勢をはるでなく、そんな集団の中にいるなら、すぐに脱出した方がいい。
自慢話を多くしてしまったなと感じたらそういう集団から離れること。虚栄心を見せ付けた集団なら今すぐ離れること。それをしないままそこに留まったら、継続的に認められようとするなら、益々不幸になるばかり。あの理化学研究所の小保方氏にも通じる。彼女がよくもあの場所に留まろうという性格なら、よほどの無知、よほどの恥知らず、総じてよほどのマヌケである。
ここを去ったら自分は橋の下の乞食同然という選択なのか、よくは分らないが、それを考えるなら他人の辛辣な視線の方が耐えられるということだ。人間は他者の心を砕き、他者から心を砕かれたりするが、彼女の特異な性向は、嫌われても冷蔵庫の下をねぐらに生きるゴキブリに例えられる。社会的羞恥に耐えられない男に比べ、女の居座り根性は二枚舌の産物か。
自分一人がどれだけ会社を、科学界を、国家の世界的信頼を砕いたかの視点が皆無に思える。「STAP細胞はありま~す」、「絶対にあると信じている」、「自分は200回も体現した」と、それが事実であろうがなかろうが、人も死に、これだけ世間を世界を震撼させていながら、再現ができないなら彼女は一回死んだ方がいい。すべてが虚実であった責任を取る意味で…
その後にSTAP細胞を再生したとあらば、引く手あまたとなって彼女は復活できる。一度は死んだことがむしろ大きな弾みとなってグレードアップする。それだけの自信が彼女にあるのなら1度身を引くくらいなんでもないだろうに、なぜ石にかじりついていようとするのだろうか。理研側との雇用契約云々ではなく、彼女自らの責任の取り方があり、彼女はそれを示そうとしない。
彼女には「自己」が存在せず「自己貫徹」もない。その場限りのヤマ師だろう。「自己」とは何?一人称の「私」を自分の外側から眺めたものが「自己」だと心理学者コフートは言った。つまり「あなた」の中の「私」が自己であるのだと。どういう世界かと説明すれば、自分から見れば「私」というのは当たり前に体験し、感じている世界である。そういう一人称の「私」の世界である。
外から見える「私」というものは、「私」として相手が感じ、体験しているはずのものを、外から共感で見ていったもの、それを「自己」だということ。つまり、「自己」は他者の共感ナシには観察できないものだということになる。自分が人にいうのは、お前が見、お前が感じる「俺」こそが、お前にとっての「俺」である。それが本当の「俺」であってもなくても…。
お前が感じる「俺」がお前にとっても、また「俺」にとっても共通の「俺」であると。「本当の俺はお前のいうような俺じゃない」と言うなら、お前に本当の「俺」を見せればいい。それなら納得するだろうし、修整もするだろうから、本当の「俺」を見せるまでは相手の感じる「俺」でいるしかない。つまり、「俺」は相手の数だけ「俺」がいる。それでいいのだと思う。
まして、本当の「俺」を「俺」本人が分っているのだろうか?多くの人間は人の思う「俺」が気にいってれば同意し、気にいらない「俺」なら否定したりする。それは正しくない。言語道断、相手の感じる「俺」が相手にとっての真実の「俺」でいいのだと。自分が何ものかを知る方法は、多くの他人と付き合い、混じり、そういう中で相手から教わるしかあるまい。
「人と付き合うもっとも大きい理由は自分を知ること」だと常々思っている。自分は自分を見ていず、他人は自分ばかりを見ているなら、自分の事は他人の方がよく知っているのが道理である。赤ん坊は生まれて以降、自分の主観世界しか知らない。それが成長するにつれて他人は他人なりの主観世界があるのを知っていく。他人と喋りながら相手の心を推し量ることができる。それが成長だ。
つまり、相手が心で考えているであろう事をいろいろ想像し、これからの予測をたてたり、自分の違う面を相手に見せよいとしたり、相手のことを「セルフ」として体験する。相手の心を読むという行為は、相手に主観世界があるということで、相手の自己、セルフ体験してることになる。相手を「対象」としてだけ見ているのではなく、「セルフ」としてみていると言う事。
女を性欲の捌け口としか考えない男、顧客を自分の営業成績の道具としか見ないセールスマンは、単に相手を自分の特化対象としてだけしか見ていない。つまり、相手の自己を思いやったり、大切にしようとかの気持ちが全くない「物」と同じに見ている。自分が大切なら、相手の中の自己に立ち入って大切にしてあげるべきだ。"相手の身になる"という「心」がない。
「思いやり」という言葉は「思ってやる」であり、何をどう思うかは、一切を我が事のように思ってやるということ。自分が大切であるなら相手も大切にすること。それが思いやりである。どうすればこういう「心」を身につけられるのか?乳幼児期からでないと無理だろう。甚だしい自己中心を諌め、人への接し方を大事にし、それを子どもに教えていくのが親という職業だ。
子は親が可愛がるペットでなく、親という職業人に教え育まれる存在である。餌を与えて寝かしつければ子どもは見る見る大きくなるが、身体ばかり育っても頭脳ばかり育っても、「心」が育たなければダメ。それを身につけさせる職業人としての親がいかに大事か、また、それを放棄したことの代償は将来的に大きい。子どもは親のやったように育つ怖さを秘めている。
子育てで何より難しいのは、0歳~5歳という、もっとも愛らしい時期に、親が職業人の意識を持って厳しく躾けなければならないことだ。可愛がるだけならどんなに親は楽か。金を出し、教育を人に委ねて楽する親は親業の失業者である。自らに厳しくできる親こそ、プロとしての職業人であろう。何においてもプロといわれる職業は、半端なく難しい。