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「交錯心」

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「○○心」も出尽くし、これにて最後。「交錯心」は耳慣れない言葉ではないが、あまり日常会話では出てこないし、あえて使わない場合もある。ある言葉が会話の中で適切であっても、あえて使わない場合は、その言葉を相手が知らないだろうという判断をするからだろう。判断だから違うかも知れないが、噛み砕いた言葉に置き換えるのは悪いことではない。
 
会話中に、「今の言葉は何て意味?」と聞かれるのを省略する意味もある。聞かれるなら説明も出来るが、スルーされたら"意味の理解"においてどちらにもまずい。会話は分かり合えることが前提だ。「交錯」とは、いろいろなものが交じり合った状態。「情報が交錯する」、「夢と現実が交錯する」、「期待と不安が交錯する」などと使えば便利な語句である。
 
「まじる」は「交じる」と「混じる」に分けられる。「交錯」と「混沌」は、どちらも「まじりあった」状態をいうが、前にも言ったが意味を自力で理解に努める場合、対象語句の文章を考えること。人は、「そんな面倒臭いことを…」というが、言われずと面倒臭いに決まっている。しかし、あえて面倒臭いことをする意味を考えるか、考えないかの差であろう。
 
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「男の中に女が交じっている」、「仮名と漢字が交じった文章」が「交じる」の正しい使い方。「男と女が混じる」、「仮名と漢字が混じる」は間違い。「混じる」は、「数種の薬品を混ぜて作る」、「綿に化学繊維が混じってる」と使用するが、前者は「混合」、後者は「混紡」という言葉がある。このことから「交じる」と「混じる」の違いがよく分かる。
 
男が女に交じっていても、男はハッキリ区別できるし、交じってオカマになるわけではないが、「この色は赤と黄色の絵の具を混じり合わせて作った」なら、それはもう赤も黄色も見えない状態で、「混濁」という語句が当て嵌まる。コーヒーに砂糖を混ぜるも同様。どちらも「まじる」点は共通するが、入りまじるものの質がハッキリと分かっているかどうかの違い。
 
「朱に染まれば赤くなる」という言葉はヒトの脆弱性を表している。動物生態学で言われるのは、「サルは人間が育ててもサルにしかならないが、生まれたばかりの人間をサルが育てたら人間はサルになる」という比喩でもあり、事実でもある。ハッキリ言えることは言葉を喋らない。また、足の指でものを掴めるようにはなっていないが、近い事はやれるだろう。
 
自分はオカマが嫌いだが、オカマに混じって何年も生活すると、オカマになるのだろうか?生まれた子どもをオカマが育てれば100%オカマだろう。オカマに混じった自分がオカマになる?いや、ならない。そういうキモチわり~環境から、とっとと逃げ出す。最近、マツコのCMが多く、トヨタ自動車にまで出ているし、見れば即チャンネルを変えてしまう。
 
過去、即効でチャンネル替えたのは、音立てて食べる永谷園の茶漬けのCM、ジャパネットタカタの甲高い社長のCMの二点だが、マツコが新たに加えられた。永谷園のCMは聴視者からかなりのクレームがあったらしいが、良きにつけ悪しきにつけ、CMは話題になればよいというコンセプトだから、永谷園側は黙視したが、嫌悪の反響についに中止した。
 
 
食べる時の音量を故意に大きくしていたから、「品がない」、「汚い」、「食事時に流れると食欲が失せる」などの善意な聴視者の声を無視する企業体質に、「やってる事が茶漬け屋」と見下された。茶漬け、ふりかけオンリーの企業変革を模索しながらも変えられない永谷園の土着性であろう。同じ事は本年、日本食研の工場見学に行った際に感じたものだ。
 
企業理念をいかに言葉で飾ろうとも、ダサいものはダサい、それはなかなか変えられるものではないし、言葉の修辞に行動がついていかない、そういう土着性が染み付いている。永谷園しかり、日本食研しかり…。無理に背伸びをせずとも茶漬け屋、タレ屋を真っ当すればと思うが、日本食研が宮殿の工場を作ってみたところで「焼肉焼いても家焼くな」の日本食研である。
 
消費者には焼肉のタレが美味しければいい。最近マツコのCMが増えた。彼の露出の多さが要因だろうが、露出なら有吉とて負けていない。マツコに芸はなく、彼はただのゲイである。特技は毒舌で、有吉とて毒舌でならしているが彼の毒舌には毒がない。笑顔で毒舌を吐く有吉は、笑いを取るための「毒舌」でしかない。そんなチャらい有吉だからCM起用は難しい。
 
マツコの毒舌に笑顔はない。吐き捨てるようで声も大きく、容赦なくコキ降ろす。ダメなものはダメと、物怖じせずに言い切る姿勢は、"良い物を良い"という側に回った時に、必然的に説得力が増す。マツコへの企業の狙いはそこだろうが、残念ながらマツコが何を「良い」といっても伝わらない。毒舌家を自認する彼が銭貰って「良い」と言うのはダメだ。
 
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その点、CMはマツコに「よい」という言葉をハッキリいわせない、回りくどい評価にしているがワザとらしくて見ていられない。毒舌家が、CMに出ることで毒舌家本来の純粋性が損なわれるのよ。彼は毒舌キャラで、事物の酔眼を見据えた本物の毒舌家出ないのは周知であるが、おバカな民衆はのようなウソに煽動されるのだろう。同様にジャパネットタカタの社長。
 
彼がいかに甲高い声を張り上げようとも、「うるさい、黙ってろ!欲しい物はこっちで調べて買うよ」としか思えないが、自分で調べようとしない民衆が、彼の営業トークを鵜呑みにする。結局は自分で調べるのが面倒臭い、いろいろ教えてくれるので親切、有り難い、熱心だと言う事なのだろう。そういう民衆に支持されるツボをタカタ社長は身につけたのだ。
 
金利手数料ナシという営業トークが良心的に受けたことで、テレビは簡単に人をそそのかせると実感したのだろう。そもそも、自社で負担していると言われる金利手数料は、会社の利益から支払われるものであり、その利益は当然タカタで物を買った人が支払ったお金である。それが販売価格に含まれていると考えない善意な顧客が「タカタは良心的だ」となる。
 
有り体にいえば、分割払いの人が利用すれば金利・手数料負担と謳っているが、現金で買うと損だと思わない人がオメデタイのであって、あくまで子会社のクレジット会社ぐるみの営業手法である。トヨタの車を現金より、自社傘下のクレジットで買って欲しいのと同じ論理で、あまりにクレジットを勧めることで、「顧客本位でない」と怒るユーザーもいるのは事実。
 
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会社本位を顧客本位に見せるタカタトークは、偽善的でアホらしい。他人を出し抜いて素早く利を得ることを、「生き馬の目を抜く」と表現するが、善良な日本人を善良言葉で出し抜くのが日本社会である。ソクラテスは「悪法も法なり」と言って死んだ。どんな悪法も法である以上従わなければならないと言うことだが、西洋でそんな教育をされていない。
 
あちらでは「法だからといって従うべきでない」と幼児期から教えるが、この国では権力に反抗しないよう去勢するために、子どもの頃から国民にデタラメを刷り込んでいる。「政治は正しい」、「親は正しい」、「教師は正しい」、「医者は正しい」という刷り込みがまかり通り、「何が本当に正しいのかをしっかり見つめて目を養うこと」がおざなりにされている。
 
すべての事は一つの(一人の)意見に過ぎない。人間を信じない西洋人が神という絶対者を掲げるのはそうした理由ある。神も信じない、人も信じれない世で何を信じるか、結局人しかいない。つまり、信じれると確信した相手が期待通りであったなら、その人は充実した素晴らしい一生を送れることになる。自分もそうであるように、人は信頼できる人を求めて生きる。
 
本当に信じるもの以外は全てを疑うべきであり、それでこそ真剣に信じようという姿勢であろう。人をすぐに信じようとしない人間は横着者だと思っている。横着者が騙されて文句を言ってる光景はいとをかし。自分が本当に信じたいと思って、それなりに手間隙かけた相手なら、騙されたとしても納得が行く。そういう自己責任を明確にし、自分のキャリアを上げていく。
 
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安易な自分を棚に上げ、他人を恨み、他人を責めて、それで満たされるものは何だ?つまらない自尊心くらいしか見当たらない。つまらない自尊心や虚栄心でこの世が渡っていけるはずがない。さまざまな経験からさまざま学習し、自分を信じる心を養うしかない。それでこそ文字通り「自信」となる。曖昧に、安易に生きてどうして「自信」が備わるだろうか?
 
「交錯心」を持つ、持って生きるとはそういうこと。ガンジーは「非暴力」を訴えていたが、決して無抵抗主義ではなかった。だから、不当な法には絶対に従わないことを支配者に示す『不服従』という行動を起こした。その結果、イギリスの植民地支配から独立を勝ち取ることができたのである。不当な親に従わなければ独立は出来るが、それによって失う物的損失が怖い。
 
どっちつかずの根性ナシが甘えた反抗をする。親への中途半端な反抗などみっともなさすぎる。本気で反抗するなら親を頼らず、親もまた子どもの反抗には「好きにしろ」と放っておく根性もなく、子ども可愛さに妥協するような、双方の馴れ合い関係は茶番である。のるかそるかという感じが伝わる、緊張感を持った人間関係こそ、真摯であると思っている。
 
イメージ 4親子や他人同士の人間関係が交錯心はむしろいいことだと理解する。互いが「期待」と「不安」が交錯し、接点や妥協点を模索していくべきである。親子関係を「混沌」状態という表現をする奴がいるが、これでは光明が見えないし、「交錯心」にくらべて相手の心がぐにゃぐにゃに入り混じり、見分けがつかなくなったへなちょこ状態は自分と母がそうである。
混沌を超えた互いの存在がない状態にあるが、不要なものはなくても構わない。自分は努力をしたが、母親には隷属させる人間以外に興味がなかったようだ。歩み寄るとか、人間への対等意識のない傲慢な人間は斯くの結果になる。もし、自分が我が子との交錯はあっても、混沌になどならぬよう最大限の配慮、努力をする。それが人間としての在り方だ。
 
人間は「個」対「個」において絶対に対等である。そこを間違えないことだ。役職や肩書きをつけて区別をするのは産業構造上必須であるが、そこでなされるのは業務である。親子や私的な人間関係は業務にあらずで、肩書きは無用である。そのようなもので威圧せずとも、自ずから尊敬心が芽生えればいいことだ。望んだり、命じたりでどうして尊敬心が芽生えよう。
 
子どもから見れば親は親である。が、一個の人間でもある。一つだけに限定するなどはあり得ない。「親であるが人間」と、そう理解するのが「交錯心」。だから必要な情動である。儒家思想が間違っているのは、「親は親でしかない」という考えを強要し、上下の支配を容易にしたこと。儒教は封建主義には最適であったり、江戸幕府が官学として採用したのもそのためだ。
 
将軍は絶対、藩主は絶対というのは下の者を愚かにするだけだ。もっとも立派で崇高な将軍や藩主であるならその限りではないがそうばかりとはいえない。親だというだけで、上司だというだけで何で立派であることか。名君と言われた人はいた。素晴らしい師、素晴らしい親もいた。が、殆んどは至らぬ人間の世界である。それが生徒や子どもにアレコレ言うのだから…。
 
「人が人を教えることの傲慢」と説いた教育者がいた。だから、教えるという一方通行ではなく、双方向で楽しむというあり方が欧米の教育思想にある。教えるというより、「共に学ぶ」という師弟関係は日本的には馴染み難い。それは、師でもあるが友でもあるという交錯心の希薄さだろう。師からは教わるだけでいいという消極的で根強い考えも、双方向性を実現しない。
 
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「ピアノ教師は3つの言葉でやれる職業」と揶揄された。「こんにちは」、「その音間違い」、「さようなら」である。これが日本的学習の実態だ。人からものを教わるものの正しい姿勢とも言われた。ようするに教える側が権威的なのだ。権威を持ち、権力をもてば、下位者はひれ伏すしかない。教師がそんなに偉いのか?金銭を得る手段、仕事だろ?
 
が、権威は人間の拠り所でもある。人は権威にしがらんでいたいものだ。フランス革命はブルジョワ革命と言われた。革命で封建体制は倒れたけれども、だからといって次の社会はすぐには生まれていない。第二、第三の革命は必要だったということ。「風車は壊した。けれども風がなくなったわけではない」。フランス革命の何十年後にこういう言葉を漏らした文豪がいた。
 
『レ・ミゼラブル』の作者、ユゴーである。フランスは自国を「世界で最高の文明国」と称し宣伝する。1789年世界で先駆けて人権宣言を行い、「自由」、「平等」、「博愛」を掲げた。言葉とは裏腹に1930年代にフランスがベトナムに行った「植民地行政」について、英領インド、蘭領インドに比べて、フランス人の支配観念が余りに無慈悲で不親切で利己的と非難された。
 
フランスはベトナムにギロチン死刑を持ち込み、公開処刑、死後のさらし首、親子兄弟を投獄し全員虐殺もした。フランスには「人種差別禁止法」があるが、人種差別があるからそんな法律ができる。アメリカも人種差別の途絶えないが、差別は永遠になくならないだろう。差別者と被差別者についての「交錯心」を自らに課し、格闘しない限り差別はなくならない。
 
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