「公共心」は分り難い言葉。公共性、公共放送、公共施設、公共料金から理解に及んだほうがいい。我々が暮らす社会は公共性によって支えられ、成立している。街中も路上も会社や学校も、家族が集うリビングルームも、近隣との関係など、複数の人々が集まる場所が社会であるなら、そこには一人一人の公共に対する心が求められ、社会全体の利益になる。それが「公共心」というもの。
そこで対比されるのは「公」と「私」であり、「公私混同」といわれるように、「公」と「私」のケジメは重要だ。愛国心も公共心であるが、イギリスの文学者サミュエル・ジョンソンは、「愛国心とは、ならず者達の最後の避難所である」という名言を吐いているように、「愛国心」・「愛国者」・「ナショナリズム」というのは、専制国家や独裁主義につながる危険性があることから、高く評価されていない。
「愛国心」という卵から戦争は生まれている。アインシュタインも、「ナショナリズムは幼児の病気である。それは人類のハシカである」と切り捨てているが、愛国者は偏狭で単調な人間にみられているようだ。暴力さえも「愛国心」という言葉で肯定されてしまうが、ガンジーは「愛国心は人類愛と同一である。私は人間であり、人間的なるがゆえに愛国者である」と、「愛国心」を称えている。
「愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ」。「人類から愛国心を叩き出してしまわないかぎり、あなたがたは決して平穏な世界を持たないだろう」これはノーベル文学賞受賞者の言葉で、前文はイギリスの哲学者バートランド・ラッセル、後文はイギリスで活躍したアイルランドの劇作家バーナード・ショウ の言葉である。素朴にして単純であるが、実に的を得ており共感する。
「公共の利益」はなぜに「私的利益」を上回るべきものなのか?その前に「公共の利益」という概念をどう理解すべきかだが、「公共の利益」という文言で頭に浮かぶのは「独占禁止法」という法律である。「独禁法」にいう「公共の利益」の概念はいかなるものか、法律の条文から探ってみる。独禁法第2条5項には、私的独占の定義が書かれている。法律用語なので長いが、以下その記述。
「この法律において「私的独占」とは、事業者が、単独に、又は他の事業者と結合し、若しくは通謀し、その他いかなる方法をもってするかを問わず、他の事業者の事業活動を排除し、又は支配することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することをいう。」
この文言は論者により様々に解釈されているが、公共取引委員会及び多数派の説は、「公共の利益に反して」の文言を、"自由競争秩序に反する" 意味とした。ところが、法の番人である司法の最高権威は異なる見解を示している。1973年(昭和48年)のオイルショックを背景にした石油カルテルに対する刑事事件において、最高裁は、独禁法の立法趣旨を述べている第一条からこのように解釈した。
「第2条5項及び6項に言う、『公共の利益に反して』とは、原則としては同法の直接の保護法益である自由競争秩序に反することを指すが、現に行われた行為が形式的に右に該当する場合であっても、右法益と当該行為によって守られる利益と比較衡量して、『一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する』という同法の究極的の目的に実質的に反しないと認められる例外的な場合を右規定にいう『不当な取引制限』行為から除外する趣旨と解すべきである。」
この解釈は、内容の不明確さ、恣意的な解釈を導く怖れが強く、独禁法のカルテル規制の実効性を損なうばかりか、罪刑法定主義に反すると批判をされている。最高裁も苦悩する「公共の利益」という文言は、法律が万能性のないことを如実に示している。それでは何が万能であるのかといえば、全能の神の言葉しかあるまい。人智を超えた神の言葉というものに我々はいつ触れたことがあろう?
文学書のような聖書の記述を後生大事にしてはいても、その場、その都度の難問に神の啓示も言葉もない。人の思考は人智を超えるものではないが、頼りにならぬ神など宛てにしないでひしめき合って行くのがこの世であると、無神論者の自分である。神がいてもいいが、いなくて何も困らないとの立場は変わらない。東日本大災害を「天罰」といった政治家がいたが、「天」というからには神の代弁だろう。
無神論者的立場からいえば、いかなる問題に即しても「天」なる言葉は使わない。まして、罰を与えるだけの神など、無慈悲その謗りを免れないと感じている。いるというなら余計な事はしてくれるなと言うしかないが、無神論者としての立場は、この世で起こるすべてのことに意味などない。単に起こるべくして起こっただけのこと。人間はそこに意味を求めようとするが、求めたところで答えは出ない。
神の御利益もない代わりに、神の戯れもないという立場が自然である。「生きる意味が分らない」、「先の見通しが立たなくて不安で辛い」などと寝言を言う人は多いが、バカをいうなと言いたくなる。「人間は、意味がないから良き生を生きられないのではなく、良き生を生きられないから意味にすがるのだ」(ニーチェ)というように、あるいは、「人生にあるのは意味ではなく味わいです」(谷川俊太郎)でしかない。
仏教の教えというのは、「この世もあなたも『色即是空』であり、『諸法無我』であって、人生に意味を求め、それに悩むあなた自身が『空』である」というように、それ自身が虚偽意識である。「努力すれば報われる」ではなく、「報われたければ努力しろ」であって、結果は分らないことなのに、結果を求めて努力するヤツが文句をいうのだろう。人間はなまじ頭であれこれと考えるからズルイ事も考えるもの。
所詮は動物が生きているだけに過ぎないんだし、人生に意味を求めるのは、人間が勝手に考えて作りあげた思考に過ぎない。黙って生きてりゃいろんなことが味わえるのは理屈ではないし、意味を求めなくてもよいではないか。無駄に生きてると思っても、他人からは有意義に見えるかもしれない。だから、自分で無駄と決めつけて生きるのは止めた方がいい。有意義な生と思った方が楽しいと思う。
考え方や心の持ち方次第で人間はいかようにもなる。イヌやネコにはない人間の特権と言うべきものかもしれない。折角の特権ならいいように、有効に使った方がいい。よくない方に使うから自殺したり、無益な殺傷をするんだろうから、いつも思うのは人は動物から学べだ。「生きる意味もない」から、「死ぬ意味もない」これが生と死の対の考えである。運命論者は過去に意味を置く。
同様に未来に意味を置いている。が、未来など見えるはずもない。もし、運命論者が未来を知りたいと欲したとして、生まれてから死ぬまでに起こることが全部わかっている状態で生きたい思うなら、毎日毎日、明日に怯えて寝られないだろう。人の運命は誕生時から決まっているという考えのどこがいいというのだろうか。脚本どおりで決まった運命なんぞ、いつ見ても同じ映画、同じ夢でしかない。
未来を知ったところでいいことないし、そんなくだらんことにうつつを抜かさず未知の明日にときめくことだ。終ってみたらつまらぬ一日であったとしても、また明日がある。最近(でもないが)、ウルフルズによってカバーされた坂本九の『明日があるさ』という曲は、元気が出る歌の代表だ。「明日がある、明日がある」と歌い続けた九ちゃんは、1985年8月12、日航機事故にて御巣鷹山に消えてしまった。
「『明日があるさ』と元気を与えてくれた九ちゃんが、どうしてこのような運命にあわなければならなかったのか…」とインタビューで答えた人がいた。ナンでもカンでも物事を関連付けて考えたいんだなと、そういう人間は腐るほどいる。個々の自由だが根拠はない。それだけはハッキリしている。週刊誌の記事などで、「○が×であるコレだけの理由」などと根拠をあげて説明する。
売らんがために面白可笑しくやってるとしか思わない。当たり前のことを書いても売れるはずがないという商業主義がデマゴギーを生む。かの日航機事故も、米軍のミサイルで撃ち落されただの、人類は月にいっていないだの、私は宇宙人と会話しただの、こすっただけでスプーンが曲がるだの、読み物として面白い、大槻教授と韮澤のやらせバトルも人気があった。
公共心を忘れ、面白ければいいというテレビ業界が、信頼を損ない、テレビ離れを起こしたのは、業界自身が墓穴を掘ったもの。大阪のテレビ局に勤務していた叔父貴が、「テレビのない世界に行きたい」と50年前からいっていたが、長いことその意味が分からなかった。「公共の利益」が難しいのも、公共が雑多であるからで、それを一元化する法解釈には無理が生じる。
民放テレビ番組に公共性がないと言われたかと思えば、NHKには「どこに公共性があるんだ」と言われたりと、世の中がこうであるから面白い。人によって意見の違い、感じ方の違い、そういう人間と対話する面白さ。俺が正しいと思ってる奴は何も正しくはない。自分が自分の感じた意見を言ってるだけなのに、「あなた自分が正しいと思ってません?」と食いつく人。
正しい、正しくないに関わらず、自分の考えを言うのはアリで、人に文句をつけるに自分の考えを言えと。どんな意見であれ、ちゃんと自分の考えを述べる人を自分は評価する。罵詈雑言ならべて文句をいうだけの人間に比べれば天地の開きがある。意見のない人間はグツグツ文句を言うしかない。文句をいって気晴らしをしているだけだから、答える言葉はない。
いかに異質な意見といえども、それが意見なら誠実に答えたくなる。無視、抹殺するのではなく、誠実に応対しなければ傲慢である。そういう傲慢な人間になどなりたくない。反対ならキチンと反証する、これが対話である。仲良しこよしを旨とする暇つぶし的井戸端会議はやらない。そういえば、"仲良しこよし"という言葉にある"こよし"の意味がいろいろあって面白い。
その中で、「夕焼けこやけ」の"こやけ"と「仲良しこよし」の"こよし"は同義という意見に賛同した。つまり、「こやけ」はちょっと夕焼け、「こよし」はちょっと仲良しというのは納得がいく。つまり、みんなが仲良しというわけでもないだろうから、「こよし」とあえて分類している。ネットの関係性というのは、文字だけのつながりと言う点ですべて「こよし」だと感じている。
仲良くしなければならない理由もないから"こやけ"であって、ブログなんてのは来る人拒まずが基本だろうが、無神経で傲慢な人はそれなりに退室を求めた方がいい。といっても中には物分りの悪いバカもいたりで、退室を命じられて怒って文句を垂れるって神経ってのは理解しがたい。自分はその経験はないが、こういうネットバトルは結構見聞きした。自我のぶつかり合いは仕方がない。
自己主張が決して悪いとは思わぬが、どうでもいいことに躍起になるのが心が未熟なんだと見ていて分る。もっとも美しい自己主張は公共性を前提としたもので、自己の利益とは何ら関係のないことにも人は一生懸命になれる、それが「公共心」であろう。自分が暮らす社会全体に対する思いやりのない自己主張というのは、誰もが受け入れがたい、成立し得ないものだ。
道理もわきまえず、公共心など微塵もなく、我が子に必死になる親をモンスターペアレントと名づけられた。自己主張は大事という風潮が一部の人たちには自分本位に解釈されているように感じる。こういう人間は、自分の思った通りに行動すれば、周りの人が自分に合わせてくれるだろうとの身勝手な考えにある。自己主張は公共性を前提として成立するという思考なきバカ親。
こういう人は熱心に見えるが、実はまるで違う。こういうタイプは、日常生活にも、自身にも、子どもにも、気持ちの余裕のない人だろう。他人に譲り合えない、他人に優しくできない典型の人間は心にゆとりのない人間。親からもそういう教育をされていないから、我が子にもそれが出る。自分が無理を言ってるという気がないから無理が言える。こういう人は直らない。
子どもに公共心を植付けるためには、親がガツガツしないこと。子どもはそれをしっかりとみて、よいこととして習おうとする。試食サンプルでも買う気がないのに、食べなきゃ損だばりにかぶりつく親と、「買う気がないのに食べてはいけないよ」と子どもに教える親とでは、0:100くらいの違いがある。普段の、日常の、何気ない行為、仕草が子どもに伝わっていく。
教育とはそういうものであり、教材もまたそういうものだ。親に理念があるかないかに尽きる。地域の草刈や公園などの公共施設の清掃に、家族で率先して出てくる親には、何も聞かずとも理念が伝わって来る。高いお金出して塾に行くこと、無料の奉士作業に笑顔で出席する子の差は、将来に現れる。塾批判ではなく、勉強疲れの子どもに奉士作業させるより、ゆっくり寝かせてやりたい親心を問うている。
なぜ「公共心」を育まねばならないか、いうまでもなく人間はみなジコチュウだからである。躾をされた人間とそうでない人間は、公共の場での差が歴然と現れる。公共の場でどのようにするかを教えるのが「公共心」だから、それを教えられていない子どもに公共の場での態度が身につくはずがない。単に押さえている子と、身について実践してる子と、一見同じように見えて、実は「似て非也」。
「公共心」も、社会生活を送る上で他人との関わりを大切にするという、一種の我慢であろう。我慢もなれれば当たり前になる。その段階で「公共心」が身についたと言える。なかなか身につかないし、なかなか身につけさせられないし、もっとも身についてない親なら教えられないし、身についている親なら口やかましく教えることができるという代物だ。「公共心」のない子どもは100%親が公共心が希薄である。
「ちゃんと言ってるんだけど」と親は言うが、本当に公共心が身についてる親は、どれだけ公共についてうるさく言うかを知らないのんきな親の戯言だ。「いってる」程度で「公共心」が身につくものかと。子どもに不足してるものを指摘されると、多くの親は必ず「ちゃんと言ってるんだけど」というが、言う=学ぶではない。教育者として名高い林竹二の言葉に、「学ぶとは自己を変えること」とある。
いくら学んでみても、自己を変えられないなら、変えられなかったなら、学んだことにはならない。学ぶは身につけると置き換えてもいい。「ちゃんと言った」と親がいっても、子どもに身についていないものは躾とは言わない。躾とは教育書に書いてある事を、口で、言葉で言うだけと思ったら大間違い。身につけさせるために、知恵をしぼり、必死になることだ。それが親の情熱であり、態度である。
サービス業などで態度や言葉使いや所作の悪い従業員がいる。責任者にいうと、「申し訳ありません。ちゃんと言ってるんですが…」というヤツはダメだ。「ちゃんと言ってるんですが…」の一言が多い。なぜこの言葉を言うのかといえば、責任回避をしたいからだ。言ってる、言ってないの問題ではないのよ。守らせるかどうかだろう?こういう言葉を吐く責任者は、責任回避をする分、無能である。
責任者は責任を取る人で、責任回避は許されない。よい責任者はこのように言う。「申し訳あリません。二度とこのような事がないよう、私の責任で対処させて頂きます」。どういう人間を責任者に置いてるかで変わる。真に自己責任の確立した人間を責任者と配置すべし。保護者の自己責任も同等だ。子どもが学校の窓ガラスなどを故意に破損させたら親は弁償すべきだ。
良いとたしなめられてもすべき。それが子どもの暴走を食い止める手段と定めて…