手柄を立てて名を上げることを功名という。司馬遼太郎の『功名が辻』とは、功名を立てるまでの軌跡という意味。こんにちに「功名心」はネガティブに言われるが、手柄を立て、名を上げるのはいけないことか?「功名心」なく、無欲で世の中に尽くす人は限りなく神仏に近い人間であり、そんな人間がかつても現在もいるのか?「いたはずだ」。いや、「いたと思いたい」。
ただし、歴史上の偉人より、名もなき普通の人々に多いかも。勝海舟は以下のようなことを言った。「口で上手いことをいくら言ってもダメだぜ。功名心は得てして自分で自分の墓穴を掘るもんだよ。政治屋さんたちを見ていると分るだろう。ご本人たちは、国民の目が節穴だと思っているかも知れねえ。そうは問屋が卸さねえのさ。国民は全てをお見通しなんだ。」
さすが、勝小吉の息子である。いってる言葉が小気味いい。小吉の子ども思いの一面が「海舟伝」にある。燐太郎(海舟の幼名)は9歳のとき、犬にキンタマを噛み切られ、生死の境をさまよっていた。医者からも治療不可と見離されたほどである。小吉はその犬を探し出して二つに斬り捨て、燐太郎が治癒するまでの70日間、自ら欠かさず妙見堂本堂に通い詰めた。
初めて妙見堂の本堂に来た小吉はずかずか本堂に上がり、本尊の前に仁王立ちとなった、堂主は驚き、「勝さま、何をなされます」と制したが、「心配すんな。この妙見菩薩が本物か偽物か、試しているのだ」というと本尊の肩に手をかけて言った。「もし、妙見さま。よく性根をすえて聞いてくれ。この前せがれが千代田城に上がるとき、せがれの体を守ってくれるようお願いした。それを聞き入れてくれるなら俺の体はどうなってもいいとも言った。そのせがれが生きるか死ぬかの大怪我だ。これじゃああんまりじゃないかね、妙見さま」。「勝さま。あまりなことを言うと仏罰があたりますよ」。近所のものがたしなめると小吉は言った。「それを今夜は確かめてるんだ。ねえ、妙見さま。このまませがれが死ぬようなら、この小吉もあの世へいきまっせ。
そうして諸仏の前で、妙見菩薩なんざ~いかさまだと、洗いざらい悪口を言わせてもらいやす。お前さんも人を憐れみ、人の苦難を助けるのが商売なら、せがれの傷を治してやってくれ。これだけ言って聞き届けないなら、お前さんに小便ひっかけてやるからな。その代わり御利益がありゃ、どんなお詫びもするし、命がけの供養はおこたらねえ。なあ、妙見さま。小吉一生の願いだ。
燐太郎が犬にキンタマ噛まれて死んだなど、あまりにむごい話だろ?わかったかかい、妙見さま」。といい終えると涙をはらいながら、本堂横の井戸に戻って何度も水をかぶり出した。妙見菩薩の御利益なのか何なのか、燐太郎は全快したが、この一件がトラウマとなり、以後勝は、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほど大の犬嫌いになる。そりゃそうだろう。
勝小吉・燐太郎の心温まる話は子母沢寛の『父子鷹』に描かれている。巷に埋もれながら一生を過ごす御家人勝小吉が、実現出来なかった自分の夢を、我が子麟太郎に託して、ただ一すじの努力を続ける。世に父子鷹と言われる話は多いが、小吉と燐太郎がまさに原点ではなかろうか。小説は後に映画となり、市川右太衛門、北大路欣也の父子が初共演が話題となる。
男にしかわからぬキンタマの痛さ、叩かれて痛いのだから噛み切られた痛さは想像を絶する。にしても、なぜキンタマという奴は少しあたった程度でもあれほど痛いのだろう?それは金玉は内臓だからという。痛さは知っていても、なぜ痛いの理由を知りたいと思ったことはなかったが、ついでに調べてみた。実は睾丸(正しい用語)は、母親の胎内にいる時は腎臓の横にある臓器であった。
それが生まれるころになると、降りてきて現在ように外に出ている状態になった。したがってあの袋の中身は臓器なのである。レスリングや柔道などの試合で、キンテキ攻撃を食らい悶絶する選手に、レフリーやセコンドが腰を叩く光景を目にするが、キンテキ攻撃を食らうと、睾丸が再び体内にもぐり込む。それを元の位置に降ろすために、腰を叩いたり飛んだりする。
ところで、キンタマ(再び)の痛みと言うのは、これは女性の出産の痛みどころではない。痛覚の単位でいうと9000delとされ、この数値は一度に160人の子どもを産み、3200本の肋骨を折ったと同等の痛みとされる。一度に160人、もしくは3200本の骨を折るといわれても想像もできないが、その痛みを男は実感できるのだ。まさに急所と言われる所以である。
キンタマを痛めることは一生に数回あるかないかだが、女性の生理痛は毎月である。子宮も内臓だから同じように痛いのだろうが、鎮痛剤で軽減される。が、キンテキに鎮痛剤は効かないだろ。というより、瞬間的な痛さ、顔面蒼白で、脂汗たらたら、ヒクヒクのた打ち回っている状態で、鎮痛剤を飲むという状況になく、「地獄の苦しみ」にのた打ち回るしかない。
「灼熱の苦しみ」、「時間が制止する」、「目玉が飛び出そう」、「ブラックホールに吸い込まれたような感覚」などの表現もあるが、とにかく打撃を受けたときの痛みが、マッハ速度で脳に届くという状況である。対する脳の防護反応も凄い。刺激を受けた直後、大脳は脳内麻薬「エンドルフィン」を即効分泌し、エンドルフィンにより鎮痛効果が得られることになる。
その副作用で脳内の酸素濃度が低下し、頭痛や吐き気を催すなどもある。さらに、腹部と睾丸の痛みに対する感覚受容器を共有しているため、睾丸が傷つくと男は「ウッ」と、子宮内胎児のようにお腹を抱えてしまう。また眩暈(めまい)を起こす人もいて、それは内耳を満たしている液体「内リンパ」が振動するためで、実際に吐くかどうかは、打撃の精度と体質による。
キンテキはさて、マンテキの痛みは聞いた事がない。女性の急所はおっぱいだというが、痛くないという女もいたり、みぞおちの方が痛いよといったり、男の急所ほど万人ではないようだ。まあ、女を打ちのめす時に胸を打つことはないし、顔かみぞおちに行く。女の胸に男が苦痛を与えたくないのは、女性のおっぱいは、「憧れの友」という先入観があるからか?
何の表題か分らなくなってきたので、「功名心」に立ち返る。将棋界における不世出の大名人といわれた大山康晴十五世名人の言葉に、「功名心をしりぞけて、平常心、不動心を持ち続けよ。」というのがある。これは、柳生新陰流剣術家柳生宗矩の「平常心をもって一切の事をなす人、これを名人というなり。」から取った言葉だろう。逆もまた真なりということだ。
「軍人の徳である功名心は、大将の影を薄くするような勝利よりも、むしろ敗北を望むものだ。」これはシェークスピアの劇『アントニーとクレオパトラ』の中のセリフだが、これとて紀元前のローマ軍の武将でシリア、小アジアに遠征したウェンティディウスの「武人の徳とされている功名心は、汚れをまとった利益よりもむしろ損失を選ぶ。」から取ったものと思われる。
我々の時代の卒業式ソング定番は『仰げば尊し』であったが、これが歌われなくなった背景には、立身出世や功名心を煽る歌詞だといわれた。♪身を立て名をあげ、やよ励めよ、の個所である。ここで中国古典『孝経』における〈立身行道挙名後世〉から取られたものだが、『孝経』では孝行を道徳の根本としている。「仰げば尊し」に適用されたのはその通りであろう。
日教組が教師聖職思想を脱却し、労働者としての人権意識を強めたのであれば、教師に恩を受けた覚えなどない、教師はサービス業で保護者はお客様、感謝すべきは教師の方、卒業後にどんな生き方をしようとその人の自由、立身出世を押しつけるな。というのは、当然の報いであろう。報いと言うのが気に障るなら、サラリーマン教師の是非について一考すべし。
師を敬う。自分を導いてくれる人を敬うは素晴らしき東洋思想、世界に誇る思想であり、だから寺子屋もでき、日本の高い倫理観はここにあった。それを教師団体が組合と称し、労働者意識を全面に押し出し、人権意識が強まったことが、こんにちの学校崩壊につながった。国を愛せない教師で日本の将来はあったものではないが、日教組に猛省の兆しはない。
教師への尊敬を強要している。これは「思想・信条・良心の自由」を侵害している。ということだが、『仰げば尊し』を12年間歌い続けてきた自分に、教師や親への尊敬を強要されると感じるなど皆無だった。直接言葉でいわれれば感じるかもだが、歌であり、校歌にしろなんにしろ、その手のものは美辞麗句満載が当たり前であるのは子どもでも理解する。
教育現場への異常なイデオロギーの持ちこみから、重箱の隅をつつき回したことが混乱の原因とみる。かつては生徒・保護者ともに教師に対し、尊敬の目、威厳ある目を向けていたが、教師が人権意識を強めたことで、生徒・保護者の視点からみた教師の立場は失墜し、尊敬、威厳の目も廃れた。これは教師の望む結果なのだろうから、何をかいわんやである。
今後も教師と生徒は友人関係を保っていくしかないだろう。友人関係が悪いともいわないが、「威厳が必要なときはどうするのか?」となる。権威と言うのは実は安心感でもあり、権威者に従っていれば安心という信頼感でもある。権威なき教師に果たして安心感を抱けるのか?権威に反抗する人間は、実は権力に反抗しており、権力という外側からの恐怖に対してである。
子が親と友だち(のよう)であってはならず、教師が生徒と友だちであってはならないのは、対等な人間に言う事を聞かせる場合、指示・命令が効力を発揮できず、どうしても力を頼り、そこに権力が発生する。友人相手に指導・鞭撻する義務はなく、無理やり言う事を聞かせる必要のない対等関係にある。が、権威からもたらされる安心感は信頼に基づき、力に頼ることはない。
権威に従う人間は、依存者の心理を持っている。戦国時代の雑兵は功名心なくして出世できなかった。殿様の信頼を得る手段が功名を上げることだった。運よく功名を上げることはあっても、いつもそう上手くはいかないし、だから「功名心」の強い人間が手柄をあげることに躍起になる。戦国の世ではそれが正しく、よいこととされた。
現代社会で「功名心」の強い人間は周囲から嫌味に思われる反目される。どうしても「抜け駆け」の心と解されるからだろう。抜け駆けとは他の人を 出し抜いて自分だけ先に物事をすること。これでは嫌われても当然か。「向上心」とは雲泥の差がある。向上心は自分の内面の問題であるが、功名心は他人からの評価を得たいという気持ちが、どうしても周囲には嫌味にうつる。
そんなこと問題にせずに上に取り入ろうとする奴はいるが、アホな上司はそれを忠誠心と感じたり、可愛がったりするのが多い。全体を見つめる目がないから管理者向きではなかろうが、そういう役職者は多い。経験も含め、想像も含め、世の中をいろんな視点でみると面白い。面白い中で、人が不満をいい、悩み、苦しんでいる状況も見える。苦しさは振りほどいて欲しい。
そのために何か役立てる事はないかと思うが、とにかく目先だけのことに終始せず、いろいろなことを考えてみること。すると、必ず道理というところに行き着くものだ。それまでは、我欲であったり、羨望であったり、嫉妬であったり、功名心も含め、「不満」の根源はそういう物でしか成り立っていない。それら我欲や、羨望や、嫉妬、功名心などを取り払うことを考える。
それが道理ではないかと常々思う。「そんな、道理のようには行かないよ」という言葉もよく聞くが、道理が正しいのは当たり前。だったら正しいことを勇気を出してやればよい。それが出来ないのは勇気がない、それが人間の弱さ。あれば出来るが、ないからできないことが道理となっている。嫌な親、嫌な友人、嫌な上司で悩むなら、道理に殉じて自らを奮い立たせる。
親が子に親の都合でアレコレ命じるのは、親の都合で道理ではないと思うしかない。子どものためと思うことを親自らが疑うしかない。納得すればやればいいのだが、道理そのものが世の中で作られると言う事もある。それは「道理」ではなく、「流れ」なのだが、世の中の流れを「世間」というなら、世間に抗う事は勇気がいる。が、真の「道理」は世間に反することも多い。
世間と言う名の「流れ」が覆いかぶさる。正しい目を持てば怖れるものはないが、性格の弱さもあるのでなびく。それを「世間に流される」という。ただ、親に対する「功名心」持つ子はダメだ。これはハッキリ言う。親に功名心など抱くは「百害あって一利なし」。その場では得したようだが、「武人の徳とされている功名心は、汚れをまとった利益よりもむしろ損失を選ぶ。」を思い出す。
「子どもの得とされている功名心は、汚れをまとった利益よりも損失を選ぶ」と変えてみる。ようするに、心を売るなということ。自殺した理研の笹井氏は生前記者会見席上で、「STAP細胞研究を通じて功名心はなかったか?」の質問に対し、「純粋にアドバイザーとして手助けをしただけで、自分自身の仕事としてSTAP細胞を考えたことはない」と功名心を否定した。
察するに笹井氏の自殺は、世間を騒がしたこと、理研に迷惑をかけたことも一因だが、何より彼自身の屈辱の大きさである。自尊心の強い人間だけに屈辱は絶えられない。笹井氏が嘱望された科学者との自負もあっただけに、自分が起こした屈辱的ミスを許せなかった。あげく、世間や周囲の冷ややかな目に、「穴があったら」の心境であった。と、同時に自らを苦しさからの解放した。
自殺は責任逃れの逃避との非難は多いが、斯くいう人間は、責任をどう取れというのか?自殺はまぎれもない責任の取り方の一つである。現世的喪失利益の大きさからして辛い選択であり、その辛さを、"したり顔"で排除できる人間を厚顔無恥という。厚顔無恥に生きられない心弱き人間をなぜに攻め立てる?この問題にさらに思考を連ね、整理して述べてみたい。