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「向上心」

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99歳の大学聴講生として話題になった村川信勝氏が、100歳の誕生日の6日前に亡くなった。村川氏は93歳から大学に通いだしたというが、なぜそんな高齢になって大学に通う必要があったのか?小学校時代に関東大震災で被災し、貧しい暮らしを余儀なくされた。卒業後大阪に移り、父親の縫製の仕事を手伝うも「向学心」断ち切れず、夜間の商業高校を受験合格する。
 
しかし、父親からの入学を認められず、いつか大学で勉強したいという思いが残ったという。小学校卒業の学歴しかない村川さんが大学で勉強するには、社会人聴講生制度を利用できる大学をみつけなければならない。93歳のとき桃山学院大学をみつけ、国際政治を学ぶことになった。大学へは、電車とバスを乗り継いで2時間、徐々に足腰が弱り、体力の衰えを感じた。
 
筋力を鍛えるために週2回のリハビリに通いながらの通学である。「生きているうちしか勉強できへん。生きている間は最後までやりたい」をモットーに、講義ではいつも教室の最前列の真ん中に座り、机の上にはルーペとノート。板書の1文字も漏らさずに書き写し、家では辞書を片手に講義内容の清書と復習をした村川さんは、学食でよく学生に声をかけていた。
 
「親が一生懸命お金出しているんやから、勉強は十分にしいや…」学ぶことも大事だが、こういう人は本来教えるべきである。それが学生にかける上の言葉だろう。学びで生涯を閉じた村川さんの文字通り「生涯学習」の人生だが、何も大学で聴講するだけが勉強ではない。本一冊読むのも、30分の教育テレビ番組を視聴するのも勉強、昨今はそこら中に学びの機会はある。
 
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人はどうして学ぶのか?学ばねばならないのか?実は、「人はなぜ学ぶのか」という問いそのものが既に答えを示している。なぜなら、この問いはそもそも何を求めているのか。して、「なぜ」に対する答えであるけれども、それの具体的内容を捨象して文の構造に注目すれば答えは出ている。つまり、「学ばねばならない」という事態の〈根拠〉を求めていることになる。
 
例えていえば、学ぶことに疑問を感じるのでなしに、喜びを感じる場面を考えてみる。それを学ぶことで自分が今抱いている「なぜ」に対する「根拠」が分かるという期待である。人間は「根拠」を求めて学ぶのであり、学ばずにはいられないのだ。こう考えると、「人はなぜ学ぶのか」という問いを発した人は、実はもう、「学びつつある」ということになる。
 
「なぜ」に対する「根拠」はそう簡単ではない。「なぜ」の分野は多様であり、求める「根拠」の深さも人によって多様であり、よって示されるべき「根拠」の中身は一様ではない。例えば、「なぜ人は生まれるのか」という問いに対する「根拠」は、生物学的にも、哲学的にも、宗教的にも、社会学的にも、文学的にも、さらには童話的にも回答可能だ。
 
どれが発問者を納得させるものとなるかは、発問者自身の問いかけの質による。さらに我々が学びに喜びを感じるもう1つの場面は、重要な分野における自分の能力を発揮できるものを学ぶときだろう。資格を取る勉強であったり、英語能力の向上であったり、このような「学び」というのは、社会における自己の存在意義を確認するための「学び」である。
 
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したがって、自分の「学び」において、「なぜ」という疑問がわくなら、それすら一つの「学び」と言うことになる。道家の老子は儒家を痛烈に批判したが、次の言葉はその最たるものと言える。『学を為せば日に益(ま)し、道を為せば日に損(そん)す。これを損し又(ま)た損して、以(も)って無為に至る。無為にして為さざる無し』(『老子』第48章)。
 
文言の意味は、「学問を修めると日に日に知識が増えるが、「道」を修めると日に日に知識が失われていく。知識を減らした上にまた減らし、そうして無為の境地へと至るのだ。無為であれば出来ない事などありはしない」。要訳すれば、学問的知識をいたずらに増やすよりも、むしろ無為で自然の境地にいてこそ、生を充実できるのだと説いている。
 
「学び」とは、生きるための「根拠」を求めることに他ならないこと、して、「根拠」を求めるためには、表面的な学びなどはまったくの無意味であることを、老子は簡潔・反語的に鋭く述べている。常に思うことだし、いつも述べていることだが、受験戦争から発した乱塾時代、悪しき「儒教的伝統」の影響下において、表層的学びを子どもに求める根拠は何?
 
イメージ 4即席ラーメン的な日本的学びへの警鐘はいろいろ耳にするが、受験勉強の無意味さを受験の勝利者は口にしない。もし、それをしなければ大学に受かってないと思うからだ。ところが、入学後に「学生時代にもっと学んでおけばよかった」という言葉。「経済学部なのに、マクロ経済について何もやっていない」という言葉や反省から学びの本質が見えてくる。
知識をもっともっと蓄えておけばよかったではなく、「人はなぜ学ぶのか」という、「学び」の原点にに立って学ぶべきであったを意味しているようだ。学びとは様々なエレメントがまるで木の枝のようにさまざまに幹から飛び出し、一本の木となっている。よって「学び」とはそれぞれの木の枝の「根拠」と幹との関係、関連性を求めることである。
 
受験勉強が"学びの根拠"ではなく、上の学校に入る目的のためとなっている。広義には"学びの根拠"に違いないが、自分はそうは思わない。アレは「根拠」というより目的だ。他にも学びの目的として、収入の高い職業につくため、やりがいのある職業につくため、立派な人になるため、あるいは生活に困らないため、隠れた才能や能力を開発するため、などがある。
 
学びの目的は様々な考え方があるが、目的であるなら目的は達成させられるべく努力が大事。江戸時代の寺子屋では、自発的な学びが大事にされていた。先生も強制的に勉強をさせるということはせず、自ら学ぼうとする意欲や志が子どもの中に出てくるまで待ちましょう、というおおらかな姿勢であった。それを当時江戸を訪れた外国人たちは不思議がった。
 
寺子屋で思い思いに過ごす子どもたちに怒りもせぬ先生に驚いている。加えて、そのようなおおらかな学びであっても、日本人たちがみな文字を読め、高い算学の能力を持っていることを不思議に思ったとの記述もある。テストや強制的な指導も体罰もない中で、なぜ学力がついていったのか、それが「向学心」というものなのか、「寺子屋」の不思議さである。
 
『江戸時代の教育』の著者イギリスのロナルド・ドーア博士は、江戸時代の教育のすばらしい水準に達していて、武士階級だけでなく庶民まで読み書きそろばんを修めていたのは、当時ヨーロッパ諸国に比べて勝とも劣らないと記している。日本が明治維新を経て、アジアの中でただ一国だけ急速な近代化ぶ成功したのは、江戸時代の教育基盤があったからと示唆している。
 
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庶民に読み書き能力があったから、新しい土地登記制度や戸籍制度の実施が可能になり、貧農でさえ自分が捺印する書類を読むことができたため、恐怖交じりの疑惑から途方もない噂が流れ、それらが抵抗や反乱につながることも少なかった。それだけではない、庶民も教育を通じて「向上心」を持っていたことが大きいとドーア博士は述べている。
 
教育哲学者の林竹二は「学ぶの意義」をこう述べている。「学ぶということは、覚えこむこととは全くちがうことだ。学ぶとは、いつでも、何かがはじまることで、終ることのない過程に一歩ふみこむことである。一片の知識が学習の成果であるならば、それは何も学ばないでしまったことではないか。学んだことの証しは、ただ一つで、何かが変わることである。」
 
「学び」の機会均等の時代にあって、親の収入差に比例して教育格差が言われる時代である。が、モノは考えようで「教育格差=幸福格差」とは思わないが、そう言う事を信じる親は多い。物質的な幸福は、教育からもたらされると思っているのだろうが、幾多のエリートの自殺をみるに、彼らには彼らなりの、余人の預かり知らぬ苦悩が見え隠れする。
 
「読み書き算盤」といわれるように、ドーア博士のいう教育水準の高さは、江戸時代から続く日本の伝統だった。その伝統は第二次大戦後も続き、敗戦で大きなダメージを受けた日本が立ち直る源となった。明治維新と敗戦という二つの難局を、教育レベルの高さで乗り切ったのは否めない。19~20世紀にかけて教育でもっとも成功した国、それが日本だった。
 
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そこには経済格差も教育格差も存在したし、格差を内包しながらも高い教育水準を保っていたのは、なんといっても庶民の教育レベルの高さであった。諸外国に比して日本の教育に足りないものがあるとすれば、自分の意見を堂々と主張する訓練である。単純トレーニング教育は日本の財産であるが、それが講じて外にモノをいえない、内弁慶の国民を作っている。
 
あるフランス在住日本人が議論に勝てない本当の理由をいろいろ述べているが、やはり自己主張の訓練のなさであろう。自己主張は害悪とばかり「和」を重視する。フランス在住のある日本人がこう記している。「フランスに居て面倒臭いのが、フランス人が議論好きってこと。何事も、寡黙に、穏便に過ごしていたい日本人にとっては、悩みの種になりかねません。
 
フランスに住む限り避けきれない「議論」の輪…、どうすればいいんだ~。」と嘆いていても解決しない。子供の頃から物事に対して、反対の意見や賛成の意見などを積極的に話すことを、学校で教えられ、日常で実践してきたこともあり、フランス人は日常でも議論をふっかける。フランス人が何らかの意見に言葉をぶつけてくるのは反射的な行動である。
 
一例を示す。「そうそう、この前うちの子供が〇〇で賞をもらったのよ~♪」こんな母親同士の会話は日常の光景で、日本だったら、「まあ、すごいわね~」ぐらいの言葉を返してくる。お世辞であれ、やっかみであれ、口にでる言葉はそれだ。これがフランス人ママなら、「オタクのお子さん、〇〇のことを本当に好きだからやってるの?」となるかも知れない。
 
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日本人同士ならニコニコ相槌で和やかに収まるところが、いきなりこんな質問で返されると敵意すら感じるのでは?おまけに質問に躊躇するなど許されない。質問されたら、2~3秒以内で返答することが良いという教育もなされる。返答遺憾では、「えっ? あなたのところは嫌がる子供を強制的にやらせてるの?」などと、非難の追い討ちさえ食らってしまう。
 
敵意ではなく、他人が他人に抱く素朴な疑問を、相手に問うているにすぎないという国民性だ。フランス人にとっては、返答に困って「沈黙」するなどの印象は格別に悪いことらしい。何も答えないことは、否定形に受け取られ兼ねない。何も答えず押し黙っているより、思ったこともスパッと口に出した方がいいし、ポジティブなことを言う方が印象はいい。
 
だから、「もちろんよ。あの子は〇〇を自分でやりたいと始めて、以後はすごいモチベーションでやってるみたい」と、嘘か真かはともかく、そこから自分の出番とばかりに永遠と話し始めるのがフランス人お母様である。単に、子どもの自慢を言ってるわけでもなく、これはこれで子どものことを相手に理解してもらうための開けた会話になっているのだ。
 
自分の意見を言わない=意見がない=恥、という概念が日本人には希薄で、それを周囲が許容してくれるという暖かい(?)社会であるが、世界中の日本人としてみればまるでオコチャマであろう。街頭とかで急にマイクを向けられ意見を求められても、「わかりませ~ん」、「そんな、急にいわれても考えたことないし…」と答える日本人を笑う日本人はいない。
 
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外国人からみると小学生以下の醜態。「分らないなら、考えたことがないなら、今この場で考えて即答すれば?」ということになる。それができないのは、周囲のことが気になるからだろう。(違ったら恥ずかしい)、(バカなことを言ったらみっともない)という気持ちが先行し、だから、"言わぬが花"となる。この慣用句を誤解している人が多いのではないか?
 
「言わぬが花」は、黙っている方が得(損がない、恥をかかないで済む)ではなく、風景、風物にはっきり主観をいうより、黙っている方が自然の優美への趣であるという意味。同様に「沈黙は金、雄弁は銀」という諺も、"沈黙は雄弁に勝る"ではなく、「雄弁(よく話し語ること)は大切だが、沈黙すべき時やその効果を心得ているのは大切」という意味。
 
「沈黙は金、雄弁は銀」という格言は、1831年にドイツ語で執筆されたトーマス・カーライルの『衣装哲学』での中にある。日本人は「沈黙は金」を、自分の寡黙の言い訳、もしくは寡黙を肯定してくれる名言として好んで使う。一つの意見を持てば、必ずもう一方の対立意見との争いが必然的に生まれる。「雄弁であれど明言せぬ」でいいのではないか?
 
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議論することでお互いをよりよく知ることができ、こういう考え方もあるのかと視野を広げたり、フランス人はそれでコミュニケーションを図り楽しんでいるだけにすぎない。会議やプレゼンという肉薄が要求されるビジネスシーンならともかく、日常一般的なコミュニケーションや、議論、討論の目的は、相手を打ち負かすしがない自尊心はしまっておこう。
 
年を重ねると何かにつけ省エネになる。動きも、金の使い方も、食事の量、sexの回数、お喋り、自然に保護回路が作動する。"心温まる沈黙"は、な~んにも気まずくないし、「沈黙」は言葉や文字を使わないノンバーバル(非言語的)コミュニケーション。「何?ブログの文字が多い?」これはコミュニケーションというより独り言だ。The Sound of Silence......
 
 

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