近年、塾や予備校で身につけさせる学力は、勉強とは異質であると書いたように、だいたいにおいて、なぜと問うことが学問の始まり。物事の道理を教えるにも、教わるのも、なぜと問うことから始まり、したがって、なぜと問うことが、勉強の始点、教育の原点である。なぜと問うことなく物事本質は分らないが、なぜは無用とばかりに答えを求める塾や予備校。
そこで間違いなく学力は上がるが、勉強を教えてはいない。子どもの頃、ケペル先生は、「どうして?」って聞いていた。「どうして」は「なぜ」でもある。「なぜ、本を読む?」、「なぜ、大学へ行く?」、「なぜ」という問い掛けを禁じられ、封じられた時、学問の本質は見失なわれている。知識や答えを得た後で、「なぜ」を問うことはもはや本末転倒である。
子どもの時に、叔父貴が東京の大学から帰省の際に必ず買って帰る本は、『なぜだろう、なぜかしら』のシリーズ本だった。これを読むことで友だちから物知りといわれた。本にある疑問を人に投げかけることで、自分自身の復習にもなる。人に話すことは、自慢と言うより、相手のためというより、自分のためになるもの。今もその精神は変わらない。
なぜ、空は青いの。
なぜ、働くの。
なぜ、生きるの
なぜ、愛するの。
なぜ、勉強をするの。
なぜ、学校へ行かなければならないの。
なぜ、なぜ、なぜ…
なぜ、働くの。
なぜ、生きるの
なぜ、愛するの。
なぜ、勉強をするの。
なぜ、学校へ行かなければならないの。
なぜ、なぜ、なぜ…
「なぜ」という子どもの好奇心は、学習の最大の味方である。その最大の味方を最大の敵としてしまっている昨今の教育事情。求めもしないのに答えばかり押し付けられる。勉強というより、暗記と言う作業である。その結果として、意味もなく勉強し、意味もなく大学に行くことが何ら不自然でなくなる。そのために意味もなく努力し、生きる意味さえ分らない。
こんな受験戦争に勝利し、大学へ行ったところで一体何が残るのだろうか?受験生にとって、人生について考えるなど野暮なことであり、そんな暇もない。学校は、塾は、予備校は、勉強をしに行くところであって、学ぶところではなくなってしまっている。教師も塾の講師も、学びの本質を教えることもない、勉強を教えるだけのただの労働者でしかない。
それが保護者のニーズに応えることでもある。ただ、ものを覚えることだけにあくせくの子どもが、問題を起こさないいい子なのだと。そんないい子が人を殺すという事が起こってしまった。大学に行くという高い志があれば、そんなことなどあり得ない。指示された課題ばかりやっていて、社会に出て指示された以外のことができるのか?自分で考え、問題的しろよ。
そして、自分で答えを出せよ。それを教えるのが先人の後人への義務ではないのか?答えを教えるのではない。自分を頼れ!という方法を指摘するだけでいい。手取り足取りは主体性が身につかない。受験勉強を強いる親も塾の講師どもは勉強する事に疑問を持つなと言う。だだ勉強だけをやれ、余計なことは考えるなと。疑問をもて、主体性をもてだの言うはずがない。
理屈をいうなと大人は言うが、理屈ではない、道理である。自分のことを自分で考えろというが、とんでもない。受験生にそんな時間もなければ暇もない。受験の勝利者は人生の勝利者であると唆す。そうであるなら努力も報われるが、有名大学をでて就職できないと若者は、勝利を掴むことができなかった。大学では得れなかった生きた知恵を社会の得ることだ。
そうして、生きた知恵で自分の将来を、人生を考えてみる。まったく考えてこなかった人生であり、勝ち組になれば考える必要もなく幸せが約束されていた人生である。そうではなかったと分かった時に、過去の一切をフォーマットし、新たなる一歩を踏み出せば、それはそれで新たな人生の幕開けだ。愚痴や不満を牛のよだれのようにだらだら言うのは真の敗者である。
勉強の目的は幸せになる事だと大人は説いた。果たして大学を出ただけで幸せだったのか?そうであっても、そうでなくても、継続的幸せはどうすれば得れるか。そのためには、とりあえず生きていかなければならぬ。生きるためには、必要なことを学ばなければならない。学校で教わらなかった多くの、生きるために必要な事。それを身につけたら、次にどうする?
難しい言葉でいえば、自己実現を目指す。簡単に言えば、自分が、やりたい事を実現する。そこに"やりたい事"があるという前提で…。本当はもっともっと前に考えるべきことだった。付和雷同に大学に行くのではなく、その事を考え、学校に行かなくても生きる事ができて、夢が実現できるなら学校など行く必要はない。考えるのは、行動より先であるべきだった。
東大出て芸能人になったのが本人の意思ならそれも人生だ。なぜモデルになった芸能人になったのは理由があろうし、そんな程度に学んでいた最高学府での学問なら、学ぶ必要は全然なかった。モデルや芸能人になる事が上回ったのは、つまらない学問をしていた事になる。最高学府にまで行って…。他人の人生に口出しは無用だが学問は本来は役に立てるもの。
大学に行くことは選択肢を広げること。そのことは詭弁でなく事実であろう。以前、その事を唾を飛ばして吐いていた母親がいた。選択肢を広げたいのは子どもではなく、なぜか母親であった。「弁護士になれる、医師にもなれる、本人が望めば乞食にだってなれるでしょう?」どこで仕入れた語句か知らないが、乞食になるといったらこの母親は卒倒するだろう。
卒倒しない気丈な母なら、刺しつ刺されつの大喧嘩をするだろう。選択肢という詭弁の前に、勉強の目的は、自分の夢を実現する事であり、確たる意志を持ってやるべきだろうが、親の選択肢の犠牲となったということだ。昨今の人間の多くは、自分が何をしたいのかが解らない。ならば、したいことを見つけさせるのが教育の目的なのに、それなき教育とは何だろうか。
大学に行くにしろ、行かないにしろ、自分のやりたいことを見つけて、そのための手段であるなら、その時点でどちらも幸せである。高校卒業後にプロに入った田中将大、大学に行った斎藤佑樹、高校在学中にプロになった石川遼、実力がありながら大学に進んだ松山英樹だが、選択した時点でどちらが良かったなど誰にもわからないし、善悪は誰にもいえない。
田中が大学に行かなかった理由を述べてはないが、早くプロでやりたかったという事だろう。それより斎藤がなぜ大学に行ったかは、プロより大学野球で活躍したかったからであろう。どちらも想像だが、行為は意志とみるべきだ。石川が高校在学中にプロ転向したのも、田中と同じ理由とみるが、実績も申し分なかった松山については以下の理由が述べられていた。
松山が大学に行ったのは、高校在学中にプロ転向した石川の華々しい取り上げられ方、話題性に対し、実力がありながら地味で無骨な松山は、自身が華々しいタイプではないとの自覚があった。彼の石川に対する対抗意識は、容姿や話題性よりあくまで力で評価を受けることだった。これは斎藤に対する田中の妬みと同じものだろう。田中や松山の力は妬みもプラスになった。
と、これは自分の推測だが、「ハンカチ王子」、「ハニカミ王子」として同級生が話題になるのは、ジェラシーがないといえば嘘になる。それが彼らのバネになったのは間違いない。あの時期、田中や松山が同等の実力があっても、マスコミの話題性においては太刀打ちできない。「男は顔じゃないんだ!今にみておれ!」という気持ちがあっても不思議はない。
田中と斎藤の実力さは、斎藤の年棒が田中の5日分ということで見ても分かるが、斎藤人気にジェラシーを感じていた田中に、今は斎藤が同じ思いであろう。石川と松山の実力差は本業以外の収入面では石川が圧倒するが、華々しくデビューして記念館を建てたり(閉館した)、自伝を執筆するなどあまりの浮かれようで、力が落ちるとその分精神的羞恥に襲われる。
フランスの画家ギュスターヴ・モロー(1826年4月6日–1898年4月18日)は、こんな言葉を残している。「成功しないということは感謝すべきだ。少なくとも成功は遅く来るほどよい。その方が君はもっと徹底的に自分を出せるだろう」。人生は旅にたとえられるが、旅というものは目的地に達することだけがただ一つの目的だろうか?おそらく違うであろう。
目的地に達する途中の苦しみ、楽しみを心ゆくまで体験することの方が、目的地に達するよりはるかに大切である。狭く小さな目標や、近くて安全な目的地しか持たぬ人は、遠い危険の多い、そして険しくも高い目標や目的地を持ち、努力する人に比べて安定感や幸福感に満ちているようだが、自分の能力を鍛え、発揮するという点で、はるかに貧弱である。
内容さえも貧弱なままでストップしてしまうのを、斎藤や石川に重ねてしまう。実力以上の人気に溺れ、自身を必要以上に過大評価するのは、若さゆえの至らなさであろう。中国の古い書物『戦国策』に、「百里を行く者は九十を半ばとする」という言葉がある。小成に慢心しがちな我々に、思いを新たにさせてくれる言葉である。将棋の升田幸三も以下の言葉を残している。
「辿り来て、いまだ山麓」。この言葉は升田が将棋界至上始めてのタイトル三冠制覇(名人・王将・九段)のときである。学問とは決断である。学んだ後の結果は、学ぶ前には、解らないからだ。寝食を忘れて受験勉強をしても合格するとはかぎらない。合格しても自分の望む結果が得られるとはかぎらない。大学に入学できたとしても挫折することは往々にある。
また、大学を出たからといって望む仕事に就けるという保障は何処にもない。況や成功するか、しないかは、大学を出たと言うだけでは解らない。ならば「学」は期待をし、求めるものではなく、己の「志」とすべきであろう。志も持たず、規定の路線に乗せられて勉強するものは、立ち止まって考えてみる価値はある。結果を先に求めず、思考をすることだ。