「よそ行き言葉」とは何か?確たる定義はないが、「よそ行き」用の洋服があるように、よそ行き言葉もあるのだろう。乙武氏が不倫を暴かれた。驚く人もいるだろうが、驚かぬ人もいる。自分は後者である。警察官が泥棒をし、教師が淫行をし、弁護士が脱法をし、医師が人の命を縮めるように、職業に殉じて生きる人も、職業と人格を分離するする人も同じ人間だ。
強い自制心を必要とする職種もあり、タイガーウッズが不倫をするのとゴルフという職業には何の関係もないが、日本人的には「味噌も糞も一緒」なのだろう。色々と浮いた話も、それ以外にも問題の多いNBAバスケット選手は彼を囲むマスコミの前でこう言った。「本当のオレを知りたい、見たいというなら、コートに来てくれ」。名言というよりそのまんま。
乙武氏は障害者である。けれどもそれは五体が不満足なだけであって、精神は健常者と何ら変わらない。よって健常者の不倫も障害者の不倫も質的、罰的には同等である。彼の現在の肩書きは文筆業だが、元東京都教育委員、元教職員という履歴はある。それを取り上げて問題視する人もいるだろうが、人の口に戸板は建てられない。どんなことでも言いたい人はいる。
乙武氏自身も奥歯に物がはさまった言い方を好まぬタイプで、屈託のない個性に嫌悪する人もいる。彼を嫌う人は障害者だからというより、むしろ彼の人格からではないだろうか?今どき、障害者を異端視するようでは、人間のキャパが小さ過ぎだ。著書『五体不満足』にある「障害は不便です。しかし、不幸ではありません」と言い切るメッセージは新鮮であった。
『五体不満足』は一般書籍の部数記録としては日本第3位の記録を持っている(2010年現在。出版科学研究所調べ)。相当に読まれた本のようだが、読まれた理由はそれぞれあるにしても、手足のない彼がどう生き、どう克服したかに興味があったのだろう。自分は興味がないので読んでいない。生まれつき手足の障害は、先天的盲人同様、さほど不便でないらしい。
それが当たり前だからであろうが、乙武氏は「不便」と述べている。当たり前に不便であったのだろう。確かに彼は排尿のとき、自分でズボンのジッパーを開けられない。代わりにチャックで玉を挟むこともなかろう。肉(というより皮)がはさまったアレは確かに痛い。教員時代に児童にチャックを開けさせていたことを問題にする人もいたが、男の子なら問題はなかろう。
女子にさせたわけではあるまいに。大小はともかく、彼には排尿の器官もあり、男にとってそれは生殖器官と同一である。よって、彼には3人の子どもがいる。どうやって作ったかなどをネットで興味本位に聞くバカがいるが、それくらい自分で考えられないのか?昔、皇太子殿下と美智子妃に子が授かったとき、「どうやって作ったんだ?」など大人の声は耳にした。
あって当たり前だ。銀幕の美人女優はウンコもしないのでは?の幻想があったように、ならば美智子妃のSEXなど、想像を超えるもの。しかし、浩宮(現皇太子)という結果がある以上、必ず原因があり、それが当時の皇太子と美智子妃である。下世話な話題ほど花が咲くもの、他人の悪口をいうではない下ネタは罪がない。話しが下に落ちるのは引力のせいであろう。
原節子や吉永小百合がウンコをしないのと、乙武氏がウンコをするのか?は別次元の話題だが、本人に聞くのでなければ、女優さんや乙武氏を蔑むことにはなるまい。女優のケツノ穴は当然にしてあるが、行為とイメージが重ならないという偶像化である。乙武氏の場合は、あの姿からしてどこに何がある?あるべきものはどういう状態である?と言うのは自然な思いである。
人を交えてさまざま想像を交えるのは、それも巷談義であろう。「そういう事は言っちゃダメ」という人間もいるが、想像力そのものには罪も悪もない。初めて乙武氏を見たとき、「これでも人間は生きられるんだ」と、その生命力に驚いた。手指は作業、足は歩行がメインで、その他五臓六腑は同じに有しているわけで、それがあれば、何ら命に別状はない。
乙武氏の表層部分はともかく、彼が不倫をしていたことで、直接的な被害は妻であろう。子どももそういった状況は間接的に耳に入るが、世の中見渡せば父の浮気に目を閉じている子息は腐るほど存在する。その事が人格形成にどう影響するかは、悪いことばかりではない。親が浮気性ゆえに、絶対に一途でありたいと、そういう価値観になった幼馴染を二人知っている。
大酒飲み、あるいはギャンブル狂の父親を反面教師にした例も多い。「災い転じて福と為す」という事もありし、とかくこの世は何が良いかは決められない。子どもに勉強ばかりをさせ、成績に一喜一憂する親が、そのこと自体は子の幸福を信じてのことであろうが、それで子どもに葬られた親も少なくない。「窮鼠猫を噛む」ではないが、ストレスを与え続けた結果である。
乙武氏の不倫発覚後の声明文というのか、コメントというのか、ありきたりのもので、借りてきた言葉の羅列、よそ行き言葉である。NBAの選手のあの手のコメントなら感動もするが、こういう場合に日本人はお利口さんになるのが多い。意外だったのは、今まで表に出さなかった妻を出してきたこと。これには歪な感じを抱いた。妻は何をおいても乙武の介添え者なのか…
「このたびは私の不徳の致すところにより、多くの方にご迷惑、ご心配をおかけして、たいへん申し訳ございません」。「報道された私の行いは、これまで支えてきてくれた妻と、私を慕ってくださっている方々を裏切る行為であり、決して許されるものではありません」。と、絵に描いた餅宜しく生きた言葉に感じられない。「本当のオレをコートに観に来いよ!」が断然いい。
多少のイジワルも兼ねて、上記の発言に潜むホンネを暴いてみる。「このたびは私の不徳の致すところにより…」というが、バレたから不徳と言ってるだけだろ?つまり、バレなければ継続をし、もちろん不徳でも何でもないということだ。「多くの方にご迷惑、ご心配をおかけして…」って、多くの誰に迷惑かけたんだ?心配したって誰が?これは乙武ファンに対してか?
ファンを裏切ったなら、「迷惑」や「心配」より、「自分を偽り、いい子ぶってました」の方が正直である。迷惑の筆頭は妻子で、それは文字にするより、直接言えば済むこと。実際問題、「嫁に謝りました」。「土下座しました」。と明かした芸能人は多い。こういう言葉でファンに許しを乞うより、「インチキな自分、偽りの自分を演じてました。すみません」なら謝罪である。
「このような事態を招いたことについては、妻である私にも責任の一端があると感じております」。と、オフィシャルサイトに手際宜しく、妻のコメントを載せている。穿った見方をすれば、今回の不倫問題において、夫婦間に軋轢や問題がないことをアピールし、今後の仕事のダメージを考えた保身と勘ぐる。誰も言わないから言うが、異例と言える妻のコメントは乙武氏ならではだ。
もし健常者であったなら、同じように妻は謝罪したのか?彼が障害者であることで、妻の手厚い介添えがなければ、彼はさらに不自由な日常生活を強いられていたはずだし、妻が乙武氏に手を差し伸べ、世話をすることで普通の夫以上の愛情が芽生えた可能性もある。それをいいことに(といわざるを得ない)、乙武という人間の思い上がった人間性を見ることになった。
糟糠の妻を裏切った男のイメージはサイテー野郎。裏の本性を暴かれた彼は、今後は世間や家族を偽った乙武でしかなく、今後はもう善人キャラはダメだな。にしても乙武という人間が、そこらにいる障害者という役得者同様、甘えたズルい男だったのは残念である。「障害者に親切に、愛の手を!」と、我々が初等教育段階から叩き込まれる障害者への配慮である。
五人もの不倫相手がいたと言う乙武氏は自己に甘え、妻に甘え、子どもに迷惑をかけた。我々はいい、乙武ファンもいい、そういう事実が分かったと言うだけで、何の迷惑も被ってはいない。身障者にもズルくて汚いのがいるのを知っているが、彼もそうであったのかは、重ね重ね残念である。ベッキーはイメージの下落で職を失ったが、乙武氏とて作られた自己イメージである。
彼はクリーンイメージばかりでなく、身障者の身で卑屈にならず、強く生きる姿勢を見せてくれた。そのためには妻の尽力もあったろう。が、これでは障害者の甘えがあったと言わざるを得ない。妻は彼の悪行・裏切りを許したわけだが、あまりに分不相応であり過ぎた。『五体不満足』に感動した人は昔で、あの頃から比べて、驕り・昂ぶりもあったろう、彼も人間だ。
妻を利用して事態の収束を図るなどは、身障者という立場のなせる技。「夫として、父として、もう一度、あなたを家族として迎え入れたい」。こういう言葉を美談にするつもりが宛てが外れた。妻の言葉に感動した人間もいようが、乙武の手となり、足となった妻なら、怒るときは怒った方が甘ったれた本人のためだし、障害者といえども野放図ならヤキを入れるべし。
乙武氏がバカなのは、不倫が露呈したからではない。やったことが、である。発覚して妻に謝罪は当然で、分からなければ、「上手いことやれている!」となる。して、露呈した途端「不徳」などの言葉を用意する。妻に謝罪までさせて保身に利用する。彼のこういう人格がどう培われたかを想像するに、身障者という役得は、やはり彼を甘えた人間にさせてしまったのか。
不倫は悪いと思ってするものというが、悪いことだから刺激であり、ドラッグのようなもの。糟糠の妻を持つ彼は相当歪んだ心を伺わせる。まあ、最低ランクの人間だ。健常者よりも当然のことクローズアップされる。「不徳」などのよそ行き言葉は止め、「バカでした。妻に甘え、障害に甘えていました。他人の善意が自分を斯くも愚かな人間にしてしまった」くらいは浮かばないか?
若い柔肌を忘れ、新車の魅力に溺れぬこと。信頼回復の言葉も無用。斯くの如き人間に信用も信頼もあるまい。世間が乙武を糞男と見たわけだし、もはや偽善は無用。彼は『五体不満足』だが、一部に大満足を求めるモノがあった。あちこちでの酷使は止めることだ。障害者の夫を持つ妻の我慢や怒りの程は分らぬが、次は役得を許さぬこと。「二度ある事は三度」ある。
新婚早々から浮気の虫治まらぬ中村獅童を袖にした竹内結子、同じ理由で陣内智則を捨てた藤原紀香、彼女らの選択は二度と同じ目に会いたくないとの強烈な思いからだろう。花から花へと渡り歩く蝶男なら、そして妻が若いうちでさえ節操がないというなら、男に比べて劣化の早い女の自己保身とも言える。だらしない歩く陰茎男に、「許し」の効用はない。