こんにち結婚は自由意思によってなされ、憲法第24条においても、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」と規定されている。"両性の合意のみ"なら、同性婚は憲法違反?と思われがちだが、憲法制定時に同性婚を禁止する意図などあるはずもない。現存の日本国憲法は、GHQによる英文憲法草案の訳であり、GHQ側にも同性婚など考えも及ばなかった事。
Marriage shall rest upon the indisputable legal and social equality of both sexes, founded upon mutual consent instead of parental coercion, and maintained through cooperation instead of male domination. (婚姻は、両性の法的・社会的平等にもとづいてなされるものとする。そして親による強制ではなく2人の合意に、男性による女性支配ではなく2人の協力に基礎を置く)
草案の要点は、明治憲法下における家父長制的な「家」制度による、当事者の意思を無視の不平等な婚姻制度を改めることが目的で、"parental coercion"(親による婚姻の強制)、"male domination"(男性による女性支配)を是正するための文言が置かれた。あくまで、家族関係形成の自由・男女平等の理念を定めたもので、同性婚は憲法違反にならない。
ボブ・ディランの『時代は変わる』と歌った。人々を取り巻く環境が変われば意識も変わり、行動が変われば自ずと時代は変わるが、変わるスピードは速くなっている。かつて時代の変化は、それほど速いものではなかった。江戸時代は260年以上も同じ政治システムのまま推移した。鎖国をしていたことで、対外的なことや周辺国からの侵略を考える必要もなかった。
時代の変化であれこれ思うことは多いが、近年、離婚の多さは特筆ものだ。離婚は決してイイことではない反面、絶対によくないとも言い切れないし、離婚した方がいいケースもある。民法は、婚姻の成立に法律上の手続を要求する「法律婚主義」を採用している(同739条)。実質的要件として当事者の婚姻意思の合致、及び婚姻障害事由の不存在が必要とされる。
また、形式的要件として戸籍法に基づく届出が必要とされる。この2つの要件が婚姻に必要だが、婚姻意思の合致という実質要件とは、親の決めた相手と強制的に結婚はできないのは、上記のように憲法の規定にある。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」に続いて、「夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とある。
婚姻が法で定められている以上、離婚も法に従うことになる。つまり、法律に定める離婚原因にあたることが必要となる。これは裁判離婚においてであり、協議離婚の場合は夫婦で話し合って離婚を合意すればよく、離婚原因に何ら制限はない。いかに法といえど、嫌がる同士の婚姻継続を強いるのはバカげている。互いが合意し、離婚届を出せばその日から他人である。
この場合の他人とは、「肉親⇔他人」という意味の他人であり、「自分⇔他人」という事ではない。「子どもは他人」と言ったら、「そんなことはないでしょう?」などといわれたが、自分以外は誰であろうが他人である。自分が作ったお人形なら、どんな服を着せようと、髪型にしようと自由だが、自分が作った子どもだからと、親が自由にするのは間違っている。
人間が作った機械(コンピュータ、ロボット)が、人間が住みやすく環境を制御するはずが、造反して人間を殺そうとする怖い映画が、『2001年宇宙の旅』である。長期の宇宙旅行のために人工冬眠を初めとする宇宙船内の環境制御は、コンピュータなくして不可能だが、それが造反するというのは、まさに機械が意思をもったことにある。機械が意思を持つのは人間の願望だった。
数年前にある人工知能の研究者はこのようにいっていた。「人工知能の研究を重ねて分かったことは、コンピュータに心(感情・意思)は絶対にもたせられない。いかに秀逸なプログラミングであれ、感情が主体的に育まれることはない」。自分はこの言葉を聞き、自分の設計どおりに子どもを動かそうとする親の場合、その子の意思(主体性)は希薄となるという懸念をもった。
人間の心は、コミュニケーションによって育まれるもので、自ら動くことのできないコンピュータは、人のようにコミュニケーションを取ることはできない。機械が機械であるのは心(感情)の無さである。だからか、まるで感情が無い無機質人間は、「機械のような奴」などと言われたりもする。アトムがまさに人の心を育んだのは、コミュニケーションのたまものであろう。
近未来社会を描いた手塚治虫は、ロボットを人間の道具として作り出したが、現代社会において工場で働く産業用ロボットは、手塚の意図を反映するもの。手塚はさらにロボットを進化させ、アトムのような自らの意思で思考し、行動するロボットを作り出した。してクライマックスにおけるアトムの苦悩は、どんなに人間に尽くしても、自分は機械であるという被差別意識であった。
人間の能力を圧倒するほどの秀逸なコンピュータであれ、同様に産業用ロボットであれ、人間と機械を差別をしない。人間にとって機械は区別の対象に過ぎない。ところがアトムのような心をもったロボットは、差別意識に悩んだ。人間も動物もコミュニケーションをするが、唯一人間だけが言葉を使う。言葉はコミュニケーションを高めるが、言葉はまた人と人を裂く。
結婚した同士が、互いに離婚を考え始め、決断するまでの期間は長い場合が多い。突発的に決断する場合もあるが、それは突発的な理由によるが、皆無とはいわないまでも、昨日のことで今日には離婚を決めたいうなら短慮であろう。上記したように離婚にはそれなりの法的要因がいる。わがままで思慮ない人間もいるわけで、そんなのに振り回されてはたまったものではない。
そういう女は交際中ですぐに「もう別れよう」などと言うが、わがまま娘がそういって親からたしなめられたように、同じ事を彼氏や他人にするのであろう。こういう女に振り回される男もいるが、こういうバカはさっさと切り捨てた方が賢明である。この手の相談をしばしば受けたが、人に相談するということからして、冴えない男である。そこを女に読まれている。
女は男の性格や動向を察知し、把握して自分のわがままや行動に加味するところがあるが、わがままが通用しない、思わせぶりをしても気にもかけてくれないと思ったら、それを止めるか、さっさと甘える男のところに行くだろう。もっとも聡明な女は、他人から学習し、自らを向上させるし、そういう女こそ価値がある。親に通用したわがままが他人に通じるなど、とんでもない。
離婚した女性は、こぞって結婚に失敗したという。その言葉を多く聞いた。中には「私がわがままだった」、「何もわからない子どもだった」という言葉もあった。どちらも思いであるが、後者は自己を客観的に捉える点で大人である。昔は結婚が失敗だの、家庭が破滅しただの、女性にそんな言葉はなかった。従順であるというただ一つの美徳が、唯一の売り物だったからだ。
したがって、離婚して実家に戻った女性を、「辛抱できない女」、「ダメな女」と非難した。「出戻り女」と蔑まれ、近所付き合いも阻まれ、親は親でダメ娘を育てたダメ親と烙印を押された。周囲のすべてが離婚女性を、その家族を、白い目で見る時代。日本人女性の結婚観は、日本人社会から規定されるのであろう。歌は世につれではないが、結婚も時代で変貌する。
あるアメリカ人女性がこのようにいってる。「結婚は元来、経済的の取り決めで、保険の契約ごときものです。生命保険の契約と違うのは、結婚がいっそう結合的なものであり、正確だということです」。こういう考えも契約社会といわれるアメリカ人の社会観が反映されている。かつて女性は結婚相手を、「いかによく自分を保護してもらえるか」という受け身志向であった。
今の時代にそれはない。中にはそういう性格の女性もいるが、時代は女性を主体性化した。言葉を変えれば強くした。その分、男が弱くなったのは仕方ない。元来品質的に弱い男は、女が弱い時代にあってこそ自らを強くしていた。そこには虚勢も反映された。女房、子どもを庇護するためなら男は懸命に働くが、女が働けば男は髪結い亭主が如くやる気が失せる。
ライオンの雄なら役目もあろうが、ヒモは、男の本質的な性分かも知れない。ニート、ひきこもり、乞食、ホームレスに男が多いのを見ても分かるように、男には身を売る覚悟もなければ、逆境に対する強さもないヘタレ。自殺者の多くも男である。中年クライシスといえばまさに象徴的な男の自殺である。情けないね~、しっかりしろと言いたい。結婚観も変わり、同時に離婚観も変わった。
社会を見つめると様々な変化に気づくし、そういった変化に気づかないと、先の展望も読めない。顕著な例として、「一生懸命勉強して良い大学をでて、良い会社に入れば一生安泰」とした、戦後日本の幸福方定式は、多くの企業が年功序列や終身雇用を維持できなくなったこんにちでは、ほんの一部のエリートだけにしか残されていないライフスタイルになっている。
大卒とはいえ会社の業績低落でリストラされたり、恒久的な非正規就労者として生涯を終える。学歴偏重は翳み、超エリート以外の学歴など屁のツッパリにもならない。なのに、以前のままの方定式に固執する親は、本当に子どもの幸せを願った上のことなのか?あるいは、ほんの一握りの超エリートの座を我が子に託してケツをひっぱたいているのか?
「身の程」という言葉がある。「身の程」を知るにはどうすればいい?子どもの「身の程」の前に、親自身の「身の程」を知ろうとしないのが問題。「トンビが鷹を産む」確率は低いが、自己イメージの高い母親を持った子どもは、レールからこぼれ落ちた場合、子ども時代の想い出といったかけがえなき財産を失うことになる。して、こういう親を持った子どもは不幸である。