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まさか…、朝霞の少女

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埼玉県朝霞市で2年前の3月に行方不明になった15歳少女が27日、都内で保護された。正直驚いた。よかったよかった、といううれしさ、喜びに襲われる前に、「呆然」とでもいうような驚きだった。彼女が無事に生きていたという喜びにもました驚きである。この事件を知る多くの人も同じ気持ちであろうし、親族・家族の喜びは、それはもう言葉や文字には尽くせない。

だから、世間は(自分も含めた)彼女と彼女の親族・家族の喜び、感激に秘かに共感してあげればいいし、いかなる言葉を持ち出すよりも、そのようにそっと、見守ってあげたい。「謎の多い事件」だとの指摘も多い。あれこれ自分も考えてみたが、すべては想像の域だ。死後の世界のように、絶対に知ることのできないことについて、人間は想像するしか能がない。


が、それを能がないといっていいものか?自分は、「能がある」と規定する。確かに死後の世界も神の存在も謎である。が、今回の事件で思ったことは、「謎」というのは分かってしまえば何でもない事だったりする。言い換えれば、分らないから「謎」である。「事実は小説より奇なり」という言葉があるように、人間は人智に及ばぬことをその様に形容して納得させた。

たしかにそういう面はある。どれほどの想像をめぐらして書く小説といえども、人智を超えるものではない。いとも容易く人間の想像力の範疇で書かれるわけだが、分らない事象や事件が分らない段階で、「何とも不思議…」、「とうてい理解に及ばない謎の事件」となるのは、分らないことを正確に知る手段がないからである。想像は能力といったが、真実には及ばない。

蓋を開けてみれば強制誘拐(少女の供述)であったことの驚き。彼女の意思はまったく反映されていないならば、犯人は働きもせず四六時中見張っておらねばならず、そんなことが可能なのか?無職で2年間食っていける蓄えがあったのか、などなど疑問は尽きない。逃げる意思があるなら、手錠をされていないのだし、すぐにどこかの家に飛び込めばいいはず…

そういう知恵は誰かに伝授しなくても湧くはずと思うが、できない少女もいるということだ。いろいろ「なぜ」は尽きないが、今回の事件に限らずこの世に起こる不可思議な事象も事件も、分かった暁には何にも不思議でなくなる。それほどに事実は真正であり、具体的である。事実を超える事実はどこにも存在しないし、いかに不可思議といえ、起こったことが事実なのだ。

イメージ 5それらの事を考えるだけで人間は然したる能力もない矮小な存在に思える。道端の桜が咲き始める時節だが、同時に子どもの頃に不思議だったミノムシの羽化の頃でもある。ミノムシは確かに不思議な生体であり、子どもにとってあれほど不思議なものはなかった。せっかくミノで被っているのに、ムシって中を見ないわけには行かなかった。破壊したミノムシは10や20ではない。

住居を壊して良いわけではあるまいし、ミノムシには迷惑甚だしき行為であろうが、人間の好奇の犠牲にされてしまう気の毒なミノムシ氏である。住居破壊というなら、カイコさんだって同じ事。養蚕といえば産業であり、産業は人間の生活に役立つものだが、そのために無害な動物や自然の破壊がなされてしまう。自然と人為は対立するものだが、同時に共存すべきものである。

数日前に桜の木の枝にミノムシを見つけた。子どもの頃に思ったと同じように、「上手くカムフラージュしてるな」という感想だった。子どもの頃は何も探さなくてもイッパイいたし、イッパイ彼らの住居を破壊して楽しんだ。小学校の遠足の時に、小枝のミノムシをもぎ取り、いつものように家屋を破壊していると、「かわいそうだからやめて!」と言った女子がいた。

その時どう思ったかの記憶はないが、何につけて女のいいそうな言葉に驚くことはなかった。いろんなことで女子からそのように言われたことは多い。子どもだからむかついたりはしないが、女子に「かわいそう…」と言われて止めるようでは、悪ガキという栄誉ある称号は名ばかりとなる。「うるさい!」と無視するが、なぜに女子はそんなことしか思わないのだろう。男の子の疑問である。

と、同時に女の子の疑問でもあろう。「何で男子はそんなことするの?何がおもしろいの?かわいそうじゃない!」と、この性の違いは何なのだろう。当時は思わなかったが、今に思う謎である。ゴキブリの足を取ったら柿の種、という歌があるが、昆虫お手足を取って乙武状態(悪気はない比喩)にするのは、子どもの遊びだった。なぜ、その様なことが面白いのか?

今はやろうとも思わないし、面白くも何ともない。ならば、同じ年齢の女子が「そんなことして何がおもしろいの?」というのは、今に思えば随分大人の発言ではないか?少年が大人になって判ることを子ども時分に判っていたんか、女子はオトナやね~。そんな風に思う昨今だ。「かわいそう」という女子だけでない。強い性格の子は「やめなさいよ!」と本気で怒る。

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その後には必ず、「何でそういう事するの?」という。「何で」という言葉は問いであるが、そんな問いに答えた記憶はない。「うるせー、だまれ!」を返すだけだ。母親は子どもに「やめなさいよ」を常套句の如く言うが、少女にしてその気質を見せているのが女である。それにして女性はなぜ「何で」をいうのだろうか?何が気にいらなくて、そういう疑問を抱くのか?

ミノムシの家屋破壊をなぜに「何で!」と言うのだろう。行為自体は見れば分かる事だが、行為の本質を知りたいがための「何で?」というより、「許せない」というアピール言葉ではないかと。女性が怒るときの「何で」は「何で?」という疑問にあらず、「何で!」である。もっともミノムシの家屋破壊の理由を問われて、答えられる理由などあるはずもない。

「みりゃ~分かるだろうが!」と子どもはいいそうだ。「何で?」の疑問の答えには成ってはないが、「何で!」の怒りの言葉には答えとして有効だ。女の「何で」は問いではないと男は理解すべきであろう。「何でっていわれても…」と真面目くさった答えを模索する男もいるが無用にされたし。疑問ではないのだから。一種の圧力言葉と考えて、買い言葉を放ったほうがいい。

実例を出そう。缶ビールを飲み干した夫が、テーブルやコタツの上にカンを置いたままにする。そのままであったり、ご丁寧にグシャとつぶしてあったりするが、そこで口うるさい妻が、「何でカンを置きっぱなしにしてるの?」と言ってくる。まさかそういわれて、「何でって、夫の飲んだ缶ビールの空き缶を捨てるのはお前の仕事だろ?それくらい分らないのか?」

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などと言おうものなら、みるみる顔色が変わるだろう。「ざけんじゃねー、てめーが捨てるんだろか、甘ったれるんじゃねーぞ、このボケかす!」などの勇ましい女性もいるだろうが、清楚でおとなしい女性であえ、そんな言葉は禁句である。男はそういうもの、夫はそういうものと思っている妻なら腹を立てることもないが、今どきそんな殊勝な女は少ないかも知れん。

理由の一つに、亭主関白の家庭が少なくなった事が想像できる。亭主関白の家庭に育つことで、「男(夫)はそういうもの」、「女(妻)はそうあるべきもの」を学習し、意識に内在する女性もいるだろうが、反対に「何で男ってああなの?お母さんが可哀想!」という気持ちを増幅させる女性もいる。同じ環境ながら、感じ方の違いは資質であろう。ここでも「何で」である。

「自分で飲んだ缶ビールの缶くらい自分で処理してよ!」に対し、「そんなに言うなら、自分で食った食事の皿は自分で洗うのか?ここは軍隊か?」というのも多少は理に敵ってはいるが暴言である。対等な男女が生活する上でお互いに「絶対禁句集」、「夫婦暴言集」くらいは持ち合わせておくべきだ。優しさというより、自分以外の他者に対する節度である。

確かに夫婦がいちいち自分の食った食器類を洗うのは合理的でないし、一人がついでに全部洗うほうがむしろ手間も省ける。それなのに、なぜ缶ビールの缶の処理をしない夫にむかつくのだろうか?これはむかつく女性に聞くよりないが、然したる理由もないように思う。理由はないが感覚的に腹が立つというのも女らしいところである。「生理的にダメ」という女性用語かと。

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人間は感情の動物ゆえに、売り言葉に買い言葉を返したくもなる。「これ、私が片づけるの?」といつもいい続けると、男は同情するようになり、そんな言葉を言わせないでおこうとなる。そのようにできればいいが、明晰で知略な女性でない限りはそうも行かない。心理学的にいうと、「言われたくない言葉」と「言わせたくない言葉」の差と言っておこう。

「言われたくない」、「言われるのが嫌だから、言われないようにしよう」という男は賢い男である(学習能力があるという点で…)。けれども、世の男はそうばかりではない。賢くとも意地やプライドが邪心となる男もいる。「言わせたくない」男はやさしい男である。相手の気持ちを自分に置き換えて考えることができるからだ。人の能力と言う点でも後者が勝る。

「言われたくないからやる」、「言わせたくないからやる」は、どちらも主体性行動だが、後者の方が思いやり感に溢れている。前者は自尊心が傷つけられたくない上での行動だ。言葉を補足してみればよく分かる。「お前に言われたくないからやる」と、「お前にいわせたくないからやる」では、大違いである。こういう妻の頭脳プレイは子どもへの母としていろいろに生かせる。

頭のいい人間と言うのは、自分の感情や思うままに生きているのではなく、様々なことを考えながら策略をめぐらすものだ。戦争や交渉などにおいては戦略、卑怯な策略は謀略というが、謀(はかりごと)も戦略のいったんだ。思考から生み出されるそれら「知略」は、無思考、無略よりも勝るであろう。が、「策士、策に溺れる」というように、自我自讃の顛末である。

イメージ 1のそういえばミノムシは絶滅危惧種であるという。ミノに身を隠すなど誰からも教わらないのに(教えるものもいないわけで)、あのようなことをするミノムシはどんだけ賢いか?雨風を凌ぐため、敵から身を守るためとはいえ、また本能習性とはいえ、ミノムシは本当にすごい。そんなミノムシくんの家を壊したことを、ここに詫びさせていただく。養蚕業者も心で詫びなさいよ。

朝霞の少女は、監禁されていた男の家をやっと出られることになった。2年ぶりに両親の待つ我が家に戻ることとなった。失ったものの大きさ、多さを考えると同情は余儀もないが、命を亡くしたことに比べると幸いである。人生は30000日である。それからすれば800日のロスは、如何様にも取り戻せる。いろいろクリアすべきことはあるが、何はさておき、これからの人生を楽しんで欲しい。


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