朝霞中学生失踪事件は家出を装った「略取」であった。法律用語で「略取」とは、暴行、脅迫その他強制的手段を用いて、相手方を、その意思に反して従前の生活環境から離脱させ、自己又は第三者の支配下に置くことをいう。刑法225条の「営利目的等略取及び誘拐罪」には、営利、わいせつ、結婚又は生命若しくは身体に対する加害の目的があることが要件とある。
したがって、わいせつ目的で女性を誘拐し、更に営利目的で別の場所に誘拐したときは、225条の包括的一罪(罪数のことで、成立する犯罪が一個)であるが、今回は営利目的ではなく、225条の単純一罪(構成要件に該当する犯罪事実が1回だけ発生すること)となる。営利でないなら、わいせつ目的で争われることになるが、法定刑は1年以上10年以下の懲役と幅がある。
刑法225条において、公訴が提起される前に略取され又は誘拐された者を安全な場所に解放したときは、その刑を減軽する(同228条の2第1項)とあり、「安全な場所」とは、被拐取者がその近親者及び警察当局などによつて、安全に救出されると認められる場所をいい、その場合の安全とは、被拐取者が救出されるまでの間に具体的かつ実質的な危険にさらされるおそれのないことを意味する。
今回は被拐取者の自力脱出で解放にはあたらない。こういう事件があった場合に、必然的に容疑者の親の問題がクローズアップされるが、嘘か真か寺内樺風容疑者の父親は会社経営者で、それも防犯グッズの販売であるという。少女の親のショックもさることながら、寺内容疑者の両親もショックであったろう。大学卒業し、就職もきまり、順調に行くはずだった息子が犯罪者…
未成年の少女を誘拐して監禁し、少女の「心に傷を負わせた」ことの罪は大きく、2年間という「時間」は、被拐取者の少女には励ましの言葉を投げかけるも、奪った側には強くその責を断罪させるべきである。最高10年の法定刑だが、いかなる事件においても罪と罰の量定は不完全であり、難しい問題でもある。奪われた貴重な2年と獄舎10年が等価であるということだ。
千葉大学生がエリートであるにしろ、ないにしろ、やったことは学業成績には何の関係もないバカの行為で、こういう事件に遭遇するまでもなく、勉強ができれば賢いというのは人間の人格判断に適切でない。学業エリートは、一般的にこういうバカげたことはしないものだが、長崎・佐世保の高3女子殺害や名大生事件など、時として学業成績との矛盾はある。
稀有な例とすべき事象であるが、「バカ」とは起こしたことで判断するしかない。なのに、中卒や高校中退というだけで世間からバカ呼ばわりするのは、自分は一般人的という傲慢であろう。自分自身に対する尺度の認識の甘さもありながら、寄って、集って、つるんで、他者を肴にする娯楽が、現在のネット社会の特質だ。自分を知られないから、何でもいえるという強み。
ノンフィクション作家の吉岡忍は、『自分以外はバカの時代』という小論を新聞に寄稿したのは、2003年である。その2カ月後には雑誌「AERA」に、"自分以外はバカと見なして行動するさまざまな現代人"が描かれたりした。一例として、飛行機の機内における客室乗務員への暴言・暴力などの「迷惑行為」は4年間(2000~2003年)で五倍に急増しているという。
また、成果主義を取り入れた会社などでは、成果の良いをいいことに、同僚や上司までもバカにする社員が激増したという。自己の本質的な評価をよそに、他人の評価だけで自己を驕り昂ぶるのを盲目的バカといわざるを得ない。同僚の頑張りを認め、称えることは決して自己の評価が下がることではないが、競争社会の激化はこういう人間を生んだのではないか。
他者の評価だけが自己の支えの土台というのは、本来的な自信ではないし、よって他人を称えない人間には自信の無さをみる。自分に自信があればこそ、素直に他人を称えられるハズだ。人を批判しないと自分を守れない、人間の弱さは偏差値や学歴至上主義がもたらした悪害である。以心伝心ではないが、親が悪口好きの家庭は、間違いなく悪口好きの子どもになる。
その子が利口で聡明である場合に限り、親の他人への悪口に嫌悪感を抱き反面教師にする。近年は若者の社会的迷惑行為が指摘されるが、これは社会規範に無知である事を現している。無知というのは社会規範を知らないではなく、社会規範を重視するか軽視するかの違いであろう。社会規範を子に強く植えつけるのは親の役目で、父親は社会の目を子どもに伝授する。
若者の関心は自分のことだけになりがちだが、父親が大きな視点で行動したり、会話をしたり、そういう姿勢は子どもに伝わるものだ。母親は属に視野が狭く、自分と周囲の人間関係以外に関心はないとあっても、子どもと一緒に父親のグローバルな会話を聞くだけでいい。「そんな事は私たちの生活に何の関係もないでしょう?」などと、決して制止はしないことだ。
社会的迷惑の根底には、自分には直接関係のない人間を軽視するという心性の表れであり、彼らにとって他人と言うのは、物体と同じものになる。社会学者は、社会的迷惑行為が増大する理由のひとつとして、共同体社会の崩壊と、生活空間の拡大をあげている。子どもとは社会問題や国際問題などの話も交えて生活空間を共有し、運命共同体としての家族崩壊を起こさぬ事。
少女略取の寺内容疑者に、なにより欠落していたものは、他人への迷惑であろう。このようなことをすると、当の少女はもちろん、少女の両親や親族、少女の友人、さらには日本の国民にさえ迷惑をかけるし、不安にさせる。少女の両親が捜索を込めたビラを配ることも知っていたはずだが、そういうことさえも他人事のように眺めている。彼の目に他人はただの風景である。
子どもの頃にミノムシをいくつか家に持ち帰り、春を待たずして脱皮してミノ蛾として部屋を羽ばたいていた。蝶もカマキリも部屋の暖かさを春と勘違いしてそのようになる。寺内容疑者は、少女をミノムシよろしく自分の部屋にもち帰り、昆虫の生態でも眺めるように異性に生態に触れたかったのであろう。普通なら芽生えて自然の情の有無は分らないが、それはもういい。
つまらぬ風評や噂を背負って少女は生きていくべきではないし、それが周囲の者の配慮であろう。寺内が監禁少女をどのように介助したかは判らないし、興味がないといえば嘘になる。何を食べさせ、何を着せ、女の子には特殊な事情もあるし、23歳の女性無知(と察する)オタク男が、まさに子どもを育てるに似た日常を、どのようにこなせるものか、想像もつかない。
寺内容疑者に興味を持つことは被拐取者への興味につながることでもあるし、少女の帰還を評価し、喜ばしいその一心にあっては自制が働くのだ。これほどの被害にあったとはいえ、少女が無事に家族の元に還ったという、その事に勝る以上のものはない。もし、もしも少女の父親であったなら、このことをどのように受け止め、どのように彼女への愛を親として示すか。
その事は考えてみる必要がある。彼女の母校の校長は卒業証書を用意し、今後の学業における全面的なフォローを述べていた。小1で禍に巻き込まれて涙をのんだ子どもの6年後に卒業証書が授与されたケースは、それもまた涙ものであったが、今回の事件の父として決断をすべきは、何が娘のためであるかを、頭を振り絞って思考する立場にある。誰の意見を聞くのでもない。
校長は卒業証書を用意といったが、それは日本人の横並び意識であって、果たして現実的なことなのか?父として誰の意見に従うべきでないといったのは、娘と心を開いて語れるのは唯一両親であり、母と父と意見が違ったとしても、母親の感情もさりながら、脳に汗して真に、"何が娘にとって相応しく、正しいこと"であるかを考えて、決断する立場に父があると思うからだ。
学力の心配とかそんな事はどうでもいい。彼女は中2、中3を経験していないし、その間の学力がなくても問題なく世間を生きて行ける。が、実際問題、彼女が中2、中3時代の学校生活がない、空白のままで年齢だけは15歳になった。つまり中学を卒業する年齢となった。大学で2浪、3浪が珍しくもなく、正しくないなどと言われないなら、2年遅れの中学だって同じだろう。
浪人が少なき現代の理由の一つに、行きたい学部を偏差値で決めているケースが多い。これを情報を持った予備校が率先して進める。彼らはハッキリ言えば受験ブローカーであり、学生が学歴手段として大学を目指していることを熟知している。だから高偏差値だからと、本人の意思にない医学部を受験させ、「登校から○○大医学部合格!」とビラを貼る。
少女は今現在の学力だと、遊ぶだけの高校に入学しても、授業は大変なのでは?自分としては、2年遅れの中2に進級させたいし、それなら中2時代という学校生活を間違いなく送った、過ごしたという事実は残る。その事を娘に説きたいが、同級生と肩を並べて同じ道を歩みたいのか、有名無実の中2、中3を過ごさず、卒業証書を貰うのか?娘との話し合いしかない。
中2、中3なくして高校に行くのは無理もある。低レベル校に押し込めば学業成績は問題はないが、勉強しなかったでなく、できなかった事情である。再度中2からスタートすれば、望みに叶う高校を目指せる。それが最善の選択種と自分は考える。高校に行かない選択もあるが、行かない選択と中2をやるのでは後者が勝る。なぜなら、高校に行かない選択は行けないからだ。
さまざまな視点を土台に、多角的な思考で、何においても娘と話し合うべきで、その際の父の役割は、娘の希望が最優先といえども、情緒に飲み込まれぬよう、先を見通した思考と判断が大事である。ある選択において、何が良いかが判別できないことは往々にしてあるが、そういう場合は消去法を含めて、理性的・現実的な最善を見つけるために尽力する。
人間は生きているのが何よりであり、そうした人間の「生」の実在感が、機械的な受験学力などとは比較にならないほど重要と悟ったのではないか?あくまでおそらくであるが、果たして学習塾にやろうなども起きないかも…。人間は生きること、生きてることがすべてと少女の親は実感したろう。事件前と事件後では、子どもに何が重要かが一変したかも知れない。
親は二人いる。こういう場合にも意見の相違はあろう。母親は、「もう一度中2をやらせるなんて、あまりに可哀想」。父親としては、「中2も、中3も経験してないのは、あまりに可哀想」。大事なのは本人の意思だが、父はその理を娘に説得し、母も情緒のみに振り回されず、娘に説得すべきである。それを元に娘が判断すればいいのではないか?