<15歳少女保護>容疑者祖父「被害者に申し訳ない> と、こんな見出しがあった。息子の不祥事にダンマリを決める親もいないではないが、一言でいえば責任感のなさであり、それなりの言葉はあってしかりである。今回は父親がキチンと…、いや、よくよくみると父ではなく祖父であった。祖父も親族には違いないが、「ちょっと待った!」である。父はいるんだろう?
父が出てこず祖父が出る理由など、誰が考えても分かること。父は息子の不祥事を少女に、少女の両親に、社会に、詫びることが嫌なのだろう。詫びたい気持ちは山々だが、したくてもできないなどの個人の身勝手な理由など理由にならない。思っているができないというのは、男の論理としては思ってないと同じ事。だからこの親父は詫びたいなど思っていない。
どうしてこうなるのか?前記事に書いたように、容疑者である息子と同じ、"自分に関係ない他人は他人事"である。これを「親も親なら子も子」というが、それ以外に言いようがない。立派な親から不肖な子が育つことはある。不肖な親から立派な子どもになる場合もある。だから、親は関係ないのでは?そんな論理はどこにもない。後者の人間が強い心を持っていただけだ。
人間は、相対的に弱い生き物であり、猿は人間が育てても猿にしかならないが、人間は狼が育てれば狼になる。つまり、本能習性が弱い典型的な動物と言える。人間が言葉を喋るのは本能ではなく学習である。言葉のない環境に育てば、鳴き声を発するだけであろう。ところが、猿も犬も言葉の環境の中で人間が育てても、言葉を喋ることはない。たまにいる、言葉を喋る犬。
本気でそう思っている人がメデタイのである。メデタイに御幣があるならカワイイ人としておく。そんなことはどうでもいいが、とにかく子どもは親の影響を多分に受ける。自分の親が「親」というものの実体だと思って生きる。自分もそうだった。物心がついて、友人の家などに行き来するようになると、あまりに親切、あまりにやさしい母を見て愕然とした。
これが母親なのか?また、仏頂面で寡黙で人相の悪い父親を見て、なんという怖いお父さんであろうなどと思ったりした。「厳父慈母」というが、自分の母は鬼、父は仏であり、それが世に言う父、母と思っていた。「こんなお母さんだったらいいな」、その事が増幅され、実母はさらに鬼化して行く。朝霞少女略取誘拐犯の寺内樺風容疑者の親について思うところがある。
まず、樺風(かぶ)という名が目についた。珍しく初めて目にする名である。どういう意図でこの名にしたのか、親がつけたのか祖父母かはわからないが、樺(カバ)とは桜の木の別名と言うのは知っていた。以前友人が家具店にいて、かつて「サクラの木とうたった家具は樺だから…」などと言っていたのを思い出す。サクラの無垢材は高級家具として人気があった。
赤みがかった白色が材の特質で、明るい雰囲気を演出するので、子供部屋などにも使用される。節もなく「木目がお化けみたいで怖い」という子どもにも大丈夫。サクラ材とあればサクラと思うが、樺はサクラではない。なぜに樺をサクラといったのか、理由は日本人の桜好きなのが大きく影響している。樺桜の正体は、広葉樹の女王と称されるマカンバ、欧州のバーチ。
桜に似た柔らかな木目と性質を持つことから、桜の代用として使われたという経緯がある。よって、建築業界や木材業界ではサクラといえば樺桜を指し、本物の桜をしのぐほど人気の木材である。さすがは家具屋の友人である。キチンと調べて納得した。カバの話はこれくらいで、カバを逆しにしたバカ息子の親に言及したい。詫びのコメント一つ出せないでいる父親。
顔を見せろ、テレビに出ろといっているのではない。昔からバカ息子(娘)について、「親の顔が見たい」と言ったものだ。今でもそう思う。自分はかねがね子どもの責任は100%親にあると考えている。感じてもいる。なぜかと言われたこともあるが、それだけ責任感を持って育ててきたからである。他人に委ねた金銭教育は一切行ってこなかったのは自負でもある。
小学校の夏休み限定で月500円の「こどもテニススクール」に通ったのと習字教室くらいか?習字は先生に頼んで硬筆だけをお願いした。先生的には書は毛筆との思いがあったのは伝わり、「月謝は同じですよ」と言われたのを覚えている。「書」の道よりも、現実的な考えを持っていたからだ。長女は部活でバトミントン、次女はバスケと、特段テニスの影響はなかった。
他人はどうか知らないが、子の責任は100%親という自分に、少女を略取誘拐するなどのバカ息子が輩出される原因は100%親にあると考える。50%だ、80%だ、そんな数字などどうでもいい、親は100%と思っているし、思えばいいと他人にも勧めている。それくらい自己責任感を持って育ててもらいたい。今回、親が顔も出さない、詫びの言葉も発しない。
その事から、子どもに対する親の自己責任感がないというしかない。責任感がないということは、自らが責任を持って育てていないという事になる。さまざまな理由があげられる。仕事、趣味、道楽、友人関係、愛人関係などなど。何が問題かは分らないが、何かがあったことは間違いない。「横着」というのも、「(子育てなど)関心が無い」というのも、立派な理由。
父親は防犯グッズの販売で、息子は影響を受けた可能性もある。日本中を震撼させる事件を息子が起こせば親も体面が悪いだろうが、成人子息の直接的な責任は親にないとの抗弁も結構だが、間接的責任は親にある。世間は親を責めるのか?今さら親を責めて、息子の起こした罪が消えるわけでもない。が、祖父の言葉が出る前に親が口をつむぐのは情けない。
祖父が親を差し置いて自主的判断でコメントしたとも考えるが、おそらくマスコミは寺内容疑者の実家(親の居住先)にコメントを求めていくはずだ。それがナシのつぶてであったことから、祖父がコメントしたと考える。親族として何も言わないというのは、真っ当な人間からすればあり得ない。逃げ隠れする親(祖父の実子)に見かねての発言であろう。
「祖父に何かを言わせるくらいなら自分が…」そういう気概もない男に見える。「しばらく会っていないので最近の様子は分からない。気持ちの優しい子なので、なぜこんなことをしたのか。被害者に申し訳ないことをしてしまった」と困惑した言葉を祖父は述べた。祖父が育てた樺風容疑者ではあるまいが、親の実態は「馬耳東風」ならぬ「樺東風」に思える。
子育てとは何?である。こういう問題が起こる度に思いを強める命題だ。何時に問い、何処で問われても「分らない」としかいえない。分らないことは考えることにしているが、考えても分らないときは苦悩する。「子育てとは何?」を検索してみたところ、Wikipediaにはこう書かれていた。「子育てとは子を育てることである」。なるほど、これが正解か!
当たり前の中に真実がある。その子育てがなぜに分らないかは、その都度、その場面の善悪が分らないからだ。将棋と同じで、指し手を選ぶときの善悪も分らない。どれほどの高段者であれ、プロ棋士であれ、指し手の善悪は終局後の感想戦にて問題となる。羽生名人はこういう言葉を述べている。「将棋は分かりません」。分らないのはその奥の深さにある。
将棋も子育ても、分らない点は同じであるが、将棋の著作も子育ての著作もある。分らないながらも、分かる部分もあり、分かる部分を著作する。それが、さらに分らない人には有益となるようだ。分かる部分においては将棋本には間違ったことは書かれてはないが、子育て本には間違いが多い。その理由は、駒に主体的意思はないが人には意思があるからだ。
駒の意思は対局者の意思であり、ある升に置いた駒が対局者の意思に反し、別の升目に勝手に動くことはない。ところが、子育てはそれがなされ、だから難しい。自分の意思に前面服従の駒と人では大違い。ある親が将棋の駒のように、すべての意思を親の思うがままに動かすと、その子はどうなるか?親に逆らわない、親のいう事を聞くいい子に見える。
バカいっちゃいかんよ。そんな子がいい子であるわけがなかろう。いい子とは主体性などなにもない無害のバカを言うのではない。それくらいの事も分からぬ親が、そういったいい子に甘んじを望もうとする。天才羽生名人が、羽生名人の意思のみで指された一手が、大悪手である場合も多いのに、そこらの凡人が事を間違えぬはずがない。親は多くを間違えるものだ。
だから、「子育ては分らない。難しい」となるのであって、「子育て」が良かったと分かる何十年後を待たず、いかにも子育てに成功したなど愚挙甚だしくも、無知の極みであろう。と、自分は思うが、そういう無知者の書く本に人は群がる。同じ事をするわけでもないだろうが、する危険性もある。一切は他人の勝手なので、その事自体を批判するなら、それをしないことだ。
世に「子育て本」の類は沢山あるが、「子育てられ本」があるのか?その前に「子育てられ本」とは何?これは、育てられる子どもの視点から正しい「子育て」について書かれたもの。親にとって正しい子育てがあるなら、子どもにとって正しい育てられ方もあるはずだ。それらは「子育て本」の中に、正しくない子育てについての記述について収められるのみ。
それはあくまで親が読むもので、子育てをされる側の子どもが読む「子育てられ本」は世にない。育てられる側が主導的立場にないということだ。して、子どもが親から正しい子育てをされているか否かを、子どもが知る必要ないのだろうか?いろいろ思考し思うのは、知る必要がないというより、知ったところで何になる?子どもはいつも被害者でしかない。