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訃報・パティ・デューク

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本題の前に、埼玉・朝霞の少女は中学卒業の意思を見せたという。本日31日付けでの卒業となるが、実より名を取った?勉強する気が失せたとも考えられるが、通信制高校にでも行くのか?普通の生活、普通の少女に戻ることが大事で、そのために有用なのはやはり、「時間」である。自殺を図り死に切れなかった寺内樺風容疑者の容態も回復しているという。

自分は少女救出以後の率直な心情を書いてない。どのみち事件の真相はふせられ、よってゲスな想像は少女に無益である。が、寺内容疑者の自殺理由については、少女がよもや逃げるなどは彼になく、逃避という裏切りに愕然としたのでは?彼は深く傷つき、喪失感から放心状態にあったと推察する。それが彼にとっての2年であり、よって自己断罪の自殺ではない。

事件の謝罪メモを持っていたというが、事件の善悪是非より喪失感が強い彼にとって、少女の逃避を現実として受け入れる自我防衛と見る。文字に書くことで強く言い聞かせることにもなる。クソまじめ人間の心中察するに、頭が混乱して錯乱状態になるのでは?「これでいいんだ、これが当然なのだ」などの自己暗示的諦観は、苦しみを和らげる手段であろう


さて、パティ・デュークが亡くなった。死因は腸の破裂による敗血症で、米国時間の29日午前1時20分で、69歳であった。デュークの息子で俳優のショーン・アスティン(45)は米情報サイトTMZに、「母は長い間、痛みに耐えていたので、家族は今安堵している」と明かした。デュークは夫のマイケル・ピアース氏と3人の子どもたちに看取られ、息を引き取ったという。

パティ・デュークは1946年12月14日ニューヨークで生まれで、子役で映画界入り、1963年、16歳で出演した映画『奇跡の人』でアカデミー賞助演女優賞を受賞。1969年には、映画『ナタリーの朝』でゴールデン・グローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞している。シリアスもコメディも演じれる芸域の広い女優だった。『奇跡の人』は子どもの頃に観た。

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おそらくこの映画を観せたかった近所の大人(といっても高校生だった)の女性に連れられてだった。彼女の意図とは裏腹に何にも面白くない映画だった。当時観た記憶は何もなく、覚えているのは当時盲人の必須アイテムだったサングラスのロイドメガネ(丸縁のメガネ)をかけた女性が怖かったくらい…。その女性とはサリバン女史といい、ヘレンの家庭教師であった。

『奇跡の人』は視覚と聴覚の重複障害者ヘレン・ケラーの幼年期の物語で、ケラー役をパティ・デュークが演じた。大人になって何度も観たが、サリバン女史のケラーに対する、鬼気迫る壮絶な「躾」の戦いであった。何度も観る価値の映画であるからこそ何度も観たわけだが、「躾」と「虐待」は表面的には同じに見えて大きな違いは信念である。サリバンは信念の人。

映画は『奇跡の人』のタイトルどおり、ヘレン・ケラーをして、目、耳、声の三重の身体障害を克服したとケラーを"奇跡の人"のように受け取れるが、奇跡の人はアン・サリバンに捧げられた称号である。克服したケラーも確かにすごいが、自力でなく、サリバンなくしてケラーは存在していない。どっちが重要、どっちがすごいというのではなくケラーとサリバンは表裏にある。

「奇跡の人」は、別の言い方をすれば「根性の人」でもあるし、「信念の人」でもある。安っぺらな根性、信念と言うのではなく「精魂」の持ち主である。もちろんサリバンも盲学校に入学し、そこでの訓練と数度の手術の結果、ある程度視力を回復した。が、光に弱く常にサングラスをかけていた。サリバンがケラーの家庭教師を始めたのは1887年、21歳のときであった。

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盲目なへレンを特別扱いしたことで我がままに育った。が、自らの腹を傷めて生んだヘレンを溺愛する母に対して父は言う。「こんなのはケダモノで人間じゃない。チャンと躾けろ」。「私にどう躾けろっていうんです?叩いたってこの子にはその意味も分らないんです」どちらの言い分に理はあり、二人の争いは絶えず、両親は家庭教師を雇うことにした。

父はパーキンス盲学校に手紙を書いた。盲学校はサリバンが在籍し、学んだ学校である。家庭教師の依頼が舞い込み、彼女を適任と白羽の矢を立てたパーキンス盲学校校長は、サリバンがケラー家に向かう当日の列車に乗り込み、彼女にアドバイスを与える。校長の愛情の深さは、校長の心中にある不安や思い一切を隠すことなくサリバンに伝える。

校長 : 「よく聞くんだサリバン、最後に一つだけ忠告しておこう…君に欠けているのは柔軟さだよ、適度な妥協は周囲と上手くやるために必要だ。君がその歳までパーキンスにいられたのは、追い出したら行き先がないからという配慮からだ。施設で育った君には帰るべき家もない。そこ(施設)での悲惨な闘いのことは知っているが、とっくに終ったことだ。肩の力を抜きなさい。」

サリバン : 「耳の痛いことですこと。でも、闘うのは私の宿命であるとしたら?私にはあの頃の記憶が消えないんです。」

校長  : 「君は頑固すぎる。もう少し心を開きなさい。向こうの家の人に好かれなきゃ、家庭教師は勤まらないよ。これをあげよう。良い教師になれるように、お守りだ…」と、校長はリングを差し出した。それを指に嵌めながらサリバンは言った。

サリバン : 「…校長先生…、努力します。ほんとに先生のおかげです。意地っ張りで無知だった私を一人前に教育していただいて…」

校長 : 「その意地っ張りがこんにちの君を作ったのだよ。」

サリバン:「また、耳が痛いですわ。」

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サリバンは校長について来た盲学校の数人の生徒と校長に送られてホームを後にした。それにしても、贐(はなむけ)の言葉でありながら、「施設育ちの君を追い返すところが無いから、今まで置いていたのだ」。こんな言葉を率直に言い、相手も事実は事実として卑屈になることなく受け入れる。ホンネを隠し、タテマエ社会を生きる日本人は、これほどあからさまになれない。

こういう事をいえば傷つくだろう、そんな柔な配慮よりも、しかと事実を提示して受け止めさせるという強い教育というのか、配慮ばかりで気づかいを美徳とする日本人に、もっとも欠けていることだ。言うまでもないが、自分はそういう気はさらさら無かったし、本心を子どもに(子ども以外の周囲においても)提示して何が悪いのかと、これは教育観というより性格である。

本音でぶつかり合うのが何より大事な教育、それでこそ信頼関係が生まれる。腹に隠し立てをし、それが配慮というなら人間関係はインチキでしかない。配慮は配慮ですべき場合はあるが、何から何まで配慮というのは偽善である。果たしてそういった関係が関係といえるのだろうか?日本人は、「関係」というものに、もっと正直に向き合うべきではないか。

人と人との関係を述させたり、進行させ、上手く継続させるために、腹の中を隠し、口実を設け、配慮という美名のために本心を隠匿もしくは偽るような関係に何の意味があろう。たまにあるだけの知人・友人ならまだしも、毎日顔を突き合わせる夫婦や親子がこうであるなら、これほど居心地の悪い場所は無いし、そういう性格ゆえに、最初から目指すことなどあり得ない。

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これはパスカルの言葉に触発されたものでもある。正確にいうと、自分の生き様、考えをパスカルが肯定してくれたという方が正しい。パスカルはこう述べている。「(自分という人間が)他人の観念の中で、一つの架空な生活を生きようと欲し、そのために目立つことをする。我々は絶えず自己の架空な存在を飾り、それを保とうと努め、真の存在をなおざりにしている。」

パティ・デュークの訃報に接し、彼女の代表作『奇跡の人』に触れてしまった。が、かつて子ども時代に「パティ・デューク・ショー」(1963-1966)というテレビ番組があった。そこにいりパティは映画『奇跡に人』を演じたパティとは似ても似つかぬ、笑顔が素敵で愛くるしい、正真正銘のパティ・デュークであった。面白かったのかどうなのか、毎週必ず視聴した。

おぼろげに残っている「パティ・デューク・ショー」で見る彼女の笑顔は、なぜか自分の中ではマラソンの福士加代子とイメージが交差するのだ。幸いにしてYouTubeなる文明の利器で当時の、「パティ・デューク・ショー」が視聴できる。見ると自分の頭の中のパティとは少しばかり違っていたが、福士に重なる雰囲気はそのままだ。二人の笑顔は100万ドルに価する。

なにせ、『奇跡の人』でのパティは怒り顔ばかりであった。が、映画のラスト、サリバンが手動ポンプで汲み上げる水を、必死の面持ちで「ウ、ウォラ…(ウォーター)」と言葉を発する場面は何度見ても感動し、込み上げるものがある。人が感動を求める動物であるのを、まさに感じさせる映画である。自分には何度見ても同じ気持ちになれるラストの映画が数本ある。

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『禁じられた遊び』、『サンダカン八番娼館』、そして『奇跡の人』が咄嗟に思いつく。他にもあるが、3本はすぐに浮かんだ。パティ・デュークの訃報と共に、彼女の近影も目にした。率直にいえば、69歳の若さにして老けて見えたのは、顔のシワの多さかも知れない。綺麗な人ほどよく笑うというが、パティの顔のシワは、おそらく笑顔からもたらされたものであろう。

顔のシワは女性の大敵であろうし、セレブな芸能人や女優はコラーゲン注入でシワのばしをするというが、パティの顔はまさに素地のまんまであろう。『奇跡の人』で最優秀助演女優賞のオスカーに輝いたパティゆえに、17歳にして冠番組を持つことになったのだが、これはアメリカテレビ史上最年少の事だった。古きよきアメリカのホームドラマは、あの時代多く輸入された。

「名犬リンチンチン」 、「名犬ラッシー」 、「わんぱくフリッパー」 、「ミスター・エド」 、「ちびっ子ギャング」 、「ルーシー・ショー」、「パパは何でも知っている」 など。日本の住宅事情とは雲泥の差であるアメリカ人の邸宅であり、文化レベルの相違を大いに見せ付けられもした。トタン屋根の雨音を聞きながら、すべてにおいてアメリカ人が偉大に見えた。

一連の作品もアメリカの日本ポチ化戦略であったかも知れない。「コンバット」という戦争映画は、アメリカ兵は正義、ドイツ兵は邪悪にされたのもやむを得ないというのか、勝てば何でも許され、方や敗戦国が負うべく宿命であろう。オトナになってこれらの作品がアメリカのプロパガンダであるのを知ったが、アメリカの国家戦略の凄さに慄くばかりであった。



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