自由というものは、あらゆる動物の本能的欲望で、廻り廻ったとしても帰結するのは当然だ。人間は自由を求めて組織や親に反抗し、反発しなければ勝ち取れない。が、しかし、どんなに自由を叫んでみても、一切制約のない自由はこの世にない。後先考えない行動を自由とは言わず、自由主義者を気取る人間が親であっても、子どもの自由を認められるだろうか。
自身が自由に振る舞うのは自己責任でやれないことはないが、他人の自由を認めることは、自分の利害とリンクすることになり、よって、親が子どもの自由を全面的に認めるなどはあり得ない。そこにはどうしても「躾」という名の使命感に毒される。毒されるというのは、「躾」が人為による矯正であり、それが子どもにとって害なのが善なのか未知であるからだ。
最低限のしつけは必要だが、躾と称する虐待もある。何もせずに自由気ままを「放任」と言う。親になった以上、使命も含めた権限を「親権」と言う。ところが親は、思い余って、子どもにアレコレ自己の価値観を押し付けてしまい、それは生き方や人生観にまで及ぶこともしばしばで、それすらも「躾」と親は感じているが、子どもにとってはいい迷惑である。
確かに押し付けの時期はあるし、それはそれで必要あろう。フィギュアの浅田、テニスの錦織などのアスリートは、子ども時代から続けた競技をトロフィーの数が増えるほどに、自らの糧にして頑張った。結果として名選手になるも、二流、三流で終るも、まちまちとなり、その差を才能と言う。多くの親が、子どもに「夢を持て」と激励し、応援をしたことだろう。
「夢を持て!」の響きはいいが、夢を叶えたいなら払う犠牲の大切さも伝えるべきだ。やりたいことを我慢し、辛い練習に耐え、何かを続けるのは容易ではない。子どもが本当にその事を好きになるのが何よりであるが、「馬に水は飲ませられない」という諺がある。「馬に水」とは、馬を水辺に連れて行くことはできても、飲みたくない水を飲ませることはできない。
人間でも同じで、子どもにも無理やり「勉強をしなさい」とたくさんの教材を買い与えても子どもに勉強する気がなければ効果はない。成果を出すには無理強いより本人のモチベーションを上げてやる気を出させる。自由とは勉強しない事でなく、「勉強しろ!」の強制に背く事。親にも無知な親もいようし、反発せてないためには相応の言い方があろう。
「勉強しなさい!」のバカのひとつ覚えは止めることだ。それに変わる言葉としては、「宿題すんだの?」と、自然に優しく問える母親は、子どもの気持ちを心得たいい母かも知れぬ。理由は、命令ではなく問うていること。命令は親の権威を傘にきせているが、親が子どもに問うというのは、子どもの主体性への尊重がある。上位者が下位者に何かを問うのはいいことだ。
マゾは別にして、人は命令口調を好まない。命令口調ばかりの親子は、常に親から見下げられた感じを子どもは受け、奴隷になるか、反逆者になるか、無視を習得するかのいずれかだろう。命令で子どもを手なづけることは、ある年齢までは可能。ある時期までしか有効性がないことを知るのも親の任務だ。中学・高校になっても児童だと思っている親は無知者である。
「勉強しろ!」と言ってさせられる時期も、ある年齢までと知るべし。中高生になって、親にいわれて「ハイ!」は、イイ子というより、オカシイのでは?この親に対する真の尊敬心があるならともかく、一般的には普通でない。それを「イイ子」というより、「(主体性のない)おとなしい子」と自分は感じる。それでも人間は感情の動物、心の赴きもあって、いつも素直とは限らない。
「親の夢を壊して子は成長する」というように、人間の体内から生まれてきた子も別の人間である。父親にその概念は当たり前に存在するが、母親の認識はどうなのか?いかに想像すれども実際に子どもを身ごもり、産んだ経験のない者には分らない。が、問題にすべきは、「分かる、分らない」ではなく、何が「正しい」かである。巷の親はよくこのように言う。
「親の気持ちがなぜ分らないのだろう?」。これは別の言葉で、「親の気持ちを分かって欲しい!」という要求である。子どもは子ども、親になったこともない子どもに、「親の気持ち…」などと言ったところで、一方的な親のエゴ、押し付けである。なぜなら親がそう言った時に、「何で親は子どもの気持ちがなぜ分らないの?」と問われたら親はどう受け止める?
「子どものくせに生意気な(ことをいうよ、まったく)!」となるのか?「なるほど、子どもの視点からみればそういうことか?」と思わないかぎり、親は子どものその言葉を理解しようとはしない。子どもの頃にそう母に言った時、返った言葉は「うるさい!子どもは親のいう事を聞くようになってるんだ」であった。こんな言葉で子どもが納得できるだろうか?「つまらん親だ」と思うだけだ。
繰り返すが、子どもに親の経験はない。が、親には子ども時代の経験がある。となると、「○○の気持ちがなぜわからないの?」という言葉は、どちらがオカシくどちらが的を得ている?オカシイが乱暴なら、どちらに無理がある?まあ、この場合"親の権威"は抜きにして、対等に考えて…。噛み砕いていえば、「経験あるものと、経験なきものと、どちらが強い?」
強いのか、深いのか、知りえるというのか、理解力とでもいうのか、どういう言葉が適切であろう。何でもいいから置きかえてみる。労働体験でもいい、性体験でもいい。経験なしと経験ありとで差は歴然。ただし、考えるべきは、経験があってもその人が正しいことを言うとは限らない。誰でも人間に生まれれば「人間」を経験した事になる。もちろん現在進行形だ。
だからといって、誰もが人間的なこと、人間的に正しいことを言うか?それと同じ事で、親が子ども時代を経験したからといって、親の子どもに対する考えが正しく発せられるとは限らない。つまらぬ見栄や欲に毒された親は多い。どの親もみな子ども時代を体験していながら、なぜ親になった途端に、親のエゴが充満する?自分が子ども時代のことはすっかり忘れて…これが現象としての親だろう。本当の親とは思えない。親に大事なことは、自らが子ども時代に体験した様々なこと、貴重な財産を、我が子に生かすことではないだろうか?親になった途端に親の論理だけが優先どころか、それしか見えないというような親を見かけるが、それでよく親でいられると思わされる。実は、案外そういう親が昨今流行の親のようだ。
「よくあんなことが子どもに言える」、「よくもあんなことが子どもにできる」、そういう親が多く発生する時代になった。まあ、多くといっても率でいえば少ないし、新聞記事や報道に見る親の信じられない子どもへの言動は、一部の特殊な親であろう。ただ、子どもにしてみれば、唯一無二のかけがえのない親なのだ。それが、あんな風ではやるせない。
自分は、勉強であれ何であれ、子どもの人格を無視した強引な押し付けを見るだけで可哀想になる。おそらく幼児期に母から受けた拷問にも似た書き取りのトラウマであろう。右手中指のペンだこを見る度に思い出す。何かにとりつかれたように膨大量の書き取りを命じる母に、泣きながら従った幼き日。小1の記憶である。その光景は映像として脳内に収まっている。
子どもはいたいけである。いたいけなのは罪にあらず。そのいたいけさが親のエゴに便利なようだ。子どもに何かを押し付ける親は、果たして正しい親であろうか?今はすべての子どもが30歳を超えた自分だが、押し付けて無理やりやらせたこと、あるいは子どもの主体性を奪って、無理やり止めさせたことなどは永遠に忘れないだろう。すべては「悪」として…。
子育て邁進中の折は、親の権威、親のエゴや欲によって子どもに押し付けた一切のことは、当時にあっては正当化できる。もっと、自由にできたのでは?もっと自由にしてやれたのでは?悔いともいえる悪行は親の無知から生まれた。子どもたちの「厳しい父でよかった」との言葉が本心であれ、悔いは癒されず、慰めにならず。「結果よければすべてよし」などというが…
この言葉は、世の不条理に対する慰めもしくは妥協の言葉ではないか?人はそ時々において正しい選択、正しい判断はできない。最善などは観念の世界であり、そういう事をやれる人間がこの世にいるのかと。だから人は絶対者(神)に頼るのだろうが、「なぜあの時こうした」、「なぜこうしなかったのか?」それが子を持つ親にとって、避けられぬ定めである。
「私は子どもに最善の教育をした」などと本に書き、金を取って講演し、マスコミで放言するなどバカ親である。なぜなら、ごり押しに対する歪みの出現は何十年先のこと。他人の家庭に意見は無用で、親が我が子を煮ようが、焼いて食おうが勝手である。ただ、看過できないことに対する意見はそれぞれにあっていい。当事者に言う必要はないが、自問し、自答する。