あらためて言うこともないが、自分の「親心」は少数派である。普通、親は子どもに人並み以上の能力や技能に心を寄せるが、昨今は、能力や技能を早期教育で子どもを"しこむ"ことによって習得させるのが、一般化・常識化している。ある有名私立高校を退職した校長がこのように言う。「受験戦争といわれる時代のどこに真の問題があるのか分りますか?
かつては東大に入ってしかるべき子どもがごく自然に東大に入っていたものですが、今は違う。小学校からひたすら受験技術の訓練を受ければ入れてしまうのです。その辺が妙に怖ろしく、感じられてなりませんでした」。同じ資質の子どもが二人いて、片方は勉強漬け、片方は普通に暮らし、どちらか二人が一人しか入れない椅子を争えば答えは明らかだ。
それを優秀といい、勝ち組というのか?受験の勝利者は人生の勝利者となりうるのか?そんな風に思う親も、全然思わない親もいる。「勝ち組」というのは流行り言葉としても、そもそも人生の勝利者が受験の勝利者などと煽る進学塾のキャッチフレーズに煽られ、夢を見ている親がいるだけだが、セルフイメージの強い親の一流校志向を責めることは出来ない。
よくよく考えてみれば、入社試験の成績が良いものが希望の会社に入れるわけでもないからして、受験地獄の絶望的な障害というのは、卒業・就職の地点にある。かつて日本の多くの企業が犯した罪は、人事担当者たちの、自らの人物鑑識眼によって会社の将来を託す人材を手間隙かけて選び出すことなく、出身校という「色」であっさり決めてしまっていた事。
人事担当者は「そんなこと知ったことか」と言うだろうが、人選びの労を厭って採用した「指定校制度」は、見方を変えれば人材選別における、"手抜き犯罪"とでも言える所業である。先の校長はこのように指摘する。「勉強には向いていないが、別の面での素晴らしい資質や才能ある子を、中・高卒業のところで受け入れてくれる、そういう受け皿が必要でしょう。
今は、ダメな子ほど大学に進む必要性を感じます。そうでもしなければその子は一生浮かばれない人生を送ることになるのでは?という恐怖が親にあるから目の色が変わるのです」。片手間な人材集めだけが企業の凋落とは言えないが、夢にまでみた大企業に入社し、結婚して家族を得て、住宅ローンで住家も得て、その揚句リストラにあった多くの人たち。
当然ながらローンは払えない。せっかくのマイホームを手放し、競売物件として売りにだされ、別の持ち主に渡ってしまう。受験地獄という言葉もローン地獄という言葉も文明の進歩に伴う「負の遺産」である。「負」とは人間が正しく生きていないということだが、それでも人類の発展と称して留まるところのない「進歩」という、人間の飽くなき欲望である。
人間が欲望の塊であるのは否定できないにしても、欲望や欲求がなければ進歩も発展もない。欲望は目標と名を変えられるし、その目標をどのように自身にプラスにしていくかであって、やみくもな欲望ばかりを持つべきでない。家庭を持ち、子どもを設けたなら、子どもへの欲望も目標と置き換え、偏ることのない視野の広い子育て目標を持つのが大切だろう。
目標がない人は何かのせいにする。例えば仕事においても、自分は頑張っているのに会社は評価をしてくれない、上司は理解をしてくれないなどと不満を言う奴は多い。会社や上司からの視点で眺めれば頑張ったとか、努力したとかの評価を求める方がオカシイ。問われているのは成果であって、そこを理解し、目標に向かってイノベーションを起こす。
戦後の復興といわれ、日本は豊かになる事を目標に頑張ってきた。個人も企業も絶え間ない努力を惜しまなかった。ところが、豊かになるといろいろな矛盾点や問題点が噴出してくるし、そうなると新たなビジョンを掲げるしかない。国が悪い、行政が悪いといっても始まらない。何かのせい、誰かのせいにするより、常に自己否定から成長していくしかない。
「子を持って知る親の恩」という言葉がある。「恩」の是非はさて置き、昨今の状況は、「子を持って知る親の欲」ではないか。自身に欲を持ってアレコレ頑張るならまだしも、子といえども他人である。親だからと傲慢に割り込み、アレやコレやと無理強いするのは子どもにとって大きな負荷となる。子どもに負荷を与えて親が満たされていいものだろうか。
由緒正しい(?)親もいるのだろうが、経験からして自分の親が子どものために一生懸命と感じたことはない。巷の親は「何も言わなかったら勉強なんかしないでしょ?」という。だからか一日に何度も繰り返す?「勉強しなさい」は1回言えば分るだろうに?何回も何十回も言う事で一体効果があるのか?ある親に聞いたら「クセになっているんかも」と言っていた。
現在の日本の教育制度も未だ偏差値重視の名残りの中で、ひとたび落ちこぼれてしまった子供たちが生きていくのは難しいのか?偏差値に落ちこぼれたことで、すべてがダメだと思っている人間に問題があるなら、そこに立ち入る「親心」がある。親は子どもに力を与えるべきで存在だが、ちょっとした子どもの好奇心や、行動力の芽を摘むような親が多すぎる。
親は子どもに世間の価値観とは異なった夢や希望なりを子どもに語れるのだろうか?そういう想像力が親にあれば、自分の進む道を見失い、無気力になる寸前の子どもを救うことができるし、それをしてやれるのは親しかないし、それを自分は「親心」と捉えている。「這えば立て、立てば歩めの親心」に殉じれば、「転べば起き、起きて進めの親心」である。
挫折はしても崩壊しない、崩壊すれば蘇生を願うことこそ親心。そんな風に子どもの苦しみに力を貸せる親が理想の親ではないのか?失敗経験は人の免疫になるから、失敗をごまかさず、慰めず、徹底的に失敗に向き合い、とことん味わい尽くせばいい。結果には必ず原因(要因)があり、そこを徹底的に自問することの方が自らを慰めるよりはるかに重要だ。
今の自分は確かに不幸であるけれど、永遠に不幸とはならない。そういう気持ちを「希望」という。先は見えずとも「一歩」は踏み出せるし、どこかの何かに自分の幸せを定義づけて進まないと何も手に入らない。絶対に受かると思っていないと面接には落ちる。あやふやで不安な気持ちはどうしても態度に現れる。だから絶対に受かるという気持ちが大事。
それでも落ちるものだが、最大努力した結果なら足りない何かがあったと考え、せめて気持ちだけでは負けないこと。自身を信じていればプラスの力が生まれるはずだし。「何をやったって生きていける」という雑草的強さは、青白インテリには育たない。確信が持てるまでさまよえばいいし、若い人の先はまだまだ長いのに、悲観的な人間の言葉は聞いていてだるい。
「親心」などと、言葉にしていうのは簡単だが、実践に即して結構難しい問題もある。一人っ子や二人っ子と、我が家のように4人姉弟では状況も変わってくる。「我が子には平等に対等に接している」という親は多いが、誰にも同じようにという平等は実は平等ではない。子どもは個性も違えば性格も年も違うのに、同じにするのが平等であるはずがない。
一家で食事に出かけたときのこと。長女中2、次女中1、長男小4、三女小2であった。マックとケンタに意見が分れたが、長男は断固ケンタを主張、女3人はマックで折り合った。すると長女が長男に「あんたワガママでしょう?一緒にしたら!」。言われた長男は不満ながらも同意した。自分はすかさず、「お前一人で食べるならケンタで降ろすぞ?」と問う。
長男の喜ぶさまをみながら、(男の子だな!)と思った。一人でも好きなものを食べるなら食べたらいい。女の子はできないことでも男はやれる。女姉弟の中で育つと男の子らしさが損なわれる。金を渡し長男をケンタに降ろしたのは、つまらぬ平等よりも男子教育だ。近年男が女性化したのは、教師に女性が増えたことと、父親の権威喪失という指摘もある。
男は男が育てるべきだ。正義感は親が子どもに公平であれば育つが、兄弟が多いと子供同士で自治も芽生える。幼少期の子どもは自分のことしか考えないが、兄弟という暗黙の序列の中で自然に自治が生まれ、相手を思いやる心に発展していく。犬は飼い主の序列をしっかり把握しているが、子どもも同じように、両親の関係(序列)をシッカリ心に刻んでいる。
子どもにとって最低な親は信用できない親だ。子どもは親と交わした約束をよく覚えており、親は約束を守ってくれると信じている。だから子どもは親の嘘に手厳しい。信頼関係を失った親子はそれが回復することは困難ではないか。親とは何?は三つの視点がある。親自身の視点、子どもからの視点、第三者の視点、これらどれも親であるが、どれも違う親。
親がもっとも苦手とするのは、子どもからの視点の親ではないだろうか。そんなこと考えてない親が多い気がする。だから、成績が悪いからと携帯を取り上げたりできるんだろう。こどもの何かを取り上げるというのは、自分が頻繁にやられたからか、これほど卑劣なことはない。取り上げたら勉強をすると思ってるとしたら親の考えは甚だしく幼稚である。
テスト結果が悪かったことの罰則だろうが、親と言うのはずいぶん勝手なことをするものだ。子どもの携帯の盗み見は半ば常識みたいにいわれるが、我々の子ども時代に携帯はなく、変わりに封書開封は許せなかった。見るだけではなく捨てるわけだから、これほど子どもを愚弄する親はそうそういまい。子どもの携帯をみたばかりに、苦しむ母親の例がある。
「高校3年の娘を持つ母親です。昨晩、娘の携帯電話を悪いと思いつつ見てしまいました。主に見たのはライン、メール、スケジュールです。そこで出会った男性と毎日エッチしていることを知り、驚きを隠せません。相手は1人ではありません。20人はいると思われ、スケジュールには毎日男性の名前が書いてあり、休みの日には、2、3人の名前もありました。
娘が携帯電話を新しくした3ヶ月前から予定は埋まっていたのでそれよりも前から続けているのだと思います。相手の男性は20代前半から30代後半で既婚の方もいました。お金は貰っていないようです。しかし高校生の娘に手を出すなんて犯罪ですよね。警察に相談したほうがよいのでしょうか。このご時世どんな事件に巻き込まれるかわからないし病気や妊娠も心配です。
ゴムは必ずつけていたようですが心配でたまりません。しかし私が勝手に携帯電話を見てしまった手前娘に言い辛いですし、親にこんなことを指摘されたら娘は深く傷つくと思い、すぐに言うことができませんでした。娘に何と言うべきでしょうか。今すぐ言って叱るべきでしょうか。それとも、性依存症などのことも考え心療内科などにかかって様子をみるべきでしょうか。
警察には言わなければならないですか?私は娘のことを思うと大事にしないほうがよいと思っています。親子関係は良好と認識でいます。友達と喧嘩した、先生に怒られた、好きな人ができた、振られたなど、よく私に報告したり、相談してくれます。親子喧嘩をしても暴力を奮うことはありません。娘は気が強く小学生の頃はよく男の子をいじめていました。」
という母親の苦悩だが、最後の部分、「親子関係は良好、友達や先生のこと、好きな人ができた、振られたなど、報告、相談してくれる」とあるが、このような全国的に見ても稀有としかいえない高校生の娘に育てた原因はあろうし、すべては親の責任である。ここまでなって、どういう対処が相応しいかの正解はないし、どうするもこうするも、この親の力量である。
すべてをあからさまにして注意したところで、子どもは憤慨するだけ。自分の行為云々より、親の行為を責めるし、以後、信頼関係は一気に失せる。母親が娘と自分の信頼関係を壊した、裏切ったと思うのは勝手な言い草で、娘が母親と虚構の親子関係を演じていたに過ぎない。友人や教師などのちゃちい相談をしていればマヌケな親は喜んでいると見ていたようだ。
娘は親用の自分を演じていただけだし、この母親の性格の緩さ、天然ぶりからして子どもにうまくあしらわれていたという母娘関係でしかない。何を言おうが、どういう行為をしようが、「今さら…」でしかなく、携帯を見なかったことにして今後も虚飾の関係を続けるしかない。事が事だけに行動は危険だ。携帯を盗み見という行為からして、そういう親が何を言ってもダメ。
そういう信頼関係を損なう行為は子どもの怒りをかうだけ。そんな尊敬も信頼もない親からどんな助言をされたとしても、子どもが聞き入れることはない。非道な手段で得た情報は胸にしまっておくしかない。今となってどうすべきかは難しい。やってる事を即刻止めるような名案はないだろう。薬物中毒者が病院に隔離されなければ治療できないと同じこと。
どう対処するか、娘の性格を最も知ってる母親が請け負うしかない。母親が自らの命と引き換えるくらいの真剣さで、「あなたが今やってることを即刻止めてくれないなら、お母さんは命を捨てますよ」くらいの体を張っての本気度なら伝わるかもしれない。が、「死ぬなら死ねば…」といわれたなら、それが今日までの母娘関係の真実だったということだ。
"うつけ"と不評の信長を諫死で訴えた平手政秀。平手は信長の幼少時期からの守役である。どうにもならぬことを変えるには、死の覚悟が必要だったのだろう。それくらいの気持ちがあるのかないか、ネットで見知らぬ他人に悠長に相談する程度なら、放っておけとしか言いようがない。「死ね」と言ってるのではない、親の子に対する覚悟を問いたい。