子どもを産み育てるのがなぜ親の恩なのか、自分にはさっぱり分らない。親は子どもが欲しいから作るんだろうし、ペットショップの犬や猫を欲しいから金銭出して買うのどどこがちがうのか?欲しいペットなら可愛がって育てるだろうし、それのどこが恩であるのか?ペットを育てるのを恩とはいわぬが、人間の子は恩であるのか?別に言うのはいいよ。
思想は別に当たり前に思考すれば、子どもを育てるのは親の義務でしかない。ペットも義務である。金を出して買おうが、人から譲り受けようが、捨て猫を拾って連れて帰ろうが、手にした以上は飼育する義務がある。人間だけに恩が発生するというなら、納得させる意見をいってみろだ。子どもは親が作って産んだ以上、無条件に愛されなければいけないと思う。
本来はそうであるが、人間は欲だし、見栄っ張りだし、だからか他人と比べて様々な価値に一喜一憂する。我が子が価値を持って欲しいと親が思うのを当然にして「親心」などと記されているが、それは正しい「親心」なのか?物事には正しいと正しくないがある。思考であれ行動であれそうだと思う。厳密に正しいというのは、その人の知識や価値観によって変わる。
だから善悪正誤は難しいが、とりあえずそこの部分に言及しないで進める。親の子どもに対する「無条件の愛」がどれだけ難しいかは親ならわかろうはず。子どもといっても、0歳も5歳も10歳も20歳も子どもだから、「無条件の愛」の行使の必要性をとりあえず幼児期として思考を進める。幼児期に「無条件の愛」が必要なのは、普通の親なら理解しているはずだ。
何をするにも恩着せがましい気持ちなど皆無で育てるからこそ、子どもは親の愛を一心に受ける。幼児期に「無条件の愛」に恵まれるか、恵まれないかは、子どもの情緒の成熟に大きな影響を及ぼす。くらいは知ってる親もいるだろう。知らない親は乳幼児期から無慈悲な言葉や暴力を振るうと思われる。人間はまず始めに愛されることが必要である。
幼児期に「無条件の愛」が必要なのは、他の子どもと比較をせずに我が子だけに価値をしぼって育てることが大事だからだ。が、そそっかしい親は2歳児、3歳児のころから、他の子どもと比較し、子どもに伝えたりする。こういう親はどうかと思うが、そういう性格の人間が親になれば当たり前にそういう親になる。ところが、育児書で知識を得て修整する親もいる。
正しい子育てを願うなら育児書で知識を得なければ、正しい親にはなれないはずだ。よほど徳に恵まれた親なら育児書は不用かもしれない。人間というのは誰でも心の底で、自分がどの程度の人間であるかを知っているはずだ。さらに奥の奥を探れば自分の醜さ、ズルさも知っている。それいう醜悪な自分を受け入れている人間と、自身に批判的な人間とがいる。
育児書を手にする人間は、自身の親業に真っ当な不安を感じているんだろうし、そういう心の奥底で本来の醜い自分、ダメな自分に気づいている人間は客観的な自己評価を持った人間である。言い換えると自己評価の高い人、心理的に安定した人である。心の底で自分の醜悪さを感じていない、あるいは蓋をしてる人は、自己評価の低い人である。
本当の自分を誤魔化さず、目をつぶらず、受け入れられる人はなぜそうできるのか?醜悪な部分に蓋をし、受け入れようとしないのはなぜなのか?それは、その人が幼少期に重要であった他者が、実際の自分を受け入れたかどうかによる。というのが心理学的分析である。重要であった人は多くの場合親である。子どもの時に親があるがままの自分を愛してくれたか?
何事も他人との競争意識の強い親であったか?そういうことが子どもの成育に大きな影響を及ぼすのだ。あるがままの自分を愛してくれた親に育てられると、その子どもは自己評価を高くするし、自信を持つ子どもに育つし、心理的な安定がその子どもを真っ直ぐに成長させる。重要なキーワードは、「自分が受け入れられる、愛されるとは、他者と比較されないこと」
他者とはよその子に限らず、同じ屋根の下に同居する兄弟・姉妹も含めてである。親の視点は、この世に自分の子よりも優れた人物、強い人物がいるのを知っている。兄弟と比較すれば、種々の能力差、違いはよく判る。そうであっても、比較もせず、分け隔てることもせず、我が子を愛する親は、その子の怯えや不安を増長させないし、自信をつけていく。
自分が自分であるから愛されている。そういう感情を幼児期のうちから感じとることができるかが、その子の自我形成に甚大な影響を与える。まあ、教育書に書いてあるこういう事も知らずに親は子育てをする危険に満ちている。子どもが無条件に愛されるというのは、優れているから愛されるのではない。優れているから愛されるというのは実は危険に満ちている。
なぜなら、愛されるためには優れていなければならないという反動ストレスを子どもが感じてしまうとどうなるだろうか?その子は強いこと、優れていることに強迫的になるし、自ずと強く優れている事を自身に求めるようになる。映画『さびしんぼう』の中で息子にショパンの「別れの曲」を上手く弾くよう押し付けていた母親が、ある時こんな事を言って息子を抱きしめた。
「でもね…、今の母さんは、勉強がキライで、『別れの曲』を下手くそにしか弾けない、ヒロキって子が大好きよ。」
なんとも微笑ましい言葉であることか。こんな親からいい子が育たないわけがない。こんな母に努力してなれるのだろうか?もちろん、この母が素敵な母だと思った女性はなれるかも知れないが、多くのものを捨て去り、純粋にあるがままの子どもを愛するのがどれだけ大変であるか。だから、こういう女性(母)は、天性の資質(愛・無欲さ)を持っている人ではないのかと。
女のセルフイメージの高さは男に比べて一般的に高いと言われているが、決してよいばかりとも言えないのがセルフイメージである。「今の仕事、環境は、私ほどの人間には見合ってない」などと、ちょっとしたことでプライドが傷つき、いつもプリプリと怒っていたり、欲求不満であったり、いわゆる困ったお姫様状態の女性も多く、周囲も扱いに困ってしまう。
そういう女性が母になり、子どもを持ったとすれば…、後は想像すればよい。ようするに、自身のハードルを上げすぎているのだが、本人は気づいていない。ちょっとやそっとでは直らないし、つける薬もないゆえに、危険な母親と自分はみる。「慈母」という言葉は慈愛に満ちた母親ということだが、「地味」を良しとする女性は慈母の資質を有しているのではないだろうか。
バッグや洋服に派手好みの高級品志向の女性はセルフイメージが高い。自分の女選びの要件は一貫して地味女性で、派手好みは徹底避けた。大好きで結婚を考えた女性も月に2回は美容院に行きたいというのを聞き、即座に候補からはずれた。地味が嫌い、派手好みが好きという男は多いが、大概において自己顕示欲の強い男である。類は友を呼ぶのだろう。
質素で地味を飲む女性の欠点はなかなかみつけにくいもの。親が派手好みなら子どももそうなるだろうが、そういう親を反面教師にする子もいない訳ではない。虚飾に憧れない自分を愛し、そういう生き方をする人なら分かると思うが、自身に無理をせず、自然にふるまっていながら、そういう自分が相手から愛されていると実感できるのは何と言う安らぎであろう。
「自分が自分だから受け入れられ、愛されている」を実感できたなら、これこそが本当の意味での愛であろう。子どももそのように感じるはずだ。親や恋人からの愛を維持するために、自分に無理をする必要もなく、強く優れていることを証明する必要もない。決して相手は自分に何ものも求めていず、自分と言う存在そのものが相手に満足を与えている。
そういう本質を求めていた自分は、恋愛においても親子関係においても、「物」を介在させないようにした。物欲の強い女性には、その性癖をよくないことと理解させるような言動に努めたものだ。物を欲しがらない女性の欠点を探すのは大変である。そういう情緒の安定した女性は自分の心の安定させる。幼少期から母親の情緒障害に苦しんだ反動だろう。
昨日と今日で言う事が変る、さっきと一時間前とでは変わる、そういう女といるのは耐え難い。渡辺淳一はその著『解剖学的女性論』で、"生理に支配された女性の情緒不安定を男は理解すべし"と述べており、そこを踏まえても限度がある。金も力も何もない自分であっても(仮に持っていたとしても、それを誇示しないでいれる)愛してくれる女性が理想であった。
学業成績がよいから親に満足を与えている。高学歴で大企業勤務だから恋人に満足を与えてる、お金持ちだから、イケメンだから、気前がいいから…そんなのが本当の愛であるはずがない。「金の切れ目が縁の切れ目」という諺は、女性のしたたかさ、醜悪さを表すものだ。親から無条件に愛されなかった子どもは、大人になっても他人の優れた部分を妬んだりやっかんだりする。
そのような子どもには育てないという理念・信念が親にあればいいのだが、何度もいうように無知で親になる我々は、教育書を頼るべきである。「親心」とはそういう屈折した心の子どもを育てないことではないか。「親心」を「親バカ」と同義に使う人は多いが、自分は「親バカ」=「バカ親」だと思っているから、「親バカ」という免罪符は自身に認めていない。
自分の娘の孫への対処を見ていると、小学生の頃から勉強、勉強、学校の成績にかなり入れ込んでいた。かといって塾に行かさないのは、父(自分)を慮ってのことか、だから空手、水泳、パソコン教室には通っている。「勉強は学問じゃないんだよ」と言っても小学生の息子を持つ母親には理解できない。教科書にあることを全部覚えて、いつも100点を願う親。
世界の国の首都、日本の県庁所在地を覚えるのがどうして学問なのか?教科書を丸暗記したらそれで偉くなれるのか?勉強は教科書に書いてある事、学問は教科書を否定すること、だから教科書なんかに頼っていてはダメ。誰も気づかぬ事を考えたり発見したりが重要であるのが小中高の子を持つ分らない親に、「勉強はくだらん無駄なこと」と口癖のように言う自分だ。
まあ、短絡的にならずとも教科書の記述を覚えるのも知識である。あまりムキにならぬように学ばせればいいと思うが、世の親という生き物は、子どもが勉強しない、あるいは成績が悪いと面白くないらしい。自分の父は一度たりとも「勉強しろ」といわなかった人だったが、幼少時期に母から拷問のように書き取りなどされていた息子を忍びないと思ったのか。
なぜ「勉強しろ」と一言も言わなかった理由は終ぞ分らなかったが、父の大らかな心けは受け継いだ。踏襲というより、子に「勉強しろ」といわなかったのは、教科書覚えて100点というのが、本心でくだらないと思ったからでもある。どんな問題を出されようと、人より早く答えが出せるようになるためには、受験勉強を相当広範囲にやっておかないと無理。
ほどほどに知っておけばいいようなことでも、高得点を狙うとなると、「人生に意味のない」ような、重箱の隅をつつくような問題を想定し、かなりの時間を受験勉強に費やす必要がある。して、勉強できると周囲や皆に褒められる。親からも教師からも同級生からも、褒められる。するとその子は周囲の期待を常に意識し、優等生を演じなければならなくなる。
いわゆる「良い子」を演じるのだが、この悪循環を断ち切れた子どもは救われる。親の考えどおりにならない子を憎み、嫌味をいったり仕返しのようなことをする親がいるが、こういう親はまぎれもなく自立を阻まれた人間、子ども気質が抜けきっていない人間だろう。子どもが大人になっていくためには「親離れ」、「子離れ」が必要だというのを多くの親は知っている。
そこには大きな誤解もある。互いが反目しあって冷えた関係が続くと収拾つかなくなる。親の敷いたレールに乗らなかった子どもも、その生き方を認めた親も、大人同士の交流がなされなければならないが、大人になりきれていない親は大人の対応が出来ない。そのしわ寄せ一切が子どもにのしかかる。子どもを攻撃する親をもった憐れなこどもたち…。
子どもを塾に押し込んで成績が上がらないと小言をいい、罰を与えるような哀しい親になる意味があるのだろうか?そうすることが子どものためと本気で思っているバカな親は、偏差値の高い大学に入りさえすれば、あとはなんとか"人並み"に生きていけるだろうと思い込んでいる。高卒、三流大卒の親は"人並み"に生きてはいないということなのだろう。
優等生ほど自立し難いというのは、親や周囲の目を意識するあまり、「良い子」の呪縛から逃れられないからだが、成績至上主義環境による、無個性人間となってしまった実は被害者である。遊びを通して人間に個性は備わるように、いわゆる"青白インテリ"という秀才タイプに個性無き人間は多い。個性は雑多な遊びや多くの人間関係を通じて身につけるもの。
「這えば立て、立てば歩めの親心」という諺を自分は好きでない。"我が子の成長を待ちわびる親心"というなら共感もするが、人より強く、人より高く、人より多く、人より美しく、という欲にまみれていく親の犠牲になる子どもは、生まれてくるところを間違った憐れな子どもに見えてしまう。親の純粋であるべき「願い」が、「欲」かどうかを親は自問するしかない。