彼とのハチャメチャ旅行を思い出したが、その写真から場面、場面の情景は思い出すが、二人が何を話したかはまったく覚えていない。アルバムの但し書きからして、ロマンチストの彼は、ロストラブを癒すために提案したのだろう。一途で真面目なかれは、思いつめる性格である。自分は、身を切られるような失恋をしても、別の対象を見つけて気分を一新させる。
どちらがいいか悪いかではなく、思いつめる人間が行き過ぎると何をしでかすかわからないといった怖さがある。愛だの恋だのはその時点では深い感情であるけれど、薄らいでしまえばどうということはない。「人間は判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する。」という言葉は、案外的を得ているものではないか。
Uのセンチメンタル・ジャーニーの記憶は現地で撮った写真が物語るのみで、だから自分がもっとも彼の印象深い思い出を探したときに、「これだ!」と思ったのが彼から届いた一冊の恋愛本である。「Uの想い出」の記事に書いた、松田道雄の『 私のアンソロジー〈1〉恋愛 』を、自分宛に送った彼の真意は、"一つの恋を成就させよ"というものだったのではないかと。
彼の思い出を残すために自分はこの本を購入した。今さら恋愛はないし、老いらくの恋などとシャレた情念も持ち合わせる身ではないが、そういう境地になった現在ならこの本に書いてある事をUと共有できるのではないか。「失恋したって女なんかいくらでもいるじゃないか。今よりもいい女がいるのかもしれない」。こういう気持ちにあった自分である。
異性に魅かれるのも根本はそれだ。もし、女が角ばったゴツゴツした体なら興醒めするし、低くて太い声で呻かれてもキモチワリィし、洗濯板の上に干しブドウ二つのような胸なら、自分と同じじゃないか、と思う。だから、ホルスタインのような巨乳に憧れる。すべての男とはいわないが傾向的に。ブスがイケメンに、醜男が美女に憧れるのも、ないものねだり。
気持ちにあるのだから、そういう言葉をUに言ったはずだ。"一途の恋"を神聖とするUに自分のいい加減な気持ちは許せなかったと思われる。織姫と彦星のような、一年に一度しか会えない恋をロマンと憧れるU、多くの女と恋の花を咲かせる自分、二人は対照的だが、人間は自分とは対照的なものに魅かれるもので、その理由は、"ないものねだり"にある。
子どもにとって七夕は、織姫と彦星が一年に一度の出会いをする大切な日と思っていた。何ともロマンに満ち、恋愛成就のイメージが強い寓話であるが、そもそも二人はどういう関係であったのか?七夕の話には表層のロマンとは裏腹に、看過できかねる現実がある。実は織姫と彦星は夫婦であり、なぜか天の川を隔てて別居状態に置かれている。
その「なぜ」を紐解いてみよう。本来は真面目で働き者の彦星ちゃんであったが、いきなり女性をあてがわれ、新婚生活に酔い、遊んでばかりいたそんな彦ちゃんに、怒った天帝が二人を別居、離れ離れにさせたのである。天帝とは織姫の父親であり、二人の縁談をまとめた張本人でもあった。彦星は、機織りの名手である娘に相応しい相手として選んだ。
彼の仕事は牛使いで、まれにみる働き者であった。そんな二人を引き合わせたのはいいが、結婚してからというもの、姫といちゃつくばかりでまるで働かない彦星を見かねた天帝が下した苦渋の決断である。なんともヒドイ話ではないか。別離後、悲しみに明け暮れる二人に対し、技芸を磨き勤勉に働くことを条件に、年に一度の再会が許された。
そして七夕の日、天帝の命を受けたカササギの翼にのり、二人は逢瀬を交わすようになった。銀河を挟んで織姫のベガ、牽牛星のアルタイル、二つの間には白鳥座のデネブ、これが天の川で輝く「夏の大三角形」といわれる。白鳥座がカササギという事だ。七夕に雨が降ると、子ども心にかわいそうと思っていたが、七夕に降る雨を「洒涙雨(さいるいう)」という。
これは二人が逢瀬の後に流す惜別の涙とも、逢瀬が叶わなかった悲しみの涙とも言われている。多くの人は、織姫と彦星を恋人と思っているようだが、実は強制的に別居させられた夫婦であった。それにしても、天帝という奴の傲慢さ、権威的で非情な行為である。新婚早々、仕事おろそかにいちゃいちゃするなど、当たり前だろに。子づくりという仕事もあるだろに…
母親に引き裂かれた恋を経験する自分としては、こういう傲慢な親は許しがたい。そういえば7月7日が誕生日という女性は、名を「七夕子(なゆこ)」といった。何とロマンチックで、惚れ惚れするようないい名である。名だけではなく、性格その他、いろんな点で申し分ない女性であったのを思い出す…。「○○ちゃんはどうしてるかな?」恋多き男ならではの、思い出である。
一穴主義のUに、恋多き男の心境など、なんとも理解できなかったようだ。「お前はこれを読んだ方がいい」という送ってきた押し付け本であったが、反抗することなく素直に読んだ。ストーリーのある小説と違って、書いてあることの何一つ覚えてはいない。今日の午後に届くはずなので、読後の感想として後編を書く。ひとまずここまで、本日は二部構成である。
本が届いていた。ゆうメール便でおそらく夕方くらいではなかったか。4時前にはまだ未着だった。手にし、目次をみた。アンソロジー(選集)というだけあって複数の作家、詩人、芸人、音楽家らの短編やエッセーが収録されていた。何度も読んだ坂口安吾の『恋愛論』もあった。瀬戸内晴美、いずみ・たく、倉橋由実子ら総勢25人、の中には伊藤整、小田実もあった。
これを読むには日数がいる。片手間に感想を書くなどという代物でもないので、それは止めた。一つだけ取り上げてみるなら、最初の頁にあるということで、なだ・いなだの「愛されるということ」と題するエッセイに、ルソーが彼の著書『懺悔録』の中で言っているという言葉が記されていた。そう知人から聞いたなだは、著書からその言葉を探したが見つけてないという。
それでなだは、ルソーであれ誰であれ、その事は別に問題ないとして、以下の言葉を引用している。「人間、愛されようと思っている時には、愛されぬものだが、愛されなくともよいと諦めると、愛されるものだ」。どういう意味かを考える前に、これが事実であったとしても、諦めた時に愛されてもいいものだろうか?諦めていたときに愛されると想いが復活するのか?
「求めても手に入らず、諦めたら向こうから寄ってきた」と言い換えられる。つまり、物事はなかなか自分の思うようにならないということで、そういうものであるのは納得する。自分が好きだと思う相手が、自分を好いてくれてる場合もあるが、好きな相手が別にいる場合が多い。「俺はお前が好きだから、お前も俺を好きになれ」と、強制したから叶うものでもないし…
好きな相手に告白したが、「ごめんなさい、好きな人がいるんです」といわれて、それでも一途な思いを継続するか、諦めて他を探すか、ひとそれぞれだろう。ルソー(として)の言葉では、断られた後もずっと思っているうちはいいことにならず、諦めた時に向こうから、「私のことまだ好きでいてくれる?」などと、アクションがあるということか。そうなるかどうかは疑わしい。
そういうこともないではないが、諦めたら愛されるというのはレアケース。何事も断言するのは簡単だが、ルソー(として)の言葉の本質は、「とかくこの世は上手く行かないもの」という比喩であろう。自分ならダメな相手に執着せず、別の対象をみつけるが、Uの場合はフラれても心変わりせず、じっと好きでいつづけるということだ。これも善悪の問題ではなかろう。
自分がいいと思うことは人にいう。例えば誰かが自分に、「告白したらフラれちゃった。どうしたらいい?」といわれれば、「仕方ないね~、いい女はわんさといるから探した方がいいよ。今の相手よりいい女が見つかるかもしれんしなぁ」となる。おそらくUなら、「フラれても思い続けていれば何とかなる。簡単に諦めないでじっと待ってたほうがいい」というだろう。
妻のMさんがこのように言っていた。「彼は何事も一生懸命に頑張っていたら、きっといいことがある。天はそういう人を見捨てない」が口癖だったと…。「私は甘い!といいましたけどね」。「Uは、ロマンチストなんですよ。他人からみるとそういうところは、甘いといわれるかも…」と自分は添えた。男は夢想派の理想主義、女性は現実主義といわれる。女性の夢想派は少女に限る。
おばちゃんの現実主義志向を見るといい。かつて自分も超ロマンチストだったが、ある言葉に触れて考え直した。ある言葉とは、「相対的に男はロマンチストだが、ロマンチスト過ぎる男は滅びる」と、これはリゴール王となった山田長政に言われたもの。Uよ、お前はいささかロマンチスト過ぎた。まあいい、もう何もかも終ったのだ。安らかに眠っておれ…