同じ年に生まれた同級生は、たまたま同じ年に生まれた同士が学校の教室に寄せ集められ、勉学に励んだ。同じ年齢でも死ぬのはバラバラだ。人は必ず死ぬし、早いか遅いかの違いだ。なぜ人の死に早い遅いがあるのだろうか?人の死には様々な理由があるからで、自殺を除けば人が死ぬ理由は、事故死、病死、もしくは戦闘や事件の被害者としての死であろう。
自分が嫌な死の順序は、①戦闘、②事件、③事故死、④病死となる。④の病死は必然の死、それ以外は偶然死といえる。疾病による突然死は偶然であっても、病気という必然である。脳卒中(は正式な病名でなく脳血管障害をいう)、くも膜下出血、心筋梗塞も、突然死の部類だが、いずれにも病巣という列記とした要因が存在する。無言で進行する病巣に人は気づかない。
がんのように余命宣告される場合と、突然死で急逝する場合とどっちがいい?と知人などに聞たりするが、日常考えない突飛な質問に困惑を見せる者、速攻で答える者、「う~ん」といいながら答えを出せない者などさまざまである。速攻で答える者はそれについて考えた事があるのかもしれない、あるいは考えた事はなくとも、瞬時に実利を判断するのだろう。
何もさせない、眺めるだけの絶世の美人と、使い放題のドブスとどっちがいい?と問われた事がある。自分は瞬時に後者と言った。前者がいてもいいが、「絵に描いた餅」、「花より団子」は、実利志向である。「美人は眺めるだけで十分」という男もいて、理由を問うと、「ブスが嫌い」という。「使い放題だぞ?」とけしかけても、「やる気せん」とニベもない。
「ふ~ん」、人もいろいろだなと思うしかない。「よさほい節」という歌がある。「よさこい節」は古くから歌われる高知県民謡だが、「よさほい節」とは、数え歌形式の替え歌である。いわゆる「春歌」であり、春歌はまた人間の匂いのする歌でもある。その「よさほい節」の三番の歌詞に、醜い娘とやるときにゃ、ハンカチかぶせてせにゃならぬ、とある。
顔を隠せば美人も不細工も同じという実利志向に依存はない。男も女も美人、イケメンに拘るのは、容姿コンプレックスの裏返しか。ファッションデザイナーのコシノジュンコが、「私はブサイクだから、美への執着が強いんだと思います」と言っていた。作家の松本清張も、「ボクの小説に登場する女性は、みなコンプレックスが生んだ魅力的女性です」と言った。
上の二者択一は、女性は顔か性格かという問いに通じる。どちらがいいかを知りたいならどちらとも付き合ってみることだ。美人⇒不細工⇒美人⇒不細工⇒美人⇒不細工と三交替くらいで結論はでよう。自分の経験でいうと、巷言われる通り、「美人は3日で飽きる」はその通りで、飽きたからといって、他のいい点を探せばいいし、それが性格的なものであったりする。
となると、究極的には性格に落ち着くということか。顔は飽きても性格で飽きることはない。良い物から悪いものが見えてくるより、良くないものから良いものが出る方がいいのではなかろうか?美人だったらどんな性格でも許せるなどという男もいたが、こういう男はおそらく美人と付き合ったこともなく、今後もおそらくない高値の花と願望が強いのだろう。
不細工でも心の美しい女性はいるし、美人でも「ちょっとどうだろ?」的な性向の持ち主はいる。「会話を聞いたり、実際に話してみて、声が変、声がデカイ、言葉が汚い、自信過剰、話の内容がバカ過ぎ、空気が読めない、態度がでかい、媚び過ぎ、作り過ぎ…。こういう女性は5分でガッカリする」という投稿もある。が、美人礼賛は結構多いようだ。
「顔より性格重視というのはウソですよね?」という言葉は、ネット内でもちらほらみる。分かりやすく言えば、本当は顔重視なのに、性格と嘘をいうということだが、何で顔重視といってはいけないんだ?顔重視はバツが悪いのか?おそらく、自分の顔を棚にあげて他人には美形容姿を求めることに気まずさを感じるのだろう。これも人間の屈折した心理である。
自分は好きになる相手には顔はどうでもよかった。美形も可愛い系もいたが、やはり満たされる部分は性格である。仮に恋愛対象かそうでないかを容姿で判断し、付き合ったとしても、性格が合わないと思ったら速攻別れるから、続くか続かないか、性格で決まることになる。「顔がよければ後は我慢できる」って、人がそうなら結構なこと。自分にはあり得ない事。
選ぶってことばかり言ってるが、選ばれる側である事も忘れるでない。少々不細工でも何てことはないが、少々でも性悪は対象外になる。求める対象は、自分の母が最大の反面教師で、母と真逆な性格の女性である。顔など問題じゃないほどに、優しい女性に憧れた。さて、「Uの想い出」の表題にあるUは、1月31日に心筋梗塞で他界した高校時代の友人である。
彼も一人息子、自分も一人息子だったが、境遇は同じでも弁当のおかずは天地の差があった。彼は大好きな牛肉がほぼ毎日添えられていたが、自分の弁当に牛肉など一度もなかった。いいとこ魚肉ソーセージである。肉とソーセージは似て非なり、まるで違うものだが、なぜか当時はソーセージは高級食材にみえた。ハムなどはとんでもないさらなる高級品である。
おかずの差は母親の差でもある。Uの母親は慈母観音のようであった。親になって以降、一度も声を荒げることも、息子を一度たりとも叱ったことがない人のようであった。「こんな人が母だったらいいな」と常々思っていた。父親はタクシー会社の社長で、タクシー需要が多い頃は羽振りもよかったようだが、マイカーの普及により経営はどんどん悪化、遂に倒産する。
会社が傾き始めたころに、事業資金の確保に奔走する父の連帯保証人になったりし、その父が病魔に襲われた後は、Uが債務の返済を行っていた。Uは他にも友人の保証人になっており、結局友人は債務を履行せずトンズラしてしまった。保証人と連帯保証人に違いはある。どちらも、債務者の肩代わりをする可能性が生じる点は同じだが、いくつかの違いがある。
簡単にいうなら、連帯保証人は「債務者と同様の義務を負う」が、通常の保証人は、「債務者がどうしても返済できない時にだけ、代わりに返済する」事になる。当然、連帯保証人の方が通常の保証人よりも責任が重い。連帯保証人は厳しく、「絶対に大丈夫」ということはない。他人の保証人になったせいで、自分が築いた幸せな家庭や人生が台無しになったケースは多い。
連帯保証人になるということは、「自分が借金をすること」と同じ気持ちでハンコを捺すことだ。保証人を頼まれる場合の決まり文句に、「絶対に迷惑はかけないから連帯保証人になってくれないか。」そうやって仲の良い友人から頼まれたらどうする?絶対に受けてはならないし、だからきっぱり「No!」というべきである。色々理由をつけたり遠まわしに断るのはダメだ。
そういう態度だと相手は脈ありと、執拗に食い下がるだろう。つまり、狙いをつけられないように、相手を諦めさせるようにすべきである。「いかなる友人の、いかなる理由であれ、連帯保証人には絶対にならない」といえばいい。理由を聞かれたとしても、「ならないと決めているので、なれないものはなれない。悪いが他をあたってくれないか」で十分である。
情にもろい人間は、つい相手の困っている様子を見捨てられず、「O.K」してしまうが、そこには自分が同額の借金をしたという気がないのだろう。する必要のない借金をするか?つまり、連帯保証人になるということは、する必要のない借金をした事になる。その時点で友人を助けても、友人が行き詰ったとき、その友人は自分を助けてはくれないし、放って逃げる。
これが連帯保証人の辿る運命と知っておくこと。Uは人を助けるつもりで、自身が借金地獄にはまってしまった。そうして返済途中で心筋梗塞で逝ってしまい、その災いは奥さんに降りかかることになる。夫の借金に妻は弁済義務はあるのか?民法761条には、「日常の家事による債務」については、連帯責任を負うという規定がある。が、日常の家事債務とは何か?
たとえば米や食料品、マイカーのガソリン代、ストーブの灯油代、水道光熱費代金などの払いが滞った場合の債務をいう。したがって、夫が個人的な理由で友人の借金の連帯保証人になった場合、妻が連帯責任を負う必要はない。夫と妻は民法上は別会計とされている。夫の愛人への投資や、ギャンブルのためにした借金が、日常家事債務にはあてはまるわけがない。
ところが、夫の借金一切を妻が背負うことになるのは、夫が死亡した場合である。この場合は、妻や子供などの相続人が法律で決められた割合で夫の資産も借金も相続する。夫名義の資産だけは相続し、借金は嫌という事にはならない。もし、借金の相続が嫌なら、相続放棄という手続をすればいい。これは夫の死亡から3ヶ月以内に家庭裁判所で相続放棄手続き行う必要がある。
ただし、3ヶ月経過してしまっている場合でも、借金の存在を知らなかった場合などの事情によって、相続放棄が可能になる場合がある。プラスの財産より借金が多い場合には、相続放棄をすればよいが、どちらが多いか判明しない場合、相続した債務を相続した財産から弁済し、債務超過の場合は相続人固有の財産で弁済する責任を負わない「限定承認」という方法がある。
「限定承認」は、法定相続人全員で家庭裁判所に申し出、夫のプラスの財産から借金を引いて、残った財産を相続する事も可能。死亡後3ヶ月の期間内に相続放棄も限定承認もしなかったときは、単純承認とみなされる。限定承認は、合理的な制度であるが、手続きが面倒さと相続人全員で行わなければならないほか、税務上の問題もあり、実際にはほとんど利用されていない。