子どもを生き甲斐にする親など、とんでもないというのは、育児書など開かずとも感じていた。おそらく実母の影響であろう。子どもは希望の光、だから親よりも一歩前を歩かせ、親はその子どもの背中を押す役目を担うべきである。夫よりも子どもがいればいい、子どもが生きる支えなどと、これほど迷惑なことはない。それでも子どもに支えられたい母親は、子どもを潰す典型だ。
支えてもらうべきは夫で、子どもはそういう対象じゃない。そこから抜け出ない母親から自立した逞しい子どもが育まれる気はしない。それなのに、「夫より子どもが生き甲斐」などとと口にする妻は多い。そんな考え、そういう甘えが共依存という弊害を生む。寝食を共にするだけで、親の価値観に影響される子どもが、反抗もせず親の考えに沿って生きるのは、一個人として考えて不幸ではないのか?
自らの腹を傷めて産んだ母親が我が子への密着度は強いのは分かるが、決していいことではない。子育てで難しい点は、子どもの権利と親の義務に関する問題。一歩引いて子どもを見つめる親はなかなかいないし、それができるのはむしろ夫(父親)であろう。その父親が家庭で権威を失墜しているというなら、子育ての主導は、まさに秀頼の母、淀君状態である。
感情ばかりが先走りする妄信的子育てを排し、理性的、客観的思考に基づいた子育てを、母親に分からせるのは父親の役割だが、家庭内の力関係もあってそうも行かない状況のようだ。妻の近視眼的な言動に対し、「よくもあんな事ができるよな」、「あんな行為は考えられない」と嘆くだけの父親は、単に愚痴を言うだけで、それでは何も変わらないし、はじまらない。
リーダーの資質で重要なのは「No!」がいえること。それが言えないならリーダーにあらず。我が子に盲目で夫の意見を耳に入れない母親はいる。夫が何を言っても聞き入れようともしない。夫はやがて諦観から、子どもについて一切を閉ざすようになる。「この女はもう何をいってもダメだ」と夫が口出ししないのをいいことに、「うるさい夫が私の子どもに口出しがなくなって楽!」と、とうそぶく妻もいる。
子どもを取り巻く教育観の違いなどが、実は離婚の要因となったりする。妻にも夫にも様々な考えはあり、問題点も利点はさまざまあるし、その中から何が良いかを話し合いで決めるのが、合議制というもの。大企業や優良企業はこのようにして方針を決めるが、中小企業のワンマン社長や親族で固めた会社等は、会社と言うより創業者商店。これはもう、親亀こけたら皆こける運命にある。
自分の意見や考えが無視されて、子育てにやる気をなくす夫は結構いるが、そうなると男の意地もあってか、後に子どもに関わろうとしなくなる。父を奪われた男の悲哀というのか、母親の独断があまりに度を越すと、母子家庭にまっしぐらの可能性もある。妻に何を言われても、「ハイ、ハイ」夫なら離婚は回避できるが、夫の意見に耳に貸さない傲慢妻なら、「別れた方がいい」と自分は勧めている。
家庭内に親が二人揃っていながら、実質的稼動は母親だけ、夫はお金を稼ぐだけの人に批判的だが、諦め加減なのか、「それでいい」という夫もいる。母親への問題意識を掲げる夫もいる。教育書などを読んで、私情に溺れず、客観的で理性的な子育てを目指す夫もいる。「お前はあまりに子どもを自分の意のままにやるが、夫としての自分をどう捉えている?」
このような通告をされた妻はどうする?「私の子どもなんだから、余計な口出ししないで」と返す妻なら、「今後もそうしたいなら、母子家庭で好きにやったらどうだ?」と夫は言うべきだ。自分は、教育的主導を父が取っていたから、妻は案外楽であったようだ。自分も楽だった。「船頭多くして、舟山に登る」という諺があるように、リーダーは基本姿勢を吟味し、方針を決定できる。
同じ屋根の下に住みながら無視され、教育に参画を許されない父親に存在意義などない。といえば、「あっ、そう。どうぞ御勝手に!私は私の○ちゃんを私の思うようにやるので」返す妻。口出し無用を今後も強いられるなら離婚した方がいい。この持論は過激ではない。間違った夫婦のあり方についての正しい選択であり、間違いと知りつつ継続はできないだろ。
男と女の価値観の違いについての典型的な例をあげる。男の子は失敗をさせる事が大事であり、それら失敗を乗り越えて逞しく成長し、困難を乗り越える人間になる。したがって男の子に、「あれはダメ!」、「これはダメ!」と失敗を見かねてやらせないようにする母親だと、男の子は物事に、「やる気」を損なう。やろうとすることに、「ダメ!」と言われてやる気がなくなるのは当然。
男の子にはでき得るかぎり「ダメ!」をいわず、やろうとすることの門戸を開放したほうがいい。早い時期から親が失敗をさせたくないとか、可哀想と思うよりも、失敗を怖れぬ逞しい子を主眼に置くなら、男の子はどんどん失敗させた方がいい。失敗することで物事の性質を理解する。例えば2~3歳のころに高いところから飛び降りるのを、「危ないから」などと禁止したとする。
そういう子は小学生になってからいきなり高い跳び箱から落ちて怪我をするようなことが起きる。小さい頃から、知らず知らずの訓練をするわけだ。なのに禁止で「やる気」を阻むよりも、何事も体験させて「やる気」を育むのが大切。男のやんちゃやわんぱくは後の社会を歩く土台となる。それらを父親は同性として分かるが、その芽を摘む母親の多いこと。
「ダメ!ダメ!」と行動を制限された子は、好奇心が乏しく、遊びや学びのエネルギーが不足になりがちになり、何をやってもつまらなそうに、言われたことだけをこなす子どもになりがちだ。「学ぶ力」も大事だが、「社会を生き抜く力」の大切さを親は知ること。勉強ばかりで、社会を生き抜けるはずはない。「学ぶ力」は、好奇心、やる気、集中力を育てることに寄与する。
「社会を生き抜く力」とは、自立心、我慢、思いやり、自信などで、5歳前後にこの力が育つといわれている。何事も自分でやってみよう、やりたいというのが「自立心」、自分でやってみて思うようにいかなくとも、じっと耐えることで、我慢を覚える。そういう辛さを知ることで他人への気遣いを学ぶ。これが「思いやり」。そうしてそれらのすべての経験が、「自信」となって蓄積されていく。
男親はこれらを体験的に学んでいる、だから息子にそれを望むが、母親がそこに割って入り、「何でこんな酷なことをさせるの?可哀想でしょう?」は、言語道断である。成長するということは、生きるエネルギーをつけて行くことである。子どもの成長を阻むのは親の無知、老婆心であったりする。「心配症なもので…」という母親がいるが、自分の心配症を子どもにも植え付けたいのか?
「心配症」というのは、過保護、溺愛の別の言い方だ。知識や原体験のなさに加え、成熟していない親こそ問題である。祖父母などが同居する大家族制度に支えられた昔の育児に比べて、無知で原体験が希薄で、過度な心配症であったなら、それだけど子どもが脆弱になる。傲慢な親に対して祖父母の意見は貴重であるが、核家族の子育てにはそれが見込めない。
幼児虐待が問題になっている。大家族家庭の中では、老夫婦の監視もあってそのようなことは起こらない。祖母が母親と結託して子(孫)をいじめていたケースもあり、その少女は母と祖母を刺殺した。とんでもないのは少女ではなく、親と祖母である。上記した夫の意見や忠告を無視する傲慢妻であるなら、居ながらにして無視される夫の屈辱は計り知れない。
いろんなケースを見てきたが、こういう夫はゴルフか、なにか、別の気晴らしをみつけ、憂さ晴らしをする。「俺はもう子どもには一切関わらんぞ、お前が勝手にやれよ!」と意地をみせたりの歪んだ家庭は多い。なぜ人間だけがこのようになるのか?人の親はもともと生物的に健在であるべく育児本能に歪みがあり、誤った母性愛を持ち易いと分析されている。
誤った母性愛が誤った育児をする。人間は、プラスの愛情とマイナスの愛情を有している。いいかえると、正しい育児と誤った育児が混じり合って子どもを育てる生物である。つまり、親は我が子をダメにする愛情も持っている。そこにどう気づくかどうかが問題なのに、当人には気づかない。そういうときに夫の理性的な視点や進言が効果的であるのだが…。
ガミガミ母親を持った実体験でいうなら、そういう時の母親はまるで憎しみに溢れていた。人間は積極的に我が子に加害行為を行える動物。叱ることは教育であるけれど、ガミガミ言う親は子に敵意や憎しみを持ってる場合が多い。だからカッとし、攻撃性を発揮する。自分の育児に自信たっぷりの親ほど、実は間違った教育を行なっているもの。教育に自信はそぐわない。
今さえよければすべて良しというなら、これほど簡単なことはない。されど教育とは、その結果が何十年も先に現れるもので、そういった未知のことに「自信」はそぐわないのではないか?いかに誤った育児を行っている親といえども、誤りに気づくことはない。一般的な親は、原則的には「私は正しい」という自信とは裏腹な、誤った育児を行っているものだ。
理由の一つに自己洞察能力の不完全性が上げられる。人間における正しい子育ての原理は、他の生物と同様に難しいものではなく、人間形成医学の立場からみれば、生物的にはむしろ単純な法則に従ってこそ正しい育児が可能。なのに人間は、「誤った育児を行う能力を獲得した脳の仕組み」を持っている。それが他人との差別感(見栄)であったり、欲であったり、優越感であったり…
人間のこういったものが誤った子育てを推進し、親はその誤謬に気づかず、批判に口実を用意する。「願い」という言葉に置き換えられた、親の子への過大な要求は、拡大するばかり。人間は動物と違って誤った育児をする。最近、若い夫婦の離婚に関わった(内情を聞くだけ)が、妻の独善的な子育てが問題であった。されど、外野は何の手立てもできない。