2013年5月24日、大阪市北区天満のマンションの一室で、母子2人の遺体が見つかった。室内には食べ物はなく、食塩があったのみ。預金口座の残金は十数円で、電気やガスも止められていた。大阪府警天満署は生活に困窮して餓死の可能性が高いとみている。発見されたとき、2人は布団の上に仰向けに倒れ、目立った外傷はなく、幼児には頭から毛布とバスタオルがかけられていた。
親子は職業不詳の母親井上充代さん(28)と、瑠海(るい)君(3)である。「最後におなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね」と、ガス料金の請求書の封筒に母親が書いた見られるメモが痛々しい。2人は昨年10月ごろ、同マンションに入居したが冷蔵庫はなく、2月ごろ死亡したとみられている。瑠海君が先に亡くなった後、間もなく母親も死亡した用である。
母親の井上充代さんが数年前、夫から配偶者間暴力(DV)を受けていたことが府警などへの取材で分かった。井上さんは夫と別居してマンションに移ったが、広島の実家にも居場所を伝えていず、これは夫に自分たちの居場所を知られないようにするためとみられている。行政に支援を求めた形跡はなく、頼る相手もいないまま孤立を深めた可能性が高い。
【 父親は息子に食事を全く与えず、奨学金も流用…生徒の食「配給」が命綱 学校に米やカップ麺 】
上は2016年2月16日付、西日本新聞の記事の見出しである。福岡県内のある公立高校。「生徒指導室」に置かれた段ボール箱には、パック入りのご飯やカップラーメン、レトルトカレー、缶詰などが入れられている。家で十分な食事が取れない生徒が持ち帰るために用意されているが、他の生徒には知らせていない。Tくんは生活保護を受ける父親と2人で暮らし、奨学金をもらい高校に通う。
生徒支援担当の田中教諭(31)がTくんの異変に気付いたのは2年生時。修学旅行費の積み立てなど、月に約1万円の校納金がまったく入金されなくなった。現状視察のために家庭訪問しても父親は居留守。何度も通うと、「うるさい!せからしい!」と怒鳴る。父親は息子に食事を与えず、Tくんの奨学金も流用していた。Tくんは夕方から飲食店でバイト、店のまかないで食いつなぐ。
生徒指導室の食料は、Tくんにはありがたい。間もなく卒業、専門学校に進学希望し、学力は申し分なかった。が、田中教諭はこう諭した。「学費は1年間で100万円かかる。奨学金をもらっても、お父さんが流用する。就職したほうがいい」。教諭の言葉を受け入れ、Tくんは専門学校への進学を諦めた。田中教諭が生徒指導室で食料提供を始めたのは約3年前になる。
生徒の相談に関わるうちに、経済的な理由や養育放棄で食に困窮するケースが少なくないことに気付いた。がりがりに痩せ、「最後に何を食べたか覚えていない」と話す生徒もいた。教諭は民間の支援団体代表にこうした現状を話すと、「私たちが食品を提供しましょう」と申し出てくれた。田中の個人的努力と民間団体の取り組み巧を奏し、これまで継続的に受け取った生徒は約10人。
「学校は子どもを救う最前線。子どもたちが抱える問題は、目を凝らさなければ見過ごしてしまう」。家庭や行政の福祉部局を日々、走り回る田中教諭は自らにこう言い聞かせる。奨学金の給付を受けているにも関わらず、父親がそれに手を出す家庭も少なくない。まして奨学金は後に返済義務を負う。奨学金には2種類ある。返すべきものと、返さなくてもいいもの。
文科省が所管する日本学生支援機構が給付している奨学金はすべて「貸与型」で、つまり返さなければいけない奨学金。また、貸与型には有利子と無利子2種類があるが、共に返済が必要な点ではローンと変わらない。この奨学金が近年問題を抱えている。つまり、卒業後に返済に追われて自己破産のケースもある。生活が苦しいために奨学金を借りるわけだが、これでは本末転倒だ。
貸与型だけでなく、返さなくてもいい「給付型」の奨学金が望まれる。返済の必要がない給付型にすれば勉強に集中することもできる。他の国の状況をいえば、アメリカやイギリスなどOECD(経済協力開発機構)のほとんどの加盟国では、給付型奨学金が導入されている。これぬついて馳浩文科相は、給付型奨学金の導入に積極的な姿勢を示した。しかし検討すべき課題が多い。
日本学生支援機構の統計によると、2015年度は約134万人の利用が見込まれ、貸与額の合計は約1兆1000億円にのぼり、利用者の数も貸与額も年々増えている。給付型を実現するには、(1)財源、(2)給付対象者の基準づくり、(3)公平な支給方法など課題が多く、実現のメドは立っていない。特に深刻なのが、虐待や貧困で家庭から保護され、児童養護施設などで生活する子どもたち。
児童養護施設に暮らす子どもたちの数は約3万人。厚生労働省の調査では、児童養護施設で暮らす子どもたちで高校卒業後に進学するのは約2割。全国平均の8割にはほど遠いのが現状だ。進学率が低い理由の一つが学費の負担。たとえば月に10万円借りた場合、4年間の奨学金総額は480万円。去年3月に借り入れが終了した学生の場合、利子も含めると返済総額は約512万円になる。
学生の中には奨学金を生活費にあてざるを得なくなり、進学しても中退してしまうケースが見受けられる。これらに対し、地域ではさまざまな支援活動がなされている。長野県諏訪中央病院・鎌田實名誉院長が掲げる、「社会的共同親」が注目されている。親と離れて児童養護施設などで暮らす子どもたちを、地域の大人たちが親代わりになって支援する取り組みだ。
取り組みの背景にあるのは、施設を出た子どもたちを取り巻く現実の厳しさだ。NPO法人「ブリッジフォースマイル」の調査によると、2013年度に児童養護施設を退所した子どもたちの7割が就職している。ところが、時間がたつほど「仕事を続けている人」が減り、4年3か月後には、「転職者」、「離職者」の数が半数以上を占めるほどになっているという。
現在の状況がわからない「不明」のケースも1割程度あった。施設退所後の子どもたちをフォローするのは非常に難しいという現状がある。他にも、京都の中小企業経営者ら約40人が子どもたちを支えようと、3つの児童養護施設などで「社会的共同親」の取り組みを始めた。代表者であり、「京都中小企業家同友会」の代表メンバーの前川順さん(56)は写真スタジオを営む。
その傍ら、児童養護施設を訪れて七五三の写真を撮影するボランティアをしていた。その中で、18歳になって施設を出た子どもたちが仕事をすぐにやめてしまう実態を耳にしたという。前川さんは、「とりあえず自立ありきでか、焦った就職をするので、自分が本当に何がしたいかがわからず、それが就職してもすぐに辞めてしまうのでは?」と、そのように分析する。
「社会的共同親」は実親でないという難しさはある。こういった活動を「社会的共同親」と名付けたのは、京都府立大学の津崎哲雄名誉教授。イギリスの「コーポレート・ペアレント(社会的共同親)」という制度に似ていたからと話す津崎名誉教授は、「社会の構成員すべての人が、どんな立場でも子どもたちに、自分の立場から養育の支援をする考え方」という。
イギリスでは、この取り組みが1990年代末から広まって、今ではすべての自治体で実施されているという。児童養護施設の業務には、退所した子どもたちの自立支援も含まれているが、実際には入所中の子どもの世話でていっぱいのようだ。津崎名誉教授は、日本で「社会的共同親」の取り組みが広がるには、施設の側ももっと門戸を開放し、外部に助けを求めてほしいと話す。
児童養護施設ではないが、次のケースは小学2年の葵ちゃん(8)。母子家庭で中学1年の兄と3人暮らし。母親は精神疾患を抱えており、育児もままならない。自宅アパートは脱ぎ捨てた服やごみ袋であふれ、散らかって足の踏み場もない。母親は、体調がいい日は食事を作るが、そうでないときはコンビニ弁当か菓子パンである。一日の食事が給食だけの日も珍しくない。
教師たちが葵ちゃんにおにぎりやパンを買い、職員室で隠れて食べさせているという。スクールソーシャルワーカーの山田由希子(50)によると、ある日のこと、葵ちゃんが口元に前日の給食で飲んだ牛乳の跡を付けて登校した。顔を拭きながら「ちゃんと顔を洗っている」と聞くと、葵は「顔とか洗ったことないよ」。「歯磨きは?」と聞くと、「保育園のときにしたことがある」。
この現状を見かねた山田が昨年夏、母親に「夏休みの間だけ、児童相談所の一時保護施設に預けませんか」と提案すると、母親は二つ返事で応じたという。さぞや寂しい思いをしているだろうと、山田が施設へ面会に行った。葵ちゃんは、「ご飯が3回あって、おやつも出るとよ」「お部屋がきれいで、お布団も1人ずつにあるんよ」と満面の笑みで話したという。
予想に反した返答に山田は、「食事を満足に取れない子には、児相の保護施設ですら天国なんです」と言う。葵ちゃんにとって、1カ月間の施設生活は楽しい思い出だった。「またあそこに行きたいんだけど、どうしたら行ける?」。葵ちゃんは屈託のない言葉を山田に問いかける。山田が黙っていると、「また行きたいなぁ」と独り言のようにつぶやいていた。
児童養護施設で育った子どもたちは、「どうせ自分なんて…」と自分を肯定できない部分が見受けられ、人と関わることが苦手な子どもも多い。親に捨てられたという自覚を持っている子も少なくない。母子家庭の乱雑な環境よりは、規律的には養護施設の方がキチンとしているが、どちらにも長短があろう。が、自分は思う。実親には子どもを支配する強欲さがある。
血のつながりのない子どもには、愛情は捧げても支配する親にはならないだろう。そういった客観性は、他人の親ならでこそではないか。何が子どもにとって正しいかを、欲やエゴで捉えると実質的には正しくない場合が多いが、他人の子どもに接する場合、情念より理性で子どもをみれる利点はある。実親の情と比して足りないものがあるなら、それは何であろう?