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Channel: 死ぬまで生きよう!
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「今でしょ!」は、我田引水!

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    1日 23023歩  15655m   92/分
   2日 23385歩  15901m   94
    3日 46638歩  31713m    93
   4日 25279歩  17189m     83
   5日 11604歩   7890m      89
   6日 16084歩  10937m     86
   8日  28602歩  19449m     88
   9日 23880歩  16238m     92
   10日  6177歩    4200m     82
    11日  16586歩   11278m     74
    12日 24532歩  16681m     88
   13日 11429歩    7771m      92
   14日 22988歩  15631m     89
   15日 32818歩  22316m     89
   16日 12370歩   8411m      87
   26日 24125歩  16405m     85
   27日 12646歩   8599m      85 
   29日 34314歩  23333m   86

   total 396480歩  269597m

イメージ 1

ということで、2月はインフルエンザもあり10月に始めて以来400000歩を割った。前月比歩数ではマイナス31479歩、距離数でマイナス25405mとなった。こうして数字の積算を眺めると、『千里の道も一歩から』を実感させられる。そういえば『三百六十五歩のマーチ』という歌もあった。♪1日1歩、3日で3歩、3歩進んで2歩下がる、比喩であろうがオカシな歌だ。

その後に、♪人生はワンツーパンチ、と続く。まったくなんのこっちゃで…?出だしも変な言葉に思えた。♪幸せは歩いてこない、だから歩いてゆくんだね、って大意は分からなくもないが、もう少しいい言葉があったのでは?は否めない。実はこの曲は、水前寺清子当人がレコーディングを嫌がり、それを作詞家の星野哲郎が懸命に説得したという。

水前寺が嫌がったのは、歌詞の「ワンツー」という英語読みの部分で、演歌歌手としてデビューし、これまで日本人の心を歌ってきた彼女としては、どうしても「ワンツー」と英語で叫ぶ歌詞が受け入れられなかったのだという。今でこそ『三百六十五歩のマーチ』は水前寺の代表曲となっているが、レコーディング時にはこういうエピソードがあったのだという。

1日に一歩づつ、地道に進んで行けばいいという意味だろうが、幸せは歩いてこない、だから歩いて行くという歌詞に、引っかかりを感じるのは自分だけであろうか。伝わればいい、通じればいいというなら問題ないが、幸せは向こうから歩いてくるというより、こちらから見つけに行くものではないのかと。来るとか、来ないではなく、動いて探しに行くものだろう。

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幸せの定義は、それこそ人の数ほどあるのだろうが、それはまた言葉を変えれば、定義づけられないということでもある。それでも定義づけたいのが人間であり、偉人、賢人、宗教家、哲学者などが、幸せを定義づけようと幾多の言葉を残している。ある童話作家は、幸せの青い鳥を見つけに行くと画いているが、これまた幸福の抽象的概念である。

10年近くブログを書いた自分も、おそらく幸せについてページを割いたことだろうし、ハッキリと記憶はないが、記憶というよりも幸せというものを定義づけてはいないはずだ。できるなら定義づけてみたいが、自分の幸せ観については、自分のことだから分かっている。しかし、万人に対する普遍的、絶対的な幸せというのは、宗教者の様に持っていない。

瞬間的な幸せ感に浸ることはできる。断続的な幸せ感もあるように思う。が、長期継続的な幸せ感となると、人によって変わってくる。テレビが大好きという人間は、テレビが幸せ感をもたらせてくれるものだし、映画やスポーツ観戦、読書、グルメ、旅行など、人それぞれの幸せ感はいろいろであろう。学者は学問する事が仕事であるが、それはまた幸せ感でもある。

学者でなくとも、勉強に青春を捧げた人は、難関高校~難関大学に入ったことで幸せ感を抱いたはずだ。どういう幸せ感であるか、これまた人にもよるが、勝ち組的幸せ感であったり、将来の前途に光明が見えたような幸せ感であったり、自尊心を満たす幸せ感であったり…。言われてみると、テレビが幸せ感に浸れるほどに面白かった時期は自分にもあった。


時期なのか、時代というべきか、どちらでもあったような気もする。大人たちが花見や酒宴の場で、楽しそうに歌い、踊っていたのを思い出す。『炭鉱節』や『安木節』、はたまた『野球拳』が、戦中派世代にとっては他愛もない宴会芸だった。子ども心に何が楽しいのかも分からぬままに、大人たちのあどけない幸せ気分を眺めながら、自分もあんな大人になるのかと…

『野球拳』とは、どちらも歌って踊って、その中で歌にあわせてじゃんけんをし、負けた側が服を一枚づつ脱いでいく。『野球拳』の歴史は、幕末当時に流行の発信地であった横浜の遊郭で流行り、『横浜拳』と呼ばれていたが、これが愛媛県松山の遊郭に伝わり、松山で郷土芸能とされた。これをテレビでやったら受けるのでは?と、プロデューサーの発案で始まった。

当時のテレビ番組を観るに、よくもこんなバカげたことをやっていたものだと呆れもするが、テレビで女性が洋服を脱ぐという、そのことで視聴率を稼いだ。TBSの『時間ですよ!』も、銭湯が題材であることが、女性の脱衣所や入浴シーンを必然的とし、それがまた視聴率を上げた。「面白くなければテレビでない」をキャッチフレーズにのし上がった局もある。

フジテレビである。現在のフジテレビのあまりの凋落ぶりは、バラエティー依存の無能プロデューサーが、バカ番組しか作らなかったからであろう。元NHKでチーフプロデューサーでもあった評論家立元幸治は、著作『誰がテレビをつまらなくしたのか』で、「テレビ番組がつまらなくなった原因と責任の多くはプロデューサーにある。」と、以下述べている。

イメージ 3「海外ではテレビ番組の国際市から売れている番組を購入したり、一流プロデューサーを使い、大金を投じて番組を作る。日本はコネ入社の三流プロデューサーが思いつきで番組を作る。彼らは年収1,000万以上の高給取り」と指摘、「お笑い芸人やタレントらには1回の出演で数百万から数千万の出演料を出しながら、クイズやバラエティの景品は安物の山。

しかるに芸能人は、大金をもらいながらも安っぽい景品や食事で一喜一憂し、一般視聴者と同レベルの生活を演じている。完全に視聴者を肴にし、バカにしている」と、切り捨てる。長年テレビに関わってきた大橋巨泉も、近年の知性の欠片もないバカ芸能人の騒ぎっぷりに、「バラエティーと称する、わけの分からないものは日本にしか存在しないんです。

外国では台本がきちんとあるシチュエーションコメディーと、ライブだけ」。「今のバラエティー番組は、芸能界の内幕ネタばかりで、芸能人が使い捨ての状態になっている」と批判した。バカを演じるのは知性だが、バカをさらすだけの地バカ芸人を観て喜ぶ視聴者も問題だ。社会評論家の大宅壮一は、テレビの出現を機に、『一億総白痴化』という言葉を生み出した。

大宅は、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」との懸念を述べた。これを裏づけるかのような研究が、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳科学)と、竹内光准教授(同)らによってもたらされた。2013年11月、川島・竹光らのグループは、子ども長時間テレビ視聴に異を唱えた。

川島らは、言語知能などをつかさどる脳の前頭極に悪影響を与えるとする研究結果を発表。以前からテレビが子どもの読書能力や注意能力低下が言われていたが、研究によって科学的に解明されたことになる。「テレビ視聴制限の必要性が脳科学でも裏付けられた。生活習慣が脳の発達に影響することを子育て中の親に知ってほしい。」と川島教授は警告する。

女子高生売春についても言えるが、自身の短絡的行為が、今後の自分の将来にどのような影響を及ぼすかなど考えず、場当たり感情で動く人間が多くなっている。時給2~3万の"身ウリ"が沁み付いて、どうして時給800円の地道な仕事を黙々と頑張れるだろう?低俗番組で幸せ感に浸る者も、万札数枚で身売りする女子高生も、一応その場の幸せ感は得れている。

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が、如何様に考えても継続的な幸せ感には結びつかない。ばかりか、ともすれば継続的な幸せ感に到達できる要素を失っているのではないか?どうすれば人は幸せになれるのかは分らない。18歳までは学力がすべてと考える青年もいるだろう。彼らは自分たちの周囲及び、塾や予備校などの受験産業で食い扶持を得ている人たちの言葉しか、耳に入ってない。

受験や受験産業従事者以外の高齢者や大人たちと話してみれば、人間がいかに健康や人間関係が社会生活の機軸になるかを耳にする。自分も受験産業に利害のない立場であり、だから「どうすれば幸せになれるか?」についての根本には、学力や経済力は関係ないことを知っている。金がすべてという風潮もあるが、ゲイツは幸せなのか?ジョブズはどうだった?

格差社会は、「貧困は遺伝する」などの新語を生んだ。確かに子どもの学力が親の経済力によって左右される世の中はオカシイと言わねばならないし、変えるべき事案である。が、そうはいっても、それで個人の幸福や不幸が決まるわけではなかろう。『受験必要論』を書いた予備校講師の林修、あんなものは我田引水で、彼らが自身の存在意義に肯定的なのは本を読まずとも当たり前。

予備校講師でありながら、『受験不要論』を書くというなら買って読むかも知れぬが、受験学力を金で売っている受験産業従事者連中が、『受験必要論』などと、何を「今さら!」である。『患者よ、がんと闘うな』(文芸春秋)の著者で、元慶応大病院の近藤誠医師は、「医師不要論」で学界から孤立したように、現実にみても、「テレビ不要論」をテレビが報じるわけがない。

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