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「平常心」

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「正常」の反語は「異常」であるが、「平常」の反語は何?「平常時」、「勃起時」だから「勃起」か?バカをいうな!サイズを測ってる場合ではない。書きながらちょっくら考えてみるべ。平常とは平安な状態?「状態」でなく「常」だから意味が違う。そこで文章から考えると、よく耳にするのが、「台風で運転を見合わせていたが、先ほど平常通り運行を始めました」。
 
ならば、平常=いつも通り、普段通りということだから「平常心」とは普段通りの心となる。では、普段通りでない場合とはどんな時だろうか?人前で話をするとき、彼女の父親に挨拶に行くとき、入試や試験の当日など、誰でも緊張を強いられる。となると、平常の反語は緊張か?まあ、そんなところだろう。プレッシャーのない普段通りの状態が「平常心」。
 
人前で挨拶をするのを怖れる人は多い。怖れるというのは「恥ずかしい」の最上級ではないか?怖れる、恐いにもいろいろな場面があるが、お化けが怖いというのも、精神的プレッシャーを恐がるのも、「怖れる」とか「怖い」などという。人は「お化けが怖い」というが、おそらくお化けを見たことなdないはずだし、どこかの夜道でお化けに出会ったこともないはずだ。
 
したがって、「お化けが怖い」というのは自己妄想でしかない。夜の墓場、廃校などを歩いたり、探検してもお化けなど出たためしはないのに、夜という闇が人間の恐怖を駆り立てる。懐かしや宜保愛子の世界である。彼女の霊視のイカサマを大槻教条は、「私が対決した霊能者の宜保愛子は、6人のスタッフで事前調査をしていました」と述べている。
 
イメージ 2寺田寅彦1878年明治11年)11月28日- 1935年昭和10年)12月31日)という戦前の物理学者がいた。彼は科学者であるだけでなく、俳人であり、随筆家でもある。『小爆発二件』という表題のエッセイで次のように書いている。「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」。なるほど…。正当に怖がるのが正しい怖がり方と寺田は言うのだろう。以外はつまらぬ怖がり方だが、こういう含蓄ある言葉を聞いて反応するのが理知なのだと。そこらの女からは「正当も何もないわよ。怖いものは怖いんだから…」の言葉が聞こえて来そうだが、こういう言葉が自分は好きでない。つまり、「怖いものに理由はない」という言い方だ。おかしくないか?
 
感覚派からは「おかしくないよ」という声が聞こえてきそうだが、なんにしろ理由はあるし、理由(原因)があるから結果があるという科学者的な考えに寺田は立っている。だけではなく、我々にもそれを教えてくれている。やみくもに怖がりなさんな、ちゃんと理由を考えてみれば、「な~んだ、怖がることでもないんだ」という発見があるだろうと、言っている。
 
それを、「正当な理由を聞いたって怖いものは怖い」というのはいかにも感情的な言い方である。女がそうなら仕方がないが、男ならチャンと考えろよ。お前が怖がっているのは何でだ?どういう原因なのだ?それがクリアできれば怖いものから脱皮できるし、それも成長だろう?子どもが無知で理知性も少ないからお化けを怖がるのは分るが、大人になれば変わってくる。
 
それなのにお化けが怖いというのは、いささかもお化けについて思考を巡らせていない、巡らせようともしない理知のなさと言える。「理知なんかいりません。怖いものは怖いんです」と、頑強にいう女もいそうだが、「ちゃんとオレの話を聞いて、言うとおりにやってみろ、そうしたら何でもないのが分るから」みたいな説得をかつてどれだけやったことか。
 
ジェットコースターが怖いのも、「アレは100%落ちないし、所詮は人を怖がらせようという代物だ。そんなもんに左右されてたまるか!コノヤロ!」とその上に自分が位置すれば克服できる。人間が何かを怖がるのは、常にその下に自分がいるからだろう。人前で上がらずに話すコツは、聴衆の頭をカボチャだと思え、聴衆なんか飲み込んでしまえと言われたりする。
 
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すべては自分が上に立つことを説いている。「お化けごときがなんだ、そんなもんいるはずがない」と子どものころ、やせ我慢をした記憶がある。自分の近所の兄ちゃんは、『四谷怪談』や『化け猫』映画を映画館に2~3人連れ立って観に行き、幽霊が現れたときに、「わっはっは!」と大笑いすることにしているという。何ともユニークなお化け克服法であろうか。
 
子どもの頃にこの話を聞いたとき、怪談映画は怖いと思う自分になにやら暗示を与えてくれた。こういうユニークでバラエティに富んだ兄ちゃんたちがいたという現実。自分らが小学生の頃に中学生くらいだから、2~3歳しか違わないのに、話を聞いてるだけで自分が遅れをとっているなと知らされたものだ。いわゆる社会の教育力だが、こういう物が近年はめっきりない。
 
近所で年上の兄ちゃんらと遊ぶことがまるでない社会である。せいぜい、同級生と親という環境で育つ子どもは、あまりに教えられることが少ないだろう。お兄ちゃんたちは凄いな、自分もあんな風にならなきゃと、自然に追い立てられていく。寺田のいう「正当に怖がる」とは、正しい現状分析を行ってリスク量といったものを的確に把握していることが前提となる。
 
飛行機を怖がる人もいるが、多くの人は怖がらない。100%怖がらないという人はいないと思うが、あれだけ世界各国で毎日飛んでいる飛行機が墜落するなどというリスクがゼロに近いから怖くないのだ。それでも乗る時は、万が一この飛行機が落ちない理由はないと誰でも思う。怖がることは悪いことではないが、何もかも一切が怖いと言うのはバカだろう。
 
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『論語』に「君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る」という孔子の言葉がある。立派な人は、天命、徳行ある人、聖人の言葉を畏れるが、身分低き者は、天命を知らないので畏れず、徳行ある人を見下げ、聖人の言葉を侮辱するとの意味。
 
「おそれる」にもいくつかの漢字があり、「怖れる」、「恐れる」、「畏れる」は微妙に違うようだが「怖れる」=「恐れる」でいいだろうが、拘る人は辞書で調べて使い分けたらいい。「畏れる」は、敬い、かしこまる気持ちと用途が違う。「天災は忘れた頃に来る」という言葉を言い出したのも寺田と言われているが、本人が書いたものの中に見当たらない。
 
「天災が極めてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。」と述べているのはあり、これはまさに、「天災は忘れた頃に来る」と同じこと。そもそも人間は忘れるようにできているものだとすれば、何があってもいいように、必要なもの、そうでない物を峻別し準備や整理をしていればいい。
 
災害や突発的な事故などでは「忘れる」どころか、「平常心」は失われがちになる。就寝中に火事に見舞われ、とりあえず何かを持ち出さねばの気持ちから「枕」を持ち出したりになる。就寝中に火事に気づいたら取るものも取らず、「命」だけ持って逃げること。「火事場のバカ力」といい、あれこれ持ち出す算段をして逃げ遅れた人は多い。焼死の殆んどは煙でやられる。
 
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火の勢いがまだ大丈夫と思っても問題は煙である。映画やテレビで火の中に飛び込んでペットなどを助けるシーンは、嘘だと思って自分の命だけしか考えないことだ。子どもがいたらどうするかについての答えはない。すべては自身の裁量ですべきもの。消防士がいれば間違いなく静止すると思う。彼らは煙の怖さを知っている。通帳なんか焼けても銀行に原本がある。
 
行動より思索が大事なことも多くあるが、思索より行動は緊急時の最重要事項だが、慣れていないからパニックになるらしい。避難訓練とかなされていても、訓練は訓練である。起こってみなければ分らない事もあるから仏教などではそれを説いたりする。「平常心」とは元々仏教用語で、「平常心(びょうじょうしん)」といい、我々の意味する「平常心」とは違う。
 
緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、落ち着こうとあせる心を起すときに不自然な心が働き、かえって変調をきたす。このままではいけない、落ちつこう、泰然としていようとすればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくない。無理に「平常心」を作らず、緊張している我が心こそ、今の自分の真実の姿、ありのままの心を素直に認め受け入れる。
 
これが仏教の説く「平常心」である。趙州和尚が師の南泉禅師に「如何是道」(道とはどんなものでしょうか)とたずねた。その答えが「平常心是道」(ふだんの心こそが道である)であった。道とは仏道のこと。 趙州が「その心はどのようにしてつかむことができるのでしょうか」と重ねて問うた、南泉禅師は「つかもうとすれども、つかむことができない」と答えた。
 
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趙州和尚は「つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないでしょうか」とさらに問うた。趙州和尚は「つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないか」とさらに問うた。まさに禅問答の様相だ。これに対して南泉禅師は「道は考えてわかるようなものではない、しかし、わからないといってしまうこともできない。
 
考えてわかるというものであれば妄想になってしまう、わからないとすれば意味のないことになってしまう。」と答え、さらに、「理解できるとか、理解できないとかという分別を離れてみると、自ずからそこに道が現れる。あたかも晴れて澄みわたっている秋空のようなもので、分別を入れる余地がまったくない」と答え、趙州はその答えを聞いて悟ったという。
 
仏教の教えはともかく、『一勝九敗』という本を出したユニクロの柳井正氏のいうように、1つの失敗にこだわるよりも、ミスをしたときには、ミスの分析、反省は大切として、それが終われば、「自分はこんなミスを犯しやすい」、「こういうケースではこの方法を取らぬ事」という「知識」に変換せせることで、イタズラに心がかき乱されず平常心へとつながる。
 
12月3日~4日の将棋『竜王戦』で、挑戦者の糸谷哲郎七段が、森内俊之竜王を4勝1敗で破り、新竜王になった。初タイトルが棋界最高位の竜王ということで、彼の物怖じしない図太さが、羽生、森内、佐藤、郷田と言われた昨今の棋界の勢力図を変えるといわれている。彼の竜王奪取の瞬間の指し手を見たが、表面的には何ら同ぜず、平常心そのものに見えた。
 
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糸谷新竜王とは、彼が幼稚園のときに初対局をし、王手をうっかりした自分の玉をもぎ取って脱兎の如く席を離れたのを今も忘れない。直後に将棋センターの本多席主に「そんなことをするもんじゃない」とたしなめられた。次に対局したのは小一のときで、その時は奇手「横歩取り4五角戦法」で粉砕したが、負けて隣の父親の膝元に泣きくずれたのも印象的だった。
 
あの頃から将棋の一手に命を賭けているような、真剣さ、凄みがあったが、大成する子はそういうところから違っている。幼少期の糸谷少年に「平常心」など微塵もない、いらいら、うそうそした感じの子だったが、今はもう26歳だ。平常心というより、全身で相手を砕くようなものを感じる。ウェーバーの『魔弾の射手』というオペラには射撃の名手マックスが登場する。
 
糸谷の将棋は、「魔指の棋士」であった。鉄板流と呼ばれ、良くなってから間違うことなく確実に勝ちきる森内の、大差ともいうべき敗勢の将棋を二局とも逆転した彼の魔力というか、森内は地獄の恐怖を見たことだろう。竜王位奪取の悔しさよりも、あれほどの将棋をひっくり返された森内の心境やいかに…、いつも「平常心」を装う森内の顔は普段通りに見えた。
 
森内将棋がまったく通じない相手を初めて見た。2003年に当時羽生竜王に4連勝で竜王位を奪取した森内は、翌2004年に弱冠20歳の渡辺明五段にフルセットの末敗退し、このときも「若手の渡辺に、感覚を壊された」といわれたが、今回はその時以上のショックを受けたのではないか。今後、どう立て直して魔指の棋士糸谷に向かっていくのか、森内の底力に期待す。
 
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武士の心得書『葉隠』には、「心が定まらず、おろおろしているときにはよい思案などない」という言葉がある。つまり、「何らかの結論を出さねばならないときは、手っ取り早く結論を出さねばならない」ということだが、これと同じようなことを糸谷は、竜王位奪取後のインタビューでこう述べた。「自分が悪いと思っているときは、積極的に(読みを)飛ばしますね。
 
読みの枝がいくつもある中で、ひとつ都合の悪い変化があれば、それをどんどん切り捨てていく。苦しいときほど切り捨てる手がはっきりする…」。持ち時間8時間のタイトル戦を3時間30分も余して勝った例はかつてない。糸谷は頭の回転が図抜けて速いらしいが、それだけで将棋は勝てない。新しい勝負術を心得た棋士として今後も注視されて行くだろう。
 
 

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