「無気力・無関心・無責任」を称して三無主義と言われたのは1970年頃だった。これにもう一つ「無感動」を加えて四無主義とも言われた。さらには「無作法」を加えて五無主義と広がった。そうして自己中者の多い昨今においては、「無神経」を加えて六無主義と言えなくもない。「無気力・無関心・無責任・無感動・無作法・無神経」、これら六冠を全部所有できると現代人?
とはいえ、まともな社会生活は無理だろう。さらに最近の女性の「無節操」さには呆れてしまう。これをプラスして七無主義だ。皆が皆そうではないからいいものの、こんな人間ばかりでは国がもたないし、中国や北朝鮮・韓国などは、国家自体が無節操である。いつまでも大東亜戦争の責任を日本に押し付ける卑しきたかり体質は、蛮族としかいいようがない。
戦争史観は様々あるが、大東亜戦争は義戦であろう。「白人(欧米)帝国主義諸列強のアジア侵略への予防的先制」という根底においてである。そのことを棚にあげての朝鮮・中国の日本攻撃は何をかいわんやで、確かに「靖国」問題は日本の二枚舌外交からして、当然の帰結ともいえる。国内的には「日本国の名誉ある戦死者の英霊を祀る場所」となっている。
が、対外的には数十回に及ぶ謝罪外交で戦争否定を繰り返してきた。靖国参拝は、それ自体が公的な儀式であることは言うに及ばずで、その儀式の意味するとことは、「当該の戦争に公的に肯定去るべき要素が目立つ程度あった」と認めるところである。そうした戦争肯定を日本は「対内的」に認めてきたにもかかわらず、こういう二枚舌外交こそが問題であった。
あの戦争を全面的に「肯定」せよだの、「否定」せよではなく、戦争のどの次元を、どの局面を、どの要素をいかなる意味で肯定し、もしくは否定するという国家的歴史認識が鮮明になされていない。それでこそ、中国や韓国のいう「全面的に否定せよ」、「謝罪を続行せよ」、「靖国参拝を停止せよ」との要求に対し、正しい歴史認識に基づいて対応できる。
おひとよしで「外面」を良く見せるのが大好きな日本人の心理を、巧みに利用しようとする野蛮国家に対する戦略の無さが招いた結果である。終戦70年にもなろうかというのに、これほど戦後処理が長引く国家はどこにもない。どれだけ日本にダメ政治家がいたかということだ。人間にとって無関心であった方がよいと思えるものがあるとすれば自身の「寿命」だろう。
自身が動かしがたく、運や天に任せるしかない。寿命に無関心というのと健康に無関心とは違う。自分は、肝臓の数値が高いのでタウリンと亜鉛のサプリを常用しているくらいで他はなにもない。他に「無関心」であるべきものを思考してみたが特におもいつかなかった。興味のない事と「無関心」は違うだろうか?「興味」と「関心」の語句から答えを探る。
「興味」と「関心」は、分けて使わなければいけないものでもない。「政治に興味がある」、「政治に関心がある」、「ゴルフに興味がある」、「ゴルフに関心がある」と、同じようなものだ。小林秀雄という不世出の批評家がいた。近代批評の確立者と言われる彼の批評は、音楽から哲学、文学、科学、時事、などさまざまに及び、さまざま引用もされている。
小林は批評の天才であるが、批評を文にする言葉の天才でもある。到底言葉になど表現し得ぬ人間の深層を表現しようと努め、素晴らしい文を生み出す。彼の批評を目にすると、臓器が抉り取られるくらいに心臓の鼓動が激しくなる。どうしてこういう域に達するのか、どうしてこういう言葉を発露できるのか、あまりに当たり前すぎる言葉が、なぜに新鮮に響くのか。
事物を深く思考する点において小林は突出しているが故に批判もあった。中野重治は、『新潮』昭和11年4月号に発表した『間ニ月ニ九日』で、「分らない言い廻わしでなしには小林は何一つ言えない」などと扱き下ろす。坂口安吾も小林の影響を受けた一人で、誰にもまして小林を評価する安吾も、自著『教祖の文学 小林秀雄論』で小林を辛辣に批判する。
「生きた人間を自分の文学から締め出してしまった小林は、文学とは絶縁し、文学から失脚したもので、一つの文学的出家遁世だ。私が彼を教祖というのは思いつきの言葉ではない。(中略) 彼はよく見える目で物を人間をながめ、もつばら死相を見つめてそこから必然といいものを探す。彼は骨董の鑑定人だ」。小林は批評家ゆえに恨みも買う。以下は小林の言葉。
・不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。
・およそものが解るというほど不可思議な事実はない。解るということには無数の階段があるのである。人生が退屈だとはボードレールも言うし、会社員も言うのである。
・自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ。最も逆説的な自己陶酔の形式だ。
・誤解されない人間など、毒にも薬にもならない。
・見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。
・考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。
・常識は、社会生活の塩なのだ。
・美しい「花」がある、「花」の美しさというものはない。
安吾はこのように言う。「"美しい花がある、花の美しさというものはない"という表現は、人は多いが人は少いとは違って、これはこれで意味に即してもいるが、小林に暖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根抵にある」。確かに小林には論理的飛躍があるが、読んでいて面白いし、「言葉が芸術になりえる」ことを教えてくれる。
批評に「文体」という個性を導入した小林である。そこが小林の無比なる点であり、安吾のいう「曖昧さを弄ぶ」とまでは言えないにしろ、少なからず言葉の曖昧さを肯定的の捉えることは小林にあった。「気のきいた表現に自ら思い込んで取り澄ましている態度」と言う批判についても、小林が批評に文体という問題を導入した先駆者としての表れでしかない。
小林秀雄と坂口安吾が対談したのは昭和23年で、安吾の『教祖の文学 小林秀雄論』が世に出た一年後であった。対談の中で小林は4歳下の安吾に対し、「僕は君の小説は一種の批評であり、エッセイだと思う」と述べている。小説の中に批評があるという点で、小林は安吾を評価した言葉であろう。そんな二人が一致した意見を持ったのが以下のところである。
安吾 やっぱり生活を賭けるということがなくちゃダメなんだろうね。
小林 ダメらしいですよ。
生活を賭けるというのは、「無関心」の対極だ。無関心で生きていけるほど社会も生活も安易で便利になりすぎている昨今だが、煩わしい人間関係だけが生きて行く唯一の障害なのか。他人に無関心を装い、人を風景のように見据え、双方向コミュニケーションを忌避する生き方を強いる人は、見方を変えると社会からそれらを強いられている。小林は小説を書けなくなったと言う。
「僕なんかが小説を書けなくなった、その根本理由は、人生観の形式を喪(うしな)ったということだったらしい。例えば恋愛をすると、滅茶々々になっちゃったんだよ。こんな滅茶々々な恋愛は小説にならねえから、あたしァ諦めたんだよ。諦めてね、もっとやさしい道を進んだ――のか何だか判らないけど、もっと抽象的な批評的な道を進んだのだよ。
抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果して劣るものかどうか。そういう実験にとりかかったんだよ」と自己弁護を述べている。小林のいう"人生観の形式"というのは分らぬでもないが、安吾のいう文学の多様性を小林は、"具体的描写言辞"と理解しているのだろうか。安吾は『日本文化私観』の中、「家に就いて」でこのようなことを書いている。
「叱る母、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると叱られてしまう。人は孤独で、誰に気がねの入らない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういうところから生まれてくるのだ、と僕は思っている。(中略) だから文学を信用することが出来なくなったら、人間を信用することが出来ないという考えでもいる。」
まるで小林に対する当て付けのようだが、これが書かれたのは小林との対談の6年も前。いかに毎日を遊びほうけて自由であるように見えても、人は自由にはなり得ないというところに安吾は立脚している。小林は、「人生観の形式を喪った」といいながら、実は形式から脱するのを欲したのではないか。小林とて人間が完全自由になりきれないくらいは知っている。
「所変われば品変わる」ように人が変われば見方も変わる。『小林秀雄の流儀』を著した山本七平は次のように言う。「小林秀雄という人がいた。二十余年前、その人の生き方の『秘伝』を盗もうとした。いや、盗んだと信じ、結局、その生き方を生きて来たと思えばもう十分である」。これは日本人に辛い山本が、日本人に与えた最大級の賛辞だろう。
続いて山本は、「人がもし、自分に関心あることにしか目を向けず、言いたいことしか言わず、書きたいことだけを書いて現実に生活していけたら、それはもっとも贅沢な生活者であろう。(中略) 私が小林秀雄に見たのはそれであった。そして私にとっての小林秀雄とは、耐えられぬほどの羨望の的であった」。小林への羨望は多くの著述家の共有の思いであろう。
山本は小林を自由とは言っていず、贅沢と表現した。言いたいことを言い、書きたいことを書き、それで生活していけたらの「生活」とは、「糧」という意味もある。まあ、糧を得なくても楽しいが、贅沢かどうかは分らないが心は豊かでいれる。『地獄の黙示録』の記事で述べた、カーツ大佐の最後の言葉、「恐怖だ、恐怖だ」は自由との引き換えの死への恐怖。毎日釣りだの酒だのゴルフだのと好きなことをして遊んで暮らしていけたところで、会社や家庭から解放されたところで、人は完全自由にはなれない。毎日遊んでいれば、遊びそのものに特殊性がなくなり、楽しくもなんともなくなるだろう。いつでも使える金がわんさかあっても、決して楽しくないように…。スーパーの特売チラシを眺める生活の楽しさもある。
苦があってこそ楽が価値をみる。死や疾病の恐怖があるから自由を感じる。楽とか自由ばかりなら、世界中が水になっただけだ。不老不死の薬なんか求めるものじゃない。いつまでたっても死なない人間ほど退屈なものはない。苦に感謝、辛さに感謝、寿命にもに感謝をと思うべきではないか。確かに死は嫌だが寿命は絶対的なもの。だから「死ぬまで生きよう」となる。
『世界人権宣言』の第一条に、「すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である」と書いている。が、これは嘘だ。自由でもなく、尊厳とも無縁に暮らしてる人は世界のあちこちにいる。今夜食べるものに窮する人もいる。だから不平をいうのか?不満をいうのか?本当に不自由な人は不満をいう言葉すら持たない人たちだ。
人が生まれながらにして不平等なは当たり前の事。運命にいちいち文句は言わぬ方がいい。運命の不平等に立ち向かう楽しさ、それを「美」と自身に言い聞かせたらいいのではないか。「美」は自分で選択可能な世界観だから、「醜」とて「美」に持っていける。物質的に満たされた幸福を「醜」、何も持たぬ気軽さを「美」とする事もできる。そういう自由は供与される。
「真」を見ることに臆病のまま、「美」を生きることはできない。「真」から顔を背けないで生きたらいい。できるか?できると思う。ただし、「真」への到達には勇気がかかせない。勇気とは完全でないにしろ自由な思考、拘束を廃する発想がいる。それを持てば可能だ。勇気は平和の敵となるのか?不倫をしたいが勇気がない。それは平和を壊すからだろう。
敵と見るならそうかもだが、それを壊さねば自由は得られない。自由は「制度」によって得られるものではない。本当に自由を望むなら結婚しなければいい。結婚した以上自由は制約を受けるのは道理であるが、禁止されれば反抗したくなるのも人間だ。自由の制約に甘んじる心掛けは立派なもので、それは自制心の強い人。多くの凡人はそれが出来ないようだ。
自由は我慢か、やるか、どちらかしかない。「やる」なら責任が発生し、罪と罰の関係となる。「儀礼的無関心」という用語は、同じ社会的状況に単に居合わせているだけの人々の間で行われる礼儀正しい振る舞いをいい、夫婦にだって存在する。もっとも夫婦が無関心になるのは仕方がない側面もある。映画『うなぎ』の妻は、夜釣り好きの夫に弁当を持たせるよい妻であった。
籍はいれたままで互いが自由な生活を楽しむ夫婦は、結婚が制度である以上それも夫婦である。個人の生き方の「美」は、秘かに、誰にいうでもなく、選ぶ事もできる。満喫もできる。周囲から見える自分も、見えない自分も、自分なのだから。「後は野となり山となる」という言葉はなかなかよい言葉。それを無責任と誰が言える?死んだ後のことを考えても仕方ないだろう。
安吾は「美に就いて」というエッセイで、「僕の仕事である文学が、美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識してなされた所から生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくさなければならぬ。(中略) それが真に必要ならば、必ずそこに真の美が生まれる。」
チャイコフスキーは自作の「交響曲第5番」を次のように嫌悪した。「この交響曲には大げさな色彩的装飾がある。聴衆が本能的に感ずるような不純と不誠実がある」。具体的にどこを指してのことか我々には分からないが、専門家の解説によると、演奏効果を狙ったオーケストレーションを指してのことではないかと推測されている。芸術は自然の模倣である。
安吾もチャイコフスキーも、「美」とは何かを表明している。「美」の定義はさまざまあるが、「真実以外に美はない」(ロダン)、「美しさと愚かさはしばしば相伴う」(フランスの諺)などと表されるが、極めつけはドストエフスキーの次なる言葉。「美…、それは実に恐ろしいもの。それが恐ろしいのは、それを規定することができないからである」。なるほど…、「美」とは恐ろしいものだと。