小中学校の国語、社会、理科、算数という正式教科に加えて「道徳」を教科に格上げする試案が、文部科学省の有識者会議でまとまり、2015年度導入を目指している。これまで道徳は正式な教科ではなく、週一回程度道徳の授業を行うことになっているが、決まった教科書はなく、現在は文部科学省が作成し配布している「心のノート」を活用している学校が多い。
なぜ教科化が言われるようになったのか、その裏には子どもの心の問題があった。いじめ対策、マナーや道徳を重視し遵守する気持ちをゆっくり育てるため提言された。さらに背景にあるのは、重大な少年犯罪が多発したこと。心の教育の重要性が注目されるようになっていた。子どもを叱れない、褒める事も苦手という親の家庭における教育力の低下も提言された。
したがって「道徳」教科化の重要性は、いじめ、犯罪だけでなく、教育は学校へ任せっきりという家庭の問題も絡んでいる。が、「道徳」教科には、一つの価値観の押し付けにつながることも危惧されている。さらに「道徳」を点数評価することは、目に見える行動を重視することになり、教員の前でだけいい子になるような、姑息な子どもにさせない配慮もいる。
さらには、教科になって週1回から週2~3回に増えたとしても、教員が何をどのように教えてよいのか分からなければ、成果があがるとは思えない。「道徳」教科化は教員の資質や道徳的指導力の問題を抜きに語れない。教員は教職という免許を授かった労働者であって、決して教育者ではないはず。そんな彼らが教科としての「道徳」を教えられるのか?
下村博文文部科学相は「国として、どこでも使える教材をつくる」と述べているが、これでは道徳教育は窮屈な型にはまるし、かえって矮小化する懸念がある。「道徳」を上から押しつけて、果たして本当の効果は得られるのだろうか?先進諸外国にあっても、道徳教育を教科として取り上げ、国家の主導で行われている国はほとんどない。なぜ、日本で?
道徳教育とは良心の関わる問題であり、国家が道徳を統制することへの警戒感がある。内藤朝雄・明治大准教授(社会学)は「皆との同調が強く求められる環境の改善なくしていじめはなくならない。むしろ、子どもの内面の善悪の評価をすることによって、『悪い』とされた子へのいじめが正当化されることにもなる」とみる。(朝日新聞11/12「道徳、教科に格上げ案」)
早稲田高等学院の会津八一は、「修身を教えられるのは神様か仏様たちだけである。欠点だらけの自分には修身などというものを教える資格はない。」と言った。いかにも明治男の気骨と自らを飾らぬ誠実さが読み取れる言葉だが、この言葉そのものこそ「修身(道徳)」である。人間の「徳」とは、己を飾らず、純粋な、ひたむきな、会津八一のような人ではないか。
教科には教材が必要だが、教材を上手く使える教師も、ぜんぜんダメな教師もいよう。人に何かを教えるのは人間の一つの能力だから、能力不足の教師がいるのは仕方がない。が、上手く教材を使えて、巧みに道徳を教える教師もいるはず。そこに期待してはいけないのだろうか?教えられたことから自己教育力を咲かせ、漲らせる子どもがいないとは言えない。ホラー映画を見て影響され、感化されるものもいよう。誘拐映画をヒントに子どもを誘拐した犯人もいた。道徳教科化反対意見の前に、カントの「道徳性の最高原理は何か」、「普遍的な道徳法則は存在するのか」を思考する。道徳とはあるものの「価値」である。ならば道徳法則は人の数だけありそうだが、カントは1つしかないとした。それが「理性」である。
「自由とは何か?」についてカントは説明する。我々は動物のように、喜びや満足や欲望を追い求め、苦痛を避けようするが、それは本当に自由に行動してはいないとカントは言う。なぜか、実際には私たちは欲望や衝動の奴隷として行動している。咽が渇いていた時に、自販機からコーラを選んだとする。それは自分の自由意志と思うだろうが、実はそうではない。
喉の渇きという欲望やCMによりつくられ、操作された欲望に従っているに過ぎない。決して自分の自由意思で選んだわけでもない、つくってもない支持に従っているのだ。我々はどのように行動すれば周りからの刺激や餓え、欲望、願望の支持に従うことなく、自分の意思を決定することができるのだろうか。それに対するカントの答えは以下のようである。
自由に行動することは自立的に行動することである。自立的行動とは自分自身で与えた法則に従って行動することであり、食べたり飲んだりする欲望、レストランで食べ物を選ぶ欲望といった、物理的な法則や原因と結果の法則に従うことではない。自立の反対は何か?他律である。他律的に行動する時、私たちは自ら選んだわけではない本能や欲望、傾向性に従っている。
自律性としての自由をカントは強く主張した。これがカントの考える自立としての自由であるなら、彼の自由と道徳性の概念のつながりが見えてくるが、まだ答えの出ていない問題は、「何が行動に道徳的価値があるのか」である。カントはこう考えた。行為の道徳的価値は動機で決まる。そして重要なのは、その人が"正しい行いを正しい理由ですること"である。
善意はその結果や成果のために良いものになるのではない。それ自体が良いものなのだ。最善の努力をもってしても、善意はそれ自身が全き価値を持つものとして宝石のように光り輝く。小中学生の教科としての道徳でカントは難しい。もし、"いじめ"をなくするために教科道徳の教科書に何が記されるべきなのか?その前に、いじめ自殺した子どもがいたとする。
自分が自由な立場で、誰と何を話したいかを考えた。いじめた加害少年?クラスの教師?学校長?クラスの級友?本人?(これは無理)、そのどれでもない。真っ先にいじめ自殺をした子どもの親と話したい。次いでいじめた子の親。「いじめられても死ぬな」とか、「いじめられたらやり返せ」とか、そんなことを道徳の教科書に書くことだけは何の意味もない。
なぜなら、いじめられる子、いじめる子、どちらも問題児であるからだ。つまり、いじめられる子は感受性が繊細、いじめる子は感受性が鈍感だから乱暴になる。どちらも同じ程度に心が傷ついて育ったんだろう。そういう根本的な問題を外して、教科書に上のことを記しても屁にもならない。では、誰が彼らを傷つけたんだ?言うまでもない彼らの親だと思う?
だから親と話したい。自由な立場と言うのは、このいじめ自殺を解決するとかではない。解決も何も死んだものは生き返らない。原因は双方の親が自分が子どもに施した教育・躾から理解したらいいこと。自分が親と話したいのは、もっとも事件の重要な加害者と被害者を作った張本人としてである。親の育て方が悪いとか、そんな唐突なことではないんだよ。
冷たくしたとか、勉強の出来・不出来を叱ったとか、親の何らかの原因を聞くではなく、子どもというのは育つ過程において、親との関係性の中で傷ついて行くものだから、親と話してみれば親の事が大体分る。子どもにとっては親は「宿命」である。太宰も三島も実母から引き離され、惨憺たる幼児期を送った。それが狂気と独創を生んだかは分らない。
しかし、現実的には狂気と独創を獲得し、刻苦学問をして素晴らしい芸術家になった。それで報われたか否かは、彼らにしか分らないが、彼らは「傷ついた子ども」のまま自らの命を絶ったように思える。いじめっ子、いじめられっ子の傷ついた心を他人の誰が何をいったところで効果はないだろう。彼らの親が自らの責任で腹を割って話し合い、傷を修復することだ。
死んだ子にはなすすべもないが、賠償請求もいいけど、どのように乳幼児期から接したかをつぶさに自問しながら手記でも書くべきである。神戸連続児童殺傷事件の加害者である酒鬼薔薇聖斗こと少年Aの親がいみじくも著した『少年A この子を生んで』のような、それが痛恨の手記であったとしても、いじめ被害者の親にも痛恨の何かが存在するのではないか?
少年Aの両親は、息子が逮捕された6月28日から3ヶ月近い9月18日に鑑別所に面会に訪れた。そこで父親が、「誰が何と言おうと、お前はお父さんとお母さんの子供やから、家族5人で頑張って行こうな」と声をかけたその時、「帰れ、ブタ野郎」の罵声が彼の口から飛んだ。「帰れーっ」、「会わないと言ったのに、何で来やがったんや」火が付いたように怒鳴り出した。
「そして、これまで一度として見せたこともない、すごい形相で私たちを睨みつけました。」、「ギョロッと目を剥いた、人間じゃないような顔と言うのでしょうか。あのような怒りを露わにし、興奮した息子を見るのはAを生んでから初めてのことでした。」と、このやり取りを文字で追うだけで、Aの親に対する鬱積が伝わってくる。以下も母の手記の要所。
・Aが母親である私の愛情に飢え、怖がっていたことは、あの子の口から鑑定人に語られていました。
・Aが小さい頃、私はあの子が弟を泣かしているのを見て、「泣いたらやめなさい」とお尻をぶっていました。週2、3回だったかもしれません。
・Aは、私がAを嫌っているから、叱ったと思っていたようでした。
・私の母、Aにとっておばあちゃんは、Aをよくおんぶしていました。
・母は腕の力が弱っていたので、いつも背負っていたと思います。
・私は肩凝り症だったので、Aをおんぶした記憶はあまりありませんでした。
・あの子が温もりを感じたのは、おばあちゃんの背中だけ。
親が子に「道徳心」を植付けようとしても上手く行かないのは、親は自分の敵だと思うからで、逆に味方だと思えばそれほど苦労はない。いじめに対する教師の無能ぶりはよく指摘されるが、いじめの当事者に教師が対処するためには、それこそ心して対処しなければダメだ。教師がいじめっ子を叱ったくらいで、何かをやったと思ってる教師はオメデタイ無知者である。
小学校高学年、もしくはそれより上の子どもが、教師に注意されたくらいで止めるはずがない。次なる手段は「センコーの分らぬようにやるぜ!」そういう楽しみが沸くだけだ。いい教師になろうとするな、いい親になろうとするな、最近はそういうことが大事なんだなという気がしてる。子どもに命を取られる親は、大概、いい親を自認しているのではないか?
親がどんなに自分を良く見せようと作ってみても、子どもは裏の顔、親の隠れた実態、自分勝手さ、傲慢さをちゃんと見抜いている。そんな親がアレコレとしたり顔で子どもに命令しても聞く気にもならないのでは?教師も同様だ。「いい先生に思われよう、生徒に好かれよう、いい授業をしよう」などと思う教師は、いい教師とはならない。それは何故か?
子どもは決していい教師、いい親などを求めていないのに、親や教師の幻想よ。子どもの求める親を意識する必要はないが、せめて子どもと同じ水平の目線で自らを見てみると、境界線が敷かれないのではないか?「ツマラナイ・タイクツ」な道徳の時間を「タノシク・オモシロク」するには、教材、題材よりも、「タノシク・オモシロイ・センセイ」であることに尽きる。
子どもは素直で正直な生き物。「ツマラナイ・タイクツ」なものは気持ちが逃げてだから退屈なのだが、「タノシク・オモシロイ」ことには目が輝く。親とて同じこと。小学生の頃、道徳の時間が大好きだった。理由は、つまらない国語や算数の時間に比べて、ただ騒げるというだけの理由。子どもはじっとしているのが如何に苦痛であったかが、分ろうというものだ。
だから、道徳の時間に何をやったかなど目くそほども覚えていない。国語も算数も社会も理科も覚えていない。ただ、小学一年生のときに、「力」という字を「ちから」と教わったが、「力道山の力(りき)」だとしつこく食い下がった事が語り草になっている。教師は自分を問題児としたが、問題視する以前に説得能力がなかったことの証明だろが、このボケ!
「力道山」の「力」が間違ってるんか?と、こういうやんちゃな子どもは教師に嫌われるが、教師の無能を棚に上げた、素直な「いい子」造りの犠牲者たちがきかん坊である。きかん坊とは、言うことをなかなか聞かない、勝ち気でわんぱくな子で、反語はおとなしい子か。おとなしいは大人らしい子から出た言葉。性質や態度などが穏やかで従順であつかい易い子。
さて、道徳の教科化が上手く機能するのだろうか?道徳をきちんと教えられる「道徳心」の希薄な教師なら大丈夫と思う。道徳心のないからこそ、理想の「道徳心」を掲げられるし、客観的に眺められる。読んで字のごとし「徳」への「道」だが、「道徳心」は希薄でも、変態教師は論外。人間に対する普遍的な「徳」というものを、教師が理解することが先ずは第一歩。
「徳」の理解は難しい。教えるのではなく、主体的に模索し、身につけるしかないものだから、教材は『日本むかし話』の「こぶとり爺さん」、「花咲か爺さん」、「傘地蔵」、「舌きりすずめ」を題材に、子どもに討議させたらよいが、「いい」とか「悪い」とか、「欲」だとか、「優しい」とかの言葉を簡単に出さないで、もっと味付けを教師が考えるべきだが、そんな教師いるか?