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「饗応心」

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「饗応文化」、「饗応の精神」というのはあるが、「饗応心」という語句はない。ないけれども「おもてなしの心」という意味での自分が作った造語として付け加える。「広辞苑」の載せろというのではない。♪もうい~くつね~る~と、お正月~の時節となった。近年はおせち料理も外注になったし、お正月におせちを味わうという事も若い人の間でなくなりつつある。
 
自分なども、お正月におせちを食べたい、食べなければ…、という意識は特にないし、正月から血のしたたるステーキだろうが、スパゲティだろうが何ら違和感はない。元来、決まったことに沿うのが好きではないから、押し付けられると「なぜ?」という疑問が沸くようだ。大概の人は、「風習だから」、「文化だから」と答えるが、さりとて納得を得る答えではない。
 
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外注のおせち料理の高いことといったら、ぼったくりもいいことだし、そこも気に食わない。なんやかんやと飾れば豪華に見えるが、特別美味しいわけでもないだろに。といえば、「おめでたいもので味は二の次」といいそうだ。そもそも年が明けるとなぜにめでたいのかがよく分らない。めでたい気分になどなったことがないが、「時節の挨拶だから」というのだろう。
 
理由も、理屈も分っている。新年がなぜめでたいのか?は、誕生日がなぜめでたいのか?と同じ理屈だ。病気もせず新たな年が迎えられたことを喜ぼうではないかと。お誕生日もそういうこと。ではでは、病気で寝込んでる人はそれでもめでたいのか?と突っ込まれると、「死なないで病気でいれることを喜ぼう」という答えを用意するしかあるまい。
 
現実には喪中ハガキもあるわけだ。正式には喪が明けるとは1周忌が終わるまでの期間をいうが、昨今は七十七日(49日)までは身内の祝事等は謹んでいる程度が多い。飲み会をしない、旅行等は慎むとか、必要以上に気にすることはないだろうが、こういう感覚も人によって違うもの。通夜とてしんみりより大騒ぎしてまえ~と言うのもあるわけだから。
 
死者は楽しいこと、大騒ぎが大好きだったという理由なら、それを死者が喜んでいるだろうと思えば充分理に敵っている。アレはダメ、こうでなければダメというのを"格式ばった"というが、老子がもっとも戒めている。仏滅に結婚式を挙げれば安いからと利用客も多い、友引の葬儀はよくないとかいうが日本だけの暦は、日本だけでしか通用しないのもローカルな話。
 
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気にしませんね~、自分は。そういった因習・風習は文化として守るべき価値のあるものもあるが、どうでもいい事もあるわけだし。キチンとまもるのが正しい行い、常識人とも思えない。守って悪いとはいわないが、守らなくて悪いともいわない。「守るのが良い」となると、必然的に「守らないのは悪い」となる。バージンロードをドレスと袴ではダメと言われた。
 
そんなのこっちの勝手だろ?「非バージンがバージンロードを歩いてはいけない」などと言わんだろ?どこの教会も…。厳格にやってたら、誰もバージンロードなど歩けないご時世だし。もっともカトリック教会では非バージン確定の再婚は、教会で挙式できない。理由?誓いの言葉にあるだろう。「死が二人を分かつまで愛を貫く」だから、神との契約違反になる。
 
よって、市役所で結婚式挙げる人が多い。もっともバージンロードなんてのは日本人が作った和製英語で、こんな言葉をいうのは日本人だけ。結婚式は新郎・新婦が自分たちの門出を祝って、友人・知人を招待するわけだから、ケチらないでもてなしをすべきもの。そうはいっても身の丈に合ったものでなければならない。それと招待客が「お呼ばれされる」は間違い。
 
イメージ 4「お呼ばれする」が正しい。なぜなら、「呼ばれる」という言葉自体が受身であり、その上さらに、「される」という受身言葉をつけるのは変である。ゆrに「お呼ばれする」で行きましょう。正月も誕生日も取り立てめでたいとは思わない(特に女性のアラサー、それ以上は深刻か?)が、結婚はめでたいことだ。挙式がめでたいのではなく、男と女が一緒になるそのことがめでたいこと。
 
理由は?人類の繁栄の証しだからだ。楽しむための「性」も大事だが、「生殖」の「性」なくして人類は存続できない。道理重視の自分は、結婚は大事であれ、結婚式になどに金銭かけるなと思ってしまうが、招待する以上はもてなしの気持ちが大事。お呼ばれといっても飲み食いだけではないが、挙式上の料理の味の良さは印象に残るものだ。見てくれだけで味がダメの処はある。
 
「饗応」で浮かぶのは、赤穂浪士討ち入りの要因となった、「勅使饗応役」。天皇の使者をもてなす大役を浅野長矩が任ぜられたが、指南役の吉良義央との確執が一大事件となった。12月14日の討ち入りは知っているが、江戸城松の廊下における刃傷沙汰は3月14日であった。長矩の切腹も同日3月14日であり、大名が即日切腹というのは、極めて異例であった。
 
次に浮かぶのは田中角栄元総理大臣在任中の偉業とされる「日中国交正常化」である。2年前の2012年9月29日は、日中国交正常化の40周年の年であったが、振り返ってみてアレはどうだったのか?国交正常化は、多くの問題が棚上げされて締結されたが、日本人の棚上げ論の小ズルさに比べて、中国人のいう棚上げ論はいかにもしたたかで戦略的である。
 
中国人は狡猾で、それがあの広大な国土を一つに束ねる源泉でもある。赤い国に赤子の手をひねるが如くあしらわれた「日中国交正常化」は、幻想から幻滅になった。当時、中ソ関係は冷え切っており、国境線沿いには両軍合わせて2百万の軍隊が睨みあっていたそういう時期にあって、経済面の立て直しには、是が非とも日本の協力が不可欠だと周恩来は見ていた。
 
日本との経済関係を強く切望した中国に、扇子片手に乗り込んだ田中角栄である。田中首相一行は9月25日に北京入りした。30度を超える暑い日であったが、迎賓館の部屋は暑がり田中の好きな17度に設定され、田中の第一声は「ああ、涼しくて助かる」だった。部屋の隅には田中の好物台湾バナナ、富有柿、木村屋のあんパンがさりげなく置いてあった。
 
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「これは大変な国に来たな」と首相側近は驚いた。中国人の好客精神(もてなし精神)には多くの逸話がある。「英国人は席を譲ることで争い、中国人は伝票をもって争う」というように、自分が驕るといってきかないのが中国人。日本では割り勘でそれぞれが自分の食べた分を払うことが多く、おごったり、おごられたりもあるが、中国ではほぼ毎回だれが驕る。
 
「割り勘」のことを中国では「AA制」というが、「AA制」の意味は、Aはアルファベットの最初の文字で、「最上位の人」の意。AAで最上位が2人いることを表し、この2人が対等であるため、支払いも対等に行うという意味から来ているといわれる。中国人にとってメンツが立たないのだろう。近年は中国でも学生を中心に「AA制」が増えているようだ。
 
『三国志』には、客人をもてなすために妻を殺して料理した話があるが、男は劉備を匿う猟師の劉安である。呂布に破れた劉備が曹操の下へ逃亡の最中、劉安に出会う。劉安はもてなしの肉料理をふるまったこところ、劉備から「何の肉か?」と尋ねられ、狼の肉と答えた。翌朝、劉備は厨房で腕の肉を切り取られた女性の死体を発見して驚き、劉安を問い詰めた。
 
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劉安は食べ物が無かった為、妻を殺してその肉を提供したと話した。劉備は悲しみにたえきれず涙を流したという。劉備は共にするからついて来いと誘ったが、劉安は年老いた母を残して御供するわけにはいかないと別れを告げた。後日、劉備が曹操に会ってその経緯を話すと、曹操は立派な行いと称え、孫乾を使者として劉安の元に使わせ、金百両を与えた。
 
この逸話は日本人に共感を得れないと、吉川英治は『三国志』執筆の際に「鉢木(はちのき)」を引き合いにしてこの話の解説をした。「鉢木」は能の演目で、佐野(現在の栃木県佐野市)に住む貧しい老武士、佐野源左衛門常世宅にある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、暖の薪がないからと大事にしていた鉢植えの木を切って焚いてもてなしをする。
 
栄華を誇った佐野源左衛門常世も、一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらば馬に鞭を打っていち早く鎌倉に駆け付け、命懸けで戦う所存であると常世は僧に語るのだった。その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だったことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える。
 
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名作「鉢木」は、鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしているが、作者は観阿弥・世阿弥作ともいわれるが不詳である。「武士道」を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた演目である。もてなしの心が大事なのは、食べ物の味は料理人の腕だけでは決して決まらないこと。もちろん、店の雰囲気や食器類、サービスにも左右される。
 
が、料理に込められたもてなしの心は伝わるものだ。素材や包丁捌き盛り付け、飾りつけ一切がもてなしの心として感じられる。人をもてなす料理といえども、人をもてなす本質はやはり人だろう。夫婦も恋人も相手をもてなす心に長けた人、そうでない人はいる。相手の心に土足で入り込もうとする人は論外である。「饗応心」とはなんであろうか?
 
心豊かな時間を過ごすことがもてなされる側の満足であるなら、それを提供するのが「饗応」の本質だろう。今どきの若い女性が求めてやまないもの、それはいうまでもない「素敵な出会い」だ。若い、若くないを問わないかもしれない。問題があるが、既婚、独身を問わないかもしれない。ネットのサイトには既婚者の相手募集がものすごい数にのぼっている。
 
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「素敵な出会い」とは何か?造語的にいえば "時感" ではないかと。時間ではなく時感。つまり充実した時間感覚、心豊かな時を過ごすというのが "時感" 。女性にとって素敵な男性との出会いほど魅了されるものはない。が、そこで大事なのは、その女性も相手に時感を与えてるかどうか。自分のみならず、相手にも心豊かな時間を過ごして欲しいと思っているか? 
 
求めるばかりが主体になり、与えることをおろそかにしていれば、それは当然にして求めるものにも反映する。イケメンで背が高くて優しくてお金持ちでかまってくれる人が素敵な人のイメージがあるが、そういう素敵な人は少女趣味的ではないのか?男から見る男の素敵は、「志を持っている」、「トキメキや意外性でサプライズ好き」、「流されない芯がある」
 
「胆力、行動力に裏打ちされた力強い言葉をもっている」ではないか。「いい人」なんて男は実際はつまらない。なぜなら、人の意見に抗うことなく、誰からも好意を持たれ、どこにでもあるようなマジメで無難な思考タイプは、一昔前なら良かったかも知れない。マジメで無難だけを提供してくれるのではつまらなそう。相手に積極的に関わろうとする意欲が大事。
 
いうまでもない「もてなしの心=饗応心」は、能動的である。決して受身ではないし、相手に心豊かな時間を過ごさせよう、楽しませようを体に染み込ませていることだ。「美人は眺めているだけでいい」というが、それは嘘だ。「美人は3日で飽きる」と、この言葉が物語っている。美人は自ら美しいのだから、何もしなくてもいいし、重宝されるし、需要がある。
 
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そうかもしれない。が、いかに美人といえども飽きたらそこらのブサイクと同じこと。相手を飽きさせない感受性は、男も女も大事なことだ。それを「饗応心」と言っていいだろう。特に男はナイーブではダメだ。ナイーブとは「お人好し」の訳だが、スラング的には「バカ」という意味で使われる。アメリカ人に「お前はナイーブだ」と言われたら、頭おかしいと言われたと自覚すべし。
 
日本が相も変わらず諸外国とナイーブ外交を続けているが、相手からみると「精神病」と見られているはず。いうまでもない、素敵な相手を見つけるためには、自らも素敵になること。見てくれや外見磨きにお金をかけるばかりではなく、「内面美人」を目指すことだ。中高生が、「ウチ、性格悪いよ」と言うのはいいが、アダルトエイジでそんなこと言ってるのはダメ。
 
悪いと思える性格(嘘つき、妬み、僻み、横着、悪口好きなど…)は、人間関係の致命的欠陥だから、努力して直すしかあるまい。まあ、誇るバカもいないだろうが。もてなしの心を大事にすれば、きっと相手に愛されるはず。但し、相手がワガママ、自己中でない場合に限るで、そうであるならしこたま利用されるだけ。自己中はダメ。自己中人間と共同生活などできるはずがない。
 
自分を変えるのは自分しかいない。欠点を改めるのもいいが、それほどの欠点でないなら長所を高めるほうがいい。欠点は改めたところで長所にまでは至らないし、それなら長所を伸ばせと…。子どもの苦手に躍起になる母親は多いが、遊び心満載の父親の感性は、「好きなことをやれ」と言いたいもの。「ゆとり教育」に批判は多いが、かつてないアスリートを生んだ。
 
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