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「自制心」

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「自制心」と幸せは強く結び付いていることが分かった。「自制心」で損をすることはなく、目標とそれに向けた準備のための時間管理に他ならない。米ミネソタ大学 Kathleen Vohs教授は、414人の中年の男女を対象に「自制心」の強弱をはかると共に、現在と過去における人生の満足感を問う調査をした。その結果、「自制心」の強い人ほど人生に満足していると判明した。
 
同教授によれば、「自制心」が即刻日々の満足を高めるとまでは言えないが、自分をコントロールすることで不要な争いや問題を避け、好ましくない状況に陥るのを事前に防いでいるそうだ。特に自身の目標達成を著しく阻害する行動に出るか否かというとき、いつも以上に強い「自制心」を発揮できる人が最後に笑うという結果になるのかもしれない。
 
なるほど、「自制心」が突出した能力であるようだ。アリストテレスのアクラシア論では、自制心の哲学的意味を知ることができる。「アクラシア(akrasia)」とは「自制心」がないこと。「自制心」がないとは、ある行為を悪いと知りながら欲望のままにそれをしてしまう性向で、ダイエット中に夜中にケーキを食べる、身体に悪いと知りながらタバコを止められない。
 
イメージ 2「自制心」を欠く行為が哲学的な問題になるのは、「合理的な行為者ならば、自分にとって悪いと知っていることを、自ら進んで行うことはありえない」という想定があるからで、「自制心」を欠く行為はこの想定と矛盾する。ゆえになぜそのような行為が存在するのかという問いに答えることが、合理性の観点から人間の行為を分析する哲学者にとっての課題となる。
 
アリストテレスは「自制心」を欠く行為がいかにしてなされるのかを説明している。その前に重要なのは、「悪いことと知っている」とか、「無知であった」とかを平然というが、「自制心」なき人は「悪いと知りつつ行う」と言うけれども、彼はいかなる意味で知っているのか。自制心なき人の行為が何らかの無知に陥っているなら、無知とはいかなる意味での無知なのか。
 
アリストテレスは、「知っている」や「無知である」という語の言語分析を通じて、「自制心」を欠く行為の現象解明を試みるアプローチである。行為には「知っていて行う」と「知らないで行う」場合がある。アリストテレスは「自制心」なき人を「性急な人」と「弱い人」の二種類に分けている。性急な人は、「すべきでない」という結論に至ることなく、欲望に従って行為する。
 
弱い人は行為に至る前の段階で、「何であれ健康に悪いものは味わうべきでない。しかるに、これは健康に悪い。それゆえ、これを味わうべきでない」と推論する。そしてその段階で、「私はこれを味わうべきでない。でも味わいたい」などと葛藤するが、快楽への欲望が心を占領し、最終的には「これは健康に悪い」という小前提に意識を向けることができなくなる。
 
その結果、「これを味わうべきでない」という結論さえも認識できなくなる。人の欲望はエンドレス。「欲のない人」も、結局欲のないこと、欲のない自己を欲している。人は欲望を燃やしエンドレスに生き、欲が消えればジ・エンドで死んでしまう。「欲」とは禁じられたことに対する反発である。イブもリンゴが欲しかったから食べたのではなく、禁じられていたから食べた。
 
つまり、我々は生まれながらに「禁断の果実好き」なのである。「自制心」のない人の性格的特長とはどんなものか?アリストテレスは「自制心」のない人を、「欲望のせいで理性的認識が一時的に曇ってしまう人」とした。確かにいわれてみるとそうでしかない。欲望によって理性が変動しない人が「自制心」のある人となる。では、「自制心」を鍛えることは可能か?
 
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「自制心」とは自我をコントロールする感情である。気持ちや欲望の赴くままに行動すれば、社会から排除される。それではマズイから人間は感情を抑制して日々を生きている。また、「自制心」は倫理観(モラル・道徳)上に成り立っており、抑制することで犯罪を防いでいる。とはいえ、「自制心」を完璧に保てる人間はいない。しかし、意識によって高める事は可能だ。
 
自制心の強さは先天的ではないはず。そういうものに遺伝的要素はないと考える。人間はモラルに関して「こうあるべき」という一定の水準はあっても、それ以上の部分においては個性が出る。近年、自制心や意思をコントロールする力には限りがあるとした自我消耗説が提唱された。人間はある1つの領域で無理をすると、別領域で自制心を発揮するリソースが減るという。
 
例えば厳しいダイエットをしたりの反動がリバウンド、仕事で難しい課題に何時間も取り組んだりする反動で、以前より酒やギャンブルに興じたり、いずれも自制心を失った結果である。問題を抱えて疲れた脳は自らが欲するものを、たとえそれが、いまどうしても必要なものでなくとも、拒絶することが難しくなるのだ。感情的に不機嫌になるのもこれと同じだと言う。
 
不機嫌と自制心の関係は研究によって指摘されている。ダイエット中の人は概して「怒りっぽく攻撃的」になる(いわゆる「不機嫌なダイエッター」効果)。自分では機嫌よく、礼儀正しくあろうとするが、そのようなポジティブな気分でいることは認知作業を必要とするため、脳は疲れて対処できない。怒りの言葉を飲み込むだけの意志力が足りず、癇癪を起こす。
 
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ノースウェスタン大学の心理学者David Gal氏とWendy Liu氏は、一連の実験結果で、「自制心」の発揮は怒りの抑制を困難にするだけでなく、怒りをテーマにした映画を観たり、怒りに関連する情報について考えたり、怒りの表情を見たりすることへの関心を高めることを示した。即ち、自制的な行動は自我を消耗させるだけでなく、自我を不機嫌にする効果さえあったと考えられる。
 
自分と同年代の大手銀行の支店長が、博多に転勤になり単身を始めた。企業接待などで博多の夜の街に出向く事もしばしばで、九州女の色目使いに何度も腰砕けにを起こすころ寸前で、それでも「自制心」を働かせてよろけないよう頑張ったという。お堅い銀行マンは教育関係者と同様、高い自制心を要求される職業である。長年の職業で培った自尊心も立派なものである。
 
発作的な欲求に対する自制心を鍛えるにはどうすればいいか?自分が良くやるのは、"なびく自分を徹底的に見下げ、蔑み、バカにする"方法だ。「たかが目先の利にガツガツする程度の卑しき人間か、お前は!」と自分を叱咤、あるいは愛想をつかす。他人にこの方法が効果があるか否かは分らないが、自分にはこれが最適だ。「バカかお前は!」の内なる声は結構厳しい。
 
自分を愛すればこその言葉である。自己卑下の甚だしい人間にはダメだろう。自分を愛するならばこそ、自己向上に勤しみたい。「自制心」が弱い人間は自己向上心も弱いし、自分を甘やかせるし、都合のよいように自分をリードしているのだろうから、自分に対する理想も理念もあったものではない。特筆すべくは、「自制心」が高い方が恋愛が上手く行くという。
 
 
「恋は盲目」とは、相手にのめり込み過ぎて周囲が見えなくなってしまうこと。嫉妬、ストーカー、束縛、妬みなどの感情から行動に移ってしまい、相手にも周囲にも迷惑をかけることがある。こういう状況で恋愛は上手く行くはずがない。何故、盲目になってしまうかといえば、「自制心」を失ってしまっているからだ。あまりにも感情を抑制しすぎては恋も恋でなくなってしまう。
 
衝動も大事、抑制も大事。これは自分にだけのみに限らず、相手の衝動や、無理な要求を抑制させるのも男の知性であろう。教師が、警官が、医師が、弁護士が、政治家が、公務員が、人からものを頼まれたりの立場にある人、人を教育したり、人を取り締まったりそういった高い自制心を要求される士業などの人が、自制心の微塵もない行為をするのは残念である。
 
ちなみに、「お前はどうなんだ?自制心はあるのか?」と問われると、「ない!」としか言いようがない。「ない」は自信を持って言える。だから必要な場合、要求される場合は、「自制心」を発露させるよう頑張るしかない。ある人は楽だろうし、困らないが、ない者は試練である。「ない」けれども「ない」通らぬない社会であり、「ない」で済ませられない社会である。
 
過去、様々な局面で「自制心」のなさから迷惑をかけた。責任を取ることも取らされる事もあった。公にならない事もあった。「自制心」など邪魔で無用だからそのようになる。人間は「魅力」や「欲望」に屈しやすいが、いつまでもそうばかりではないし、年齢制限もある。「魅力」に溺れ、「欲望」に負けそうになると、「お前はいい年こいて何やってるんだ?」の声がかかる。
 
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人は晩年の節操が自然と身につく。そのためには若い頃には無節操であるべきかも。晩節を汚す人は、若い頃に真面目で保守的で堅物でハメを外さず、教科書どおりに生きて来た人が多いのかも知れない。そういう人がひと年取ってハメを外したくなるのも分る気がする。一度の人生だ、外すのも良かろうが、若い時もハチャメチャ、年取ってもハチャメチャ。
 
そういう人も居るかもしれぬが、それはもう病気の世界で、自己治癒力がないなら仕方あるまい。死ぬまでやり続けるしかないだろう。「トゥナイト」という番組で山本晋也が流行らせた「ほとんどビョーキ!」という言葉。その山本も、1990年に、厚生省「エイズ撲滅広報委員」に就任後、「人間一滴」や近年は真面目路線に活路を見出している。これも彼の晩節か?
 
その山本晋也には裏の顔がある。当時芸能界で喧嘩No1といわれていた彼には次のエピソードがある。横山やすしとテレビ出演したとき、山本監督(山本晋也の俗称)が、収録中にタバコを吸っているのを見たタバコ嫌いのやすしが、「ワシはタバコが嫌いだからタバコ吸うのをやめてくれ」と言った。それを聞いた山本監督は平然ともう一本タバコに火をつけた。
 
番組収録後に激怒したやすしは山本監督をトイレに呼び出し、「何で吸ったんや?」みたいに山本監督を問い詰めた。山本監督はタバコが吸いたいから吸って何が悪い、止める理由はないと話は平行線。そのうちしつこいやすしにキレた山本監督は、「喧嘩で話をつけよう、表に出ろ!」と息巻き、上着を脱ぎ、シャツの腕をまくりあげた。これにはやすしが折れたという。
 
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山本監督は日大の応援団時代、ケンカ番長として君臨。得意技は頭突きと木刀。キックボクサーの沢村忠が「あの人は本当に怖かった」と言っていた。学生時代からよく喧嘩していたというし、その雰囲気で横山やすしが折れたらしい。まあ、雰囲気と度胸は伝わるもの。一見威勢のいいやすしだが、アレはポーズの一面が大きい。キレるとYOSHIKIもなかなからしい。
 
一発で布袋寅泰をK.Oさせたという。GACKTもNHKの企画でマダガスカルロケに行った際、現地レスリングのコーチを失神させている。喧嘩は「自制心」で押さえる場合もあるが、喧嘩好きの真骨頂は相手に先に手を出させ、水を得た魚のごとボコボコに叩きのめす。しかし、現実的にそんな悠長なことを言ってられない場合が多く、喧嘩は先手必勝が王道である。
 
己の不動の自制心を楽しむのもオモシロイ。必死に説得するセールスマンがどれだけ優秀な説得術や話術を持っているかを楽しんだり、色目使いや思わせぶりで仕掛けてくる女に対し、揺るがぬ自制心を楽しんだりと、なかなか落ちない自分にさすがのセールスマンも女も、いささか立腹気味が見えたり、そういう奴は気の毒だが人を口説く能力は並だ。
 
イメージ 7相手が落ちぬは自分が無能なのに相手に腹を立てるなど滑稽千万。能力不足というのは人格も含めてであり、話術以前に自身の人格の欠陥を治すことだ。営業力も口説き術も人格も含めたトータルな能力だから、口先だけの優秀なセールスマンは存在しない。女が男を口説くのは言葉というより、ネコ撫で声のモモイロ作戦や滲み出る色香、雰囲気などがモノをいう。
男が女を口説くのは話術の部分が大きい。下手な話術に母性本能を刺激されるという女もいるし、面白い・楽しい話術を好む女もいたりと、人さまざまでバラエティーに富んでいるからして、男にはさまざまな引き出しがある方がよい。自制は禁欲にあらず、より「賢いもの」選択するよう自分をモチベートするのが「自制心」。
 
自制の欠けた追求心は失敗の要因となる。ならば、そうならないためのシンプルな防御手段は、上に挙げたような「自制心」を持ち、「より少なく」を追求することだ。ドイツ出身の建築家ミース・ファン・デル・ローエの「Less is more.(より少ないことは、より豊かなこと)」は、さまざまなところで生きている。
 
 

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