「遊び心」とも言う。近年の若者は「遊び」という言葉をどのように捉えているのだろうか?自分たちの若い頃は、いささか禁句的な意味合いもあり、あまり好んで使ったり口にしたりはしなかった。「遊び人」とか、「遊び目的」の男女関係とか、ネガティブな意味に使われた。「遊び人間」⇔「真面目人間」、「遊び」⇔「本気」という対義語がそれを物語っている。
次の相談、これが今どきの中学生。「遊び人に遊ばれた挙句、捨てられた…助けてください!私は今中2だけど、1年くらい前に高校2年生のTに会いました。最初はすっごくいい人で、顔がとにかくかっこいいので好きになりました。そしてカラオケに誘われSEXしました。私は嫌でしたけどTのことが好きだったんで大丈夫だと思いました。でも、全然大丈夫ではありませんでした。
それ以降、Tは凄く私に冷たくなりました。話は最低限の会話しかしないし、電話してもメールしてもシカトされます。Tは他にも女が居るのを知りました。よく会っているようです。彼をどう思いますか?これって彼に遊ばれたんでしょうか? 今後彼にどんな顔をして会えばいいんでしょうか? 誰か2つの質問について教えてください!お願いします!!」
中2女子のこういう相談に、何をどう答えればいい?SEXの事はともかく、付き合った、別れたは世の常、人の常。後始末も、後片付けもできない少女がこういう出会いで苦しんで、それを誰が助けられる?自分で始末できないなら、チャンと出来るようになるまで男は早いね。女の子同士で一緒に遊んだり、楽しく仲良くする年頃じゃないのか?としか言いようがない。
遊ばれたと分ったところで、それでどうなる?人に何を助けて欲しいんだ?「相手にふられ、捨てられることも含めた恋の終わりを自分で処理し、解決できない奴は、男なんか10年早いよ。欲しいなら、以上の事をすべて自分で解決するんだな」としか言いようがない。「遊び人を避けろ」、「もっといい相手を見つけて」と回答するのは簡単だが、いい相手が事前に分かるか?
優しくてイケメンだから好きになった。好きになったから体を与えた。与えたら冷たくなった。他にも女が居るのが分った。こういうのを「悪い男」、「遊び人男」と言ってもいいが、だからといって、その後の対処が出来ないわけだ。最初は優しかったのに…本当は違った。だから、問題は違ったと分ったとき、遊び人と分った時、何もできない未熟者なのだよ。
だから男は早いと言ってるんだよ。この時期の男は「やる」ことしか頭にないサルみたいなものだし、そうではない男もいるが、すべては女の対応にかかっている。この少女は自分に責任がないと思ってるが、振り払えない責任は大きい。自分で撒いた責任は自分でしか取れない。それができないなら男は止めろ。以外に答えはないし、さらにいうなら、人に答えを求めるんじゃない。
自分のやったことを他人が考えるのは無理なんだよ。20代の女でも30代、40代でも恋の悩み、男の悩みはいろいろあるが、目の前の相手が行ってることがすべてだ。自分の目の前で起こってることを遠くの他人に話して何を解決できる?愚痴をいうなら分らなくもないし、それはいいけれども、愚痴は女に言った方がいい。男の脳には愚痴を聞くスペースがない。
自己アピールで、「よければ愚痴でも何でも聞きますよ」と女に発信する男がいるが、それって優しい男なんか?気色悪いとしか思えないし、そういうことでしか自己アピールはないんか?と思ってしまう。いわゆるオカマ系ではないのか?「悪いが愚痴なら他に言ってくれ」と自分は言う。何かを解決するための知恵、アイデアを求めるなら真剣になるけれども。
女は「いい人」を求める。そりゃ~男も「いい女」を求めるだろう。が、「いい人」が何かというのも個々で違うが、女の愚痴を相槌打ちながら聞いてる男のどこがいい男?である。愚痴を聞いてくれない夫に不満をいう妻がいるが、とんでもない。解決する気もない愚痴など土台男には無理なんだよ。自分で消化できるなら大人だが、できないなら聞き役を探せ。
「あなたって妻の愚痴を聞く度量もないのね」と、こういうことを言う女はまずもって自己中。口の悪い女は、女の中でも最低ランク。男の気質を理解していないか、あるいは理解していても言わずにいれない性根の悪さか、例えば風邪をひくと「体弱いね」、髪が薄い人を「禿げ」だとか、とにかく他人の弱点をあげつらう、口の悪い、うるさい喋くり女はいるよ。
そういう女には近づかないようにしている。自分のことを棚にあげ、男も家事をしろ、掃除をしろ、外食がいい…。世の男は結婚後も妥協しているのだろうが、「自分にはこの女しかいない」と何の妥協もせず、不満もないような女を見つけるまでは結婚すべきでないし、それをしなかったなら文句をいうな。だいたい、「家事はできないが容姿がいい」など妥協はすぐに壊れる。
当たり前だろ?顔もスタイルも10年経ったら劣化する。逆に「容姿はダメだが、家事もできるし、節約も上手い。結婚には最適」と言ってるやつが、巷の美人にコロっと騙されたりする。「あなたは男らしい、私も女らしくありたい」と、こういう分別をわきまえた人間を理想とすべし。当たり前の分別だが、近年はこういうことを「理想」とすべきほどに不作なんだろうか?
100年の不作というのは、自分だけではない、子の代、孫の代まで悪妻の禍は続くという。男の領分、女の分別をしかとわきまえて、よい家庭を子の代、孫の代まで続たいものではないか。昔、中高生の恋愛ゴッコを大人は、「子どもの火遊び」と見下した。イッチョ前に体の発育はあれど、中身は子どもだから燃えれば火傷をする。今も同じで、子どもは火傷するもの。
子どもの火傷を防ぐ手段はない。大人女は遊ばれ捨てられても、自分も遊んだということで相手のせいにしない。すべてを自分の幼稚さ、至らなさにしておくほうが賢くなれる。同じ過ちを何度も繰り返し、「私はバカだから」と言っておくのは構わんが、賢くなりたいなら自分を改良すること。男に望まれ、求められ、喜ばれて自分が満たされるなら、バカでいるしかない。
「主体性などまるでない無害のバカ」が男の餌食になるのは分りきったこと。男は愚鈍で口下手で、そういう男を女は追いかける。何故か?それは氷のように冷えた男を追いかけているのではなく、優しく温かい男が、冷たさを演じているのを本能的に見抜いている部分もある。男は冷たさを演じるところがある。ちゃらちゃらした男は大体インチキ、真実などない。
男の理想を掲げる男もいる。高倉健という人は、お喋り好きでお茶目でイタズラ好きで、子ども心の充満した人であった。彼は自分の役柄イメージを大事にしたプロの俳優であった。松方弘樹も、梅宮辰夫も、丹波哲郎も、高橋英樹も、テレビ出演をすることで自らの虚像を取っ払った。いや、取っ払うしかない、それがテレビなのだ。だからテレビに出ないスターは虚像を守れた。
テレビというのは、談笑アリ、問質アリだから、銀幕のイメージを守ってなどいられない。高倉健は、本来の自分とは相容れないアウトローになりきるために、撮影期間中は、現実の社会から自らを遮断した。対談やインタビューでは「サービス精神」旺盛で、下ネタOK!であった。71年に江利チエミと離婚後はずっと独身を通し、自宅は世田谷区内にあったらしい。
冠婚葬祭の一切に顔を出さないのも徹底し、そういう隠遁生活が実は虚像であれ、彼には孤独が似合っていた。「遊興心」とは無縁で、酒も飲まずギャンブルもやらない高倉、先輩片岡千恵蔵に、「麻雀ができないでなんで良い役者になれるか、健坊」と幾度もたしなめられたという。ホモではないかとの噂に、「女好きの自分をつかまえてホモとは可笑しな話」と否定した。
芸能人のゲイ能人疑惑といえば、平井堅、福山雅治、織田裕二、宮本亜門、氷川きよし、槇原敬之、竹野内豊、前田健、藤原竜也、速水もこみち、赤西仁、ジャニー喜多川らの名が常連だ。男になくてならない遊びと言えば、「飲む、打つ、買う」だが、「買う」=「女遊び」も、「男遊び」の場合もあるということ。ソクラテスもダ・ビンチもゲイであった。
「女遊び」と言う言葉は「女道楽」といい、女性と戯れること、女との色事に耽り遊ぶことなどを意味する。男が「女遊び」をするなら女は遊ばれるだけ?と言う事は実際ないと思っている。それは同時に女の「男遊び」でもある。二人がテニスをすれば二人が遊んでいる。というように、二人が何かをするなら「遊ぶ」のは二人では?一方的に「遊ばれた」とは被害妄想、女のズルさである。
女をやったことがないからよくわからんが、「男に遊ばれた」とはどういう状態を言っている?男女が恋愛して結婚しないで別れたら「遊ばれた」のか?その辺がよく分らない。同じ時間を共有するのだから男が遊んだなら女も遊んだことになるが、以前は肉体関係がないなら、「遊ばれた」といわなかったし、一般的には体の関係を持った後に捨てられるを意味するようだ。
「捨てる」というより、「気が変わった」、「飽きた」で別れるんだよ。昔のような、結婚を確約する男にしか体を与えない女ならともかく、すぐにやらせて「捨てられた」はないだろ。外国人女性は「捨てられた」など言わない。あくまで「lost love」。「捨てられた」という表現は、自己責任などまるでないセンチメンタリストの都合のいい言葉。「捨て子」じゃないんだし。
もっとも最近は女が男を「やり捨てる」のが多いらしい。この現象について恋愛コラムニストの佐藤玲美と官能小説家の大泉りかの二女性は、「男が女の変化に追いつけていない」というのが共通の見方を示す。具体的にどういうことかといえば、「『女は性欲だけのSEXはしない』、『女は恋愛が大好き』などの固定観念を持っている男が多く、そもそも間違っている。」
と大泉氏は言う。今やそれは男の思い込みで、SEXをして付き合うかどうかを判断する女が増えており、それで『ヤリ捨てられた』と傷つく男が生まれている。これは「女遊び」に対比した、「男遊び」と言える。「ヤリ捨て女」は、「自分を救い出してくれる王子様のような男を待っていて、 自分を好きと言う程度の男は自分にふさわしくないとヤリ捨てる。」と佐藤氏。
そしてこのように締めくくる。「そんなヤリ捨て女の被害に遭いやすいのはどういう男なのか。1回ヤッたら2回目も当然あると思い上がって、ガツガツ行きすぎるような男」だとさ。「へ~」という時代である。行為が事実なら、「SEXが下手だからあなたなんかに用はないわ」ということだ。口に出していうならば。オモシロイ時代になったものだ。
それなら男が女に向かって、「SEXしたが、お前とは合わないんでアバヨ!」と言ってもいい時代になったということだな。対等というのはそういうこと。こんなこと言われたら「ひっどーい男」というだろうが、女に言われた男は自信喪失して女恐怖症か?てなことにならぬよう、「バカやろー、お前みたいな淫乱メスブタなんか、金もらったってお断りだ!」くらいに思った方がいい。
まあ、お互い別れるときに、こんな言葉は言い合わぬ方がいいよ。男は女の気持ちを慮って口を閉ざす場合が多いが、思慮ない女は言いたい放題、好き勝手を言うのがいるからな。女の一言で自信を失う脆弱ぼっちゃまが多いのは、嘆かわしい。男の子を大事に育て過ぎる。確かに人を平気で傷つける悪態女が増えるなら、それに負けぬよう、男は家庭で逞しく育てられるべき。
女も「男遊び」をするようになったなら、「女遊び」が好きな男にとって、益々「女遊び」が活発になろう。して、最後はどちらがフルのかという競争か?オモシロイ時代になったものだ。女が大人しくして男に見初められるのをじっと待つ時代は遠い過去。大地に根を張り、蝶々が来るのを今や遅しと待っていた女が、蝶々を求めてうそうそ歩き回る時代になった。
女も「男遊び」をするようになったなら、「女遊び」が好きな男にとって、益々「女遊び」が活発になろう。して、最後はどちらがフルのかという競争か?オモシロイ時代になったものだ。女が大人しくして男に見初められるのをじっと待つ時代は遠い過去。大地に根を張り、蝶々が来るのを今や遅しと待っていた女が、蝶々を求めてうそうそ歩き回る時代になった。
女が出しゃばれば男は引っ込むしかなかろう。今や男は受け身に成り下がったか。その方が好都合と言う男もいよう。ならば、尻に敷かれて余生を送れ。これを逆転というなかれ、男がこのように、女がこのように育った時代の適合だ。逆転と見るのは、男が逞しく、女がしおらしく育った時代の先人の目。今、そして今後も、この流れは止まりそうもない。
昔はどの家庭でも正月前に餅をついた。子どものころに、威勢よく父や祖父が餅をつき、母や祖母が手をそえる光景を尻目に、早く大人になって餅をつきたいと思ったものだ。男が花形主役の餅つきは、今は機械でつく。あるいはスーパーで「サトウの切り餅」で間に合わせる。男が男であった時代、女が女であった時代、そんな「夫唱婦随」の時代に思いを馳せる。
高倉健を男の範、八千草薫を女の範とした時代に時計を巻き戻す事はできない。「人は自らの時代を生きる」し、自分は今、「若者の時代を生きている」。新たな時代に真面目(しんめんもく)を発揮することはできないが、水戸光圀的「御意見番」の心境である。価値観の不確実な時代にあって、若者は暴走なのか冬眠なのか、判断おぼつかない昨今である。
男はなぜか清楚な女に憧れる。行動派女に憧れる男は主体性のない、女を口説くのが苦手だから、積極的な女が有り難いだけの話。女の価値を知り、女を口説ける女は清楚な女を落とそうとする。これがなにより男の満足度が高い。確かに清楚な女の利点は清潔感に現れる。言葉が粗野でない、白い下着が似合う、貞操観念がしっかりしている。
清楚な女は清楚を自覚し、だから清楚に振舞う。自然な清楚もあるが、意図した清楚も身になって行く。セクシーな女と清楚な女と男の好みは分かれるが、セクシーでも上品なら問題ない。下品な女はすぐに飽きられてしまう。座ったときに自然と脚をそろえていたりなどの上品な行動は男にはないだけに、強い異性意識を感じさせてくれる。そして、何よりナチュラルメイク。
成長と劣化の早い女に男は、「人身御供」を求めるのではないだろうか。「人身御供」的献身、そういう女の悲哀性に男は「守ってやりたい!」の強い保護意識を抱くのだろう。が、女が強いと男は甘える実は弱い生き物なのだ。男を強くいさせるために、女は「人身御供」であるべきか。