人は死の直前、感謝や安らかな言葉を置くというのはたくさん耳にしたが、親不幸ながら父親の臨終に立ち会えなかった自分である。父は死ぬ間際に紙と鉛筆を所望したが、震える手で何も書けないままで生き絶えたという。何かを書き残すならもう少し時間的な余裕がある時にと思うが、最後の最後、土壇場まで自分の死を確定していなかったのかも知れない。
人は、いよいよ最後と悟った時までは生への渇望があるのだろう。もうダメだ、本当に死んでしまうというまでは死を意識しなかった父の気持ちが分かる。で、最後の一声ならぬ、最後の一筆が何であったかは分らぬままだった。「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪花の事は夢のまた夢」は、おそらく事前に作られていたはず。辞世などとはムシの息にあっては書けない。
彼の者の眼前を『生の世界』と呼び、
彼の者の背後を『死の世界』と呼ぶ!
人の生と死を分かつものは何なのか?そこに一筋の光は射すのだろうか?人が、父が、死を実感としたときの諦観…、いつしか自分もその思いを味わうときが来る。意識を喪失したまま旅立つ人もいるが、許されるなら、実感としての死を意識の中で味わいたい。父がそうであったように、意識はやがて遠のき、しばらくの後に脈は止まる。して医師が死亡時刻を告げる。
「何時何分、永眠」。これが人の最後の履歴となる。殺伐としたものだが、物の終わりは静である。その後は何処に行くとも、行かずとも死者のみが知る。死後の世界は死者があらわしたものではなく生者の想像である。人が死を体験できない以上表すことはできない世界である。世界とはいっても何もないかも知れない。意識が止まった以後を人は表現できないだろう。
臨死体験者の言葉は科学的に不思議としか言いようがない。脳の大部分が機能停止状態と観測されていたのにも関わらず、死後の世界を見たというは、科学では「脳の幻覚」として扱っていた。科学とはそういうものである。科学的思考を進める上で重要なのは、推測をつぶさに調べたものを評価すること。論理は明晰かつ完全であらねばならず、事実は証明可能であらねばならない。ただ口だけで、「STAP細胞はあります」などとふやけたことをいう人間を科学者とは言わない。なぜなら、既成事実というのもは説明されなければならず、一切の結論は証拠から導かれなければならないし、よって科学的思考は実験によって確認されるものであろう。自らがたてた仮説を自らが論破に努め、仮説がそのことに耐え得るかどうかを実験で確かめるのだ。
子どもがハエの羽をむしりとるのを止めるのは大概母親である。「そんなことするものではありません」と。子どもが生まれながらにして実験家であるのを知らない大人は、単に腕白な行為としかみない。家にあった先祖ゆかりの大時計をバラバラにしてしまえば怒るしかない。もし、大人が純粋に子どもの視点に立ち、それをしない子の方をお利口さんと評価するのか。
大人は子どもの何が"やんちゃ"で、何が"いけない"行為であるかをあまりに知りすぎている。真面目で常識的な大人ほどその量は多い。だから、子どもの本質的な正直さに気づかない。正直さと同じ加減で子どもに同居する空想力というものがある。空想とはしばしば真実を曲げるし、誇大にするし、つくり話さえするが、これらは子どもの正常な発達である。
我々は子どものそういう小説的能力、芸術家的能力、役者的能力に理解と共感を持って接しなければならない。子どもを大人の感性で判断する大人よりも、子ども心を所有した大人とでは、子どもの感受性の高まりがまるで違う。クソ真面目な親にはクソ真面目な言葉しかでてこないが、クソ真面目な親はそれが正しいと思っていることが、子どもにとって悲劇である。
お母さんは怒るけど、お父さんは怒らないことが、イタズラの原点だ。子どもに怒る妻を「いいじゃないか、それくらいのこと」とたしなめても分らない女は多い。分らないのに口を出す。となればこの際、「うるさい、黙っていろ!」という言葉を男は用意するしかあるまい。「あれはいけない」、「これもいけない」、「だめだめ、あぶない」などの母親用語。
男の子が腑抜けになったのは、母親の力が父親を圧したからではないか。幼稚園、保育園、初頭教育課程に見る教諭、保母、保父の男女比は圧倒的に女性が多い。女が男を作るのか?男は我が子を逞しく育てたいからリスクを負わせようとするが、女にそれはない。「何で子どもにそんな危険なことをさせるの?」、「オレのやることに口出しするな!」と言える父が少なくなった。
母親は子どもを「守る」において間違ってはないが、父親はリスクを怖れぬ「攻める」子育てをする。当座の責任(リスク)は父親の方に発生するが、自分の場合は妻の理解もあってか、「口出しするな!」の言葉を発することなく、理念に沿った子育てをやれた。ハラハラ、ドキドキを抑えて夫の信念に委ねた妻も、今となってはそれでよかったと思っているだろう。
リスクを犯させる勇気から得る達成感や自信、それをしないで強い心が育めるはずがないし、それをできるのが父親なのよ。脆弱な男の子を見るだけで、その家の父親不在感が伝わってくる。のっけの、臨終における最後の言葉で、最も強烈だったのは、「恐怖だ。恐怖だ…」と言う言葉を置いて死んでいったカーツ大佐だろう。と言っても映画での話である。
カーツ大佐はベトナム戦争に派兵された後、狂人となりベトナム奥地に帝国を作りあげた元特殊部隊所属の優秀な軍人である。狂気に走るカーツを暗殺せよとの命を受けたウィラード大尉はカーツの元に向かう。「恐怖」と「狂気」が交差する人間の本能、無秩序を生み出す人間の本能的衝動、そういう理性の崩壊を追体験するウィラードの恐怖と狂気の旅である。
映画のタイトルは『地獄の黙示録』。戦争の狂気はしばしば映画に表現されるが、戦争の狂気をわざわざ映画で教える必要があるのだろうか。あるとするなら、我々はそこから何を学ぶべきなのか?恐怖や狂気の臨場体験から得るものは人によって様々だろう。カーツの元へ辿り着いたウィラードは、彼の口から殺戮は人間の本能的衝動だと聞かされる。
なるほど…。 戦争が"狂気"を生み出すのでは無く、人間の持つ"恐怖心"こそが狂気まかり通る無秩序な世界を作り上げるのだと映画は教えている。ウィラードは、狂気を生み出す根源が恐怖心であるのを悟る。しかし、一方で"恐怖心"は、秩序と道徳に満ちた世界を創造するにも必要不可欠である。長所は短所であり、短所は長所であるように、ネガもポジとなる。
善も悪となるし、悪はまた善に帰す。恐怖心は人を怖気させるだけではなく、狂人のような強さを醸すものでもある。こういう人間の複雑さをどうして理解できるのだろう。コッポラは戦争を通して人間の「恐怖心」と、そこから派生する「狂気性」を表現したが、これまでに精神異常をきたした多くの人には、想像を絶するショックや恐怖体験があったと推察する。
カーツ大佐が死ぬ直前に発した「The horror. The horror.(恐怖だ、恐怖だ)」は、戸田奈津子によって、「恐怖だ、地獄の恐怖だ」と訳されている。ここのセリフは、「狂気だ、狂気だ」の方が相応しいのでは?の意見もあるが自分はそうは思わない。なぜなら、カーツは狂人の域に達している。狂人が狂人を自覚するだろうか?だから「狂気」は相応しくない。
彼を狂気に誘った要因が恐怖であるなら、ここのセリフは「恐怖」が相応しい。立花隆は自著『解読『地獄の黙示録』」の中で歌われるThe doorsの「The end」についてこう評す。「ジ・エンド」は11分以上もの長い曲で、映画では冒頭と後半のクライマックスであるカーツ殺しのシーンにかぶさる。歌詞は字幕に出ないが、Come on baby, take a chance with us.
というリフレインになっている。コッポラはこの音楽を使うことによって、観客のカーツ殺しへの参加を挑発しているのである。それが見事に劇的効果をあげているのは、この歌が父親殺しと母親との姦淫願望を歌った歌だからである。このくだりの少し前に「殺人者は夜明け前に目を覚まし、ブーツを履き、古代の仮面をかぶり.....」と歌いだされ、やがて…
And he came to a door
And he looked inside
“Father” Yes, son?”
“I want to kill you. Mother, I want to ..... ”
And he looked inside
“Father” Yes, son?”
“I want to kill you. Mother, I want to ..... ”
と、物議をかもした部分。「...... 」の部分は無言だが、fuck you と言われている。オイディプスと同じように、この詩の主人公は、父を殺し、母と通じたあと旅に出る。家族の構造が違うアメリカでは、若者のエディプス・コンプレックスは日本より遥かに強い。すべての若者にとって、このコンプレックスを脱することが真に大人になるための最初の階梯となる。」
アメリカの若者は壮絶なるエディプス・コンプレックスと闘うと立花は言う。「エディプス・コンプレックス」とは、フロイトが提唱した理論で、まず男の子は母親を愛し、独占したいと感じているため、父親という存在を邪魔だと感じ、無意識のうちに憎むようになる。だが、父親に逆らえば去勢されるかもとの不安から、子どもは母親への性愛願望を断念する。
つまり、子どもの母親への独占的な愛は父親によって禁止され、これをきっかけにして、子どもは父親の命令を取り入れるようになり、父親の規範命令(ルール)は超自我として内面化される。ただし、父親の規範命令(ルール)を取り入れるのは、去勢不安のためだけというより、父親に対する愛情と尊敬から従うようになると考えたほうが無難であろう。
ただ、父親が尊敬すべき存在でなくとも、多くの場合、それなりに社会性や自己ルールは形成される。であるなら父親の人間性とは別に、父親というポジションそのものに、自己ルールが形成される一因がある。ここにエディプス・コンプレックスの本質がある。子どもの内面規範が社会性をもつためには、単に母親の禁止(ルール)を取り入れるだけではダメ。
母親との一次的ルールを第三者的に見据える視点が必要であり、まさしく父親がそれを与える位置にいるということだ。これら様々な曲折体験を経て、社会の誰から見ても正しいと思えるふるまいや行動を身につけ、そうした社会的なルールが自分の行動規範となって行く。そういう社会性が形成されることこそ、エディプス・コンプレックスの本質というべきだろう。
人間はデリケートで厄介な生き物で、ただ大きくなるだけでなく正しく成長しないと心に問題を残す。自分もさまざまな問題を背負って成長してきたし、母親とは今後も口を利くことはない。花田兄も弟の貴乃花について、「仲直りとかは気にしてないんです。もうお会いしないというだけ…」と、関係修復の可能性がないことを示唆した。無理して会うこともないよ。
性悪な実母は自分だけに留まらず、妻から孫へと災いが移行した。困った人は誰に対しても困った人で、自分だけで収まる事ではなかった。誰が彼女の首に鈴をつけるかである。困った人は人を困らすことが生きがいのようだ。老害と名指しされる人が、自ら老害とは感じていないように、他人の負担になりたくないという明晰な人はさっさと行き場を選ぶ。
人は完全には自由にはなりきれない存在だ。何者からも自由になれるとしたら、それは人間の死である。すべてから解放される究極の自由を求めて、自ら命を絶つ心の重さを知るすべもないが、死に急ぐ人というのは、不幸な人より幸せの位置にある人が多いのではないか。STAP細胞問題の笹井芳樹氏、長崎高1女子殺害の加害者の父親もHigh Societyである。
いずれも世間を騒がせたことへの顔向けができないという謝罪が根底にある。人の命は個人の所有であるが、人は社会に生き、また社会によって生かされている。したがっ、社会的影響力の高い人ほど命が傷つきやすくなる。精神は傷ついても命を傷つけることのない「生」を見出すことができないものだろうか?所詮エリートはバカになれない苦しみを負うのだろう。エリートにありがちな、ガラス細工のような壊れやすい心に対し、佐村河内氏や小保方氏のような羞恥心なき心の強さ、さて、あなたはどっちを選びたい?ムチャクチャいうな、そんな選択があるかってこと。結局、バカは人に迷惑をかけるだけで、その結果の責任を取るのは常にバカでない人という図式である。新垣氏は佐村河内氏の責任から職を辞し、笹井氏は小保方氏の上司、長崎の父親は娘の責任をそれぞれ取った。
映画の中でカーツはウィラードに問う。「お前は真の自由、一切のものからの自由というものを考えたことがあるか?」。真の自由とは、神の世界以外には存在しない。カーツはベトナム戦争の欺瞞に気づいた後、一切を捨てて神と崇められる王国で君臨していた。神と崇められる世界といえども、所詮は人間、神ではない。そこにあるのは真の自由とは言いがたい。
似非神の自由は重荷であり、負担である。真に無制限の自由は人間には負いきれないほど重い。似非神となったカーツは似非自由の重荷に苦しむ…。カーツは終りなき苦悩からの解放と、新たなる真自由を求め、ウィラードに自らを殺させた。「The horror. The horror.」という象徴的な言葉を置いて、彼の信ずる自由の場所を求め、旅立って行った。