懐かしい、「対抗心」という感情。もう何年も芽生えてない感情だ。「対抗心」とは、互いに勝ちを争って競うことだから、21日解散、12月2日公示―14日投票の衆議院選挙など、対抗馬に「対抗心」むき出しの選挙戦である。各自、各陣営、それはそれは大変なのだろうが、長年味わったことのない「対抗心」で競える機会があるってこと自体、羨ましい。
"落ちればただの人」と言われる議員は悠長に構えてはいられないだろうが、ところで新潟5区の田中眞紀子嬢は、どうやら政界引退らしい。あのプライドの塊のような女が前回に引き続いて今回も落選ということなら…、それを見越しての不出馬だろう。言わずと知れた角栄人気が眞紀子人気を押し上げたが、今は懐かしい。みゆき嬢の言葉を借りるなら。
あんな時代もあったねと、きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで、今日の風に吹かれましょう
父親譲りの喋りの上手さと威勢のよさの眞紀子嬢、文部科学大臣のときに彼女の大学不認可処置が、アンフェアで不公正でバカげていたことから、彼女の政治生命は終ったようだ。所詮は親の七光りだけの世間知らずのお嬢様であることは、過去の様々な問題で言われていたし、この点については当の本人も自著『時の過ぎゆくままに』の中で以下の記述がある。
今でも子どもたちから、「ママは幼いところがあって、危なっかしくて見ていられない」とか、「世間知らずだということを、ママもそろそろ自覚した方がいいよ」と真顔で言われたりする。(中略)なるほど私は相当世間知らずだと思い知った経験を思い起こせば、そろそろ年齢相応の知恵を働かせて、残る人生を逞しく生き抜かねばなるまいと思ったりもしている。
謙虚さの微塵もないブルトーザーのような彼女が、借りてきた猫よろしく謙虚な記述満載の『時の過ぎゆくままに』は、1989年に「主婦と生活社」より刊行されたが、1993年の衆議院選挙初当選前に人気を煽るプロパガンダであった。今はメッキも剥げ、彼女の無能ぶりは国民の知るところだが、『田中真紀子の恩讐』、『田中真紀子の正体』などで叩かれた。
『田中角栄研究』の立花隆も『田中真紀子研究』を著し、彼女の実像は悪口オバサンのイメージが定着する。総理候補の呼び声高い眞紀子嬢の凋落は、「弱い者(弱い官僚)には当たり散らし、居丈高で傲慢であり、強い者(中国)には妾のように媚を売る。アメリカには強きをみせるが、これは未熟な人間のハッタリで、アメリカが怒鳴れば縮みあがる」といわれた。
当たらずとも遠からず、いや当たっている。幼少時期からチヤホヤされた彼女は、世間知らずの傲慢・我儘女に育った。人の使い方が尋常ではなく、愛情や思いやりの欠片もない。自元人気が強く得票率は50%を揺るがなかったが、前回総選挙では3割弱にまで票を減らした。落選の理由はさまざま言われているが、資質を問う多くの記事があったのも一因だろう。
何より明確な理由は彼女があまりに無能だった事。威勢のいい発言はすべてがハッタリなのを国民が知ったこと。それでも父親の地盤を引き継いで、その力を上手く利用すれば民主党であろうと、マイナー政党であろうと当選出来たはず。角栄の愛人だった佐藤昭子(故人)も、「娘をあんな我儘に育てた田中(角栄)が悪い」と本に書いているが、まさにその一言。
我儘は人間にとって最も嫌われる性向。して、我儘になるのは100%親の躾、育て方による。生まれつき我儘な子などいないわけだから。我儘な人間の資質の見分け方だが、人によって違うけれども、間違いなく分る。我儘な人は相手の言葉に敏感すぎる点があげられる。これは天然の逆と見ればいい。常に相手の言葉をかなり意識しているのは共通する特徴だろ。
謙虚な雰囲気も見せるが、我儘、自己中は容易く隠せるものではない。何事も自分勝手な基準で他人を見、それに合わない人を非難するなどの特徴がある。一般人が「こうあってほしい、あるといいな」という感情を、「こうあるべきだ」という感じ方をするから、他人にはいつも不満ばかり抱いているし、自分の我儘に気づいていないから他人に不満が多い。
自分は価値基準を道理で判断するが、自己の善悪が価値基準となる人多し。もし、価値基準を道理に頼らず、自己の都合や、好みなどを主体とする身勝手な善悪基準は、当然他人と異なる。道理判断を「正論ばかり言わないでよ」などと言う奴は感情の塊か。正論を言わずして何を言えばいいのか?自分勝手で独善的な判断を言うしかなくなるだろうに。
道理など無視、ひたすら自分の思いが正しいと思う女は多い。男は何が正しいかを思考する。自分の考えよりまずは道理である。でなくして正しい判断と言えない。我儘でない人は他人をあるがままにみる。「こうあるべきだ」という自分の欲求でなく、「あるがままにみる」。他人を「そうあってほしい」と見る人と「あるがままに見る」人ではまる違ってくる。
「そうあってほしい」と他人を見る人は、そうでない他人に不満を抱く。だから非難をするが、他人を「あるがままに見る」人は、そういう不満はないから非難もない。この点からしても我儘人間が傲慢であるかが分ろう。他人への不満ばかりで、人間関係が円滑にやれるはずがない。自身の心の中には常に相手への「対抗心」ばかりが芽生えているだろう。
「融和」、「穏やかに」人と接するためには「対抗心」は無用である。相手を「あるがまま」に見、自分の考えが道理に敵っているかどうかを客観的にみる。賢者はひと呼吸おかずとも道理が自然と口に出るというが、ひと呼吸おいてさえ道理を模索する凡人もまた賢者への道を模索する。孔子は「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」と言った。
その年になれば口から出る言葉すべてが、道理に敵っているということだが、そんな人間になるのは大変である。欲を捨て、相手を愛し、尊重し、とその域を目指すのは立派なことだ。「天に星、地に花、人に愛」という言葉は小学生の頃から知っているが、星や花は自然であるけれども、「人に愛」は自然に成らず、人為という意思で成されるものである。
人の世では我儘な人と付き合わなければならない事もある。さて、どうするか?基本は「あるがまま」に見ることだが、相手の明らかに無理な要求は拒否すること。それで相手が機嫌が悪くなれども、相手の要求自体が無理(我儘)だと思えばいい。無理を拒絶して相手が不機嫌になった責任を感じる必要はない。こういう物の道理を常時大事にしていけばいい。
「お前が無理を言ったんだ。勝手に怒ってろよ」の域に達すれば楽に生きて行ける。結局、自分が分からずで他人を分ることなど出来ないわけだ。だから、気にすることはない。未熟な相手は、まずは自分を知ることが先決であり、それを口に出して言ったところで無理だから腹で思っておく。言ってあげるのが愛情であるけれど、相手のキャパを考えてすべし。
「対抗心」は人間に必要なものか賛否がある。動物の生存欲求本能の中に「対抗心」は存在するが、動物になくて人間にあるのは知性である。知性は相互間の関係をコントロールするもので、それなくして露骨に「対抗心」を剥き出しにするようでは、その人の知性や品性を疑われてしまう。人間のように社会を形成する生物に感情コントロールは必須となる。
我儘は100%感情だから褒められたものではない。人間の未成熟な感情であるからして他人から好かれない。世に我儘な人間は結構多いし、そういう人間にどう従うではなく、どう対抗するか?「あるがままに」相手を見、無理な要求に屈しないと指摘した。こいつは我儘人間だと、「あるがままに見る」だけで腹が立つというが、不満を言って我儘は直らない。
相手が我儘で困るのは無理難題を要求したり、自分勝手に振舞おうとすることだから、させなければいい。「我儘なヤツにそれは無理」というのは弱虫の方便で、我儘相手に我儘をさせないようには出来る。ただし、喧嘩を覚悟する必要がある。便宜上、喧嘩と言ったが、相手の我儘を許さないための方法である。「いい人」は決して成功者にはなれないんだよ。
「ダメよ、ダメダメ」といえる女は賢い見本である。でなければへなちょこクソジジ~の言いなりになってしまう。あれはよい見本を見せてくれている。もっとも、女の「ダメよ」の本気度はさまざまであるが…。とにかく、相手の我儘、傲慢を許してまでそういう相手と付き合う理由はない。恋人であれ夫婦であれ、我儘を聞き入れぬことで、相手に諦めさせる。
「あの女は我儘で疲れる」と不満を言うより相手に負けぬよう対抗する。不満を言う奴は何もしないし、改善しない。嫌なことされて黙っているヘタレ。人と人の機微は日々の常だが、言葉で簡単に言えない場合もあるのだろうが、言えるよう努力をする。繰り返すが、愚痴や不満をこぼしていいことにはならない。繰り返すが、「いい人」ばかりじゃダメなんだよ。
以下はネット相談。「対抗意識の強い人に対して、まず、対抗意識、対抗心を持たせないようにするにはどうしたらいいでしょうか?」。対抗意識の強い人に対抗心持たせないようにするのではなく、持つのは相手の自由だから、それをかわせばいいだけだが、こういう回答もある。「無視するのもいいが、忍耐が必要。子供がおもちゃに飽きるのと一緒で、時間を要す。
親交を持つのはどうか?仲良くなればお互いが対抗意識を持つ、持たれるというのは必要の薄いもの。さらには、対抗意識を持たれている分野で圧倒的な差を見せつけること。実力が拮抗している場合、追いつけ、追い越せの競争意識が働き、しばしば職場の雰囲気が悪くなることがあります。圧倒的に優れていればそもそも競争がおこらないというわけです。」
「同じ土俵に上がらないのが鉄則だが、実際にその場になるとこちらも人間だし、上手くいかないもの。でも相手が変わらない以上、こちらが変わるしかありません。同じように対抗してもしんどいので、広い心で受け流すことなどできない。冷ややかに見下すほどこちらも人間ができてない。結局自分も変われないのならば、ひたすら悶々とするしかないのが私の経験です。」
いろいろな方法があるんだろうが、その人には出来ること、出来ないことがあるから、自分で考えるしかない。いつも思うのは、「こうしたら?」というアドバイスは、自分は出来ても相手には出来ないこともあろう。上の人のように、自分を変えるか、変えられないなら悶々とする。こういう人もいるんだろうが、「こんなのは嫌だとなれば悶々としない事を考えたらいい。
実は自分には状況がよく分かっていない。「対抗意識」がどういうものか?相手が対抗意識をこちらにけしかけるとはどういう状況なのか。それがよく分らない。別に相手が勝手に対抗意識を燃やしてるなら、気にもとめずに自分は自分でいればいいだけに思う。自分なら無視するというより、気にもならない事かも。相手が対抗心もつから、こっちにうつるわけでもないし。
我儘人間、傲慢人間など腐るほどいる。そういう相手と付き合いを止めることを怖れることはないと思うのだが。自分は人間関係を「道理」に照らして考えるから、無理をいうとか、道理に外れた言動をする相手を排除するのを何とも思わない。よく、自分の好みの相手を選ぶというが、大事なのは道理の分る相手。そうやって排除していけばいい人間しか残らない。
「対抗心」を燃やして当然の選挙なら頑張ればいいが、相手が自分に「対抗心」を燃やすという、具体的な状況も具体的に聞かなければよく分らないが、相手が自分に「対抗心」を強めても、それは相手の問題で、自分がどうする、こうするはない。「対抗心」の強い奴はいるし、そういう経験はあるが所詮は相手のこと、相手の「対抗心」を弱める方法などバカげている。
自分が「対抗心」を燃やした相手についての記憶でいえば、高校のクラスで将棋がブームになり、クラスに連戦連勝無敗の王者がいた。何とかコイツに勝つ!を自分に命じ、まずは本格的な将棋盤(12000円)を、全財産はたいて買った。が、気持ちとは裏腹に所詮は付け焼刃…、遂に彼に勝つ事はできなかった。あの時の燃え滾る気持ちは今でもよく覚えている。
以後も将棋は続けたし、熱中した部類だ。卒業後、何年くらいか正確には覚えてないが、5年か7~8年かそれくらいか、時の王者に「お前に一勝もできなかった。今、ここにリベンジする」と冗談交じりに電話をし、家に呼んだ。3番対局し一度も負けなかった。こんなに弱いやつだった?正直な感想だった。自分が上達したかを量る尺度はなかなか分らぬもの。
彼の棋力は高校生のときのままで、自分の実力だけが気づかぬうちに伸びていたのだろう。懐かしい「対抗心」の思い出だ。「すげ~、強くなったな」の言葉に、打ちのめされた彼の驚きの顔を思い出す。その後、彼が「対抗心」を燃やしてリベンジというのはなかった。彼にはそういう気概はなかったようだ。「対抗心」燃やして挑んで欲しかったが残念である。