何かをやる以上失敗はある。当たり前のことだ。バスケのフリースローで10割入れば神、野球の大打者は10本中4本ヒットがでれば天才。ボーリングで常時300点はなく、ゴルフのパットも狙ってもはずす。これらは選手たちにとっては失敗である。人間は成功もあるが失敗もあるし、だから失敗を恥じてごまかすこともない。昨日言いかけたのは以下の事象である。
30歳くらいだったか、仙台に出張に行った時のこと。駅前のホテルにチェックインし、ふらりと街の空気を吸いに外にでた。子細はハッキリ覚えていないが、女子大生風のカワイこちゃんに声をかけ、数分後には彼女の案内でホテルに向かっていた。即決の相手だったんだろう。時間の必要な女もいるにはいる。部屋に入るとすぐに女が切りだした。「わたし、お金がいるんです…」
その言葉に返答した。「金がいるならいい。出よう!」そそくさと外に出た。この話を東京に戻って同僚にした。「ホテルまで入ってか?値切らなかったのか?5分でも休憩料金取られるだろに?」、「確かにものの5分も居なかったな。満額取られるよ。そういう契約だし、2時間も5分も同じ料金」、「その女も、入る前に言うべきだろ。それが売りの女の常識ってもんじゃないか?」
言ってる意味はよくわかるし、常識のあるナシは人によるし、そんな所で常識を持ち出しても意味はない。自分はむしろ彼女の行為は正解だと思った。なぜなら、事前にお金のことを言えば断る男もいるだろう。言わなければいけない決まりはないし、ならばホテルに入っていう方が金を得る確率は高い。そこではいろいろなやり取りが考えられる。「なんだい、お金いるの?」と言いながら男もその気の場合。
値切ったりの交渉もするだろうが、自分のように5千円払っても即座に退室する男はどのくらいいるのだろうか?人の事は分らないが、自分は「お金をくれ」と言われただけで、気が引くから値段を聞くとか、値切る等はあり得ない。女を金で買うという行為が自分の辞書にない。同僚も、「せっかく入ったんだし、ガンガン値切ったらよかったのに。お前が先に言わないから、半額にしろとか、俺ならいうな」という。
事前に言えば「NO!」でも、部屋に入れば「しょうがないな」と諦める男もいる。よって、ホテルに入るまでは何も言わない方が賢い。彼女は見るからに女子大生風の個人営業のようだった。プロなら相手の財布の所持も気になるし、先に値段交渉をしてからというのが一般的だ。「あのう、わたしお金いるんですけど」の言い方も押し殺した声だった。プロと交渉の経験はないので創造である。
彼女は賢い、自分がバカだというのが正解である。そのように自覚し、認識すれば、次回に同じことがあれば、自分がナンパしたようであっても事前に、「お金くれとかないだろうな?」と聞くだろう。それが学習というものだ。つまり、その分偉くなったわけだが、これを同僚のように、「女が悪い」、「非常識だ」などの方便をたれていては、ダメだ。すべては自分のバカさ、至らなさと、自己責任を回避しない。
何事も真に学習しようとするなら、自己責任とした方がいい。そのように深く見つめると必ず自分の落ち度に気づくし、自分は悪くない、相手が悪いとした場合は、自分の何物にも気づかない。向上する人間は、自分の落ち度をどんどん消してなくしていくものだ。くだらない自尊心がもたがるよりも、己の非を探すことだ。人間は完璧でない、その場その時に完璧な方法が見つかるともいえない。
一晩考えてよい方法が見つかることもある。そういう自省が新たな自分を作る。そのその時場で正しく、適切な方法や言葉が自然に生まれるようになる。望めば敵うようになるというのは、それだけ意識が高いからである。高い意識を持てば最善に近い行動ができるようになだろう。サッカーの本田や野球のイチローなど、常に高い意識で捉えているから成しえた。かつてイチローは、「全打席でヒットを打つのが目標です」と言った。中学生の孫が二年になってバスケ部のキャプテンに指名された。自分は孫に「どうすれば信頼されるキャプテンになれるか分かってるか?」と聞いてみた。「あんまり自慢したり、偉そうにしないこと?」と言うので、「そうじゃない。誰よりもいいプレーをすること。それで信頼を得れるし、信頼が得れると自信にもなる!」と教えた。
ジョーダンが信頼されるのは、彼がいいプレーをするからだ。フリースローの練習で10本打って7本、8本入れば上出来であるなかれ。10本中10本入れる気持ちが高い意識であろう。ついでにこうも言った。「打ったシュートを100%決める方法があるけど、その方法知ってるか?」といえば孫は「そんな方法あるん?」と目を丸くした。「ダンク!ダンクなら100%入る」、「なんだよ、もう、できるわけないっしょ!」
ときどきふざけたことをいうので、最近は少し構え気味になっている。もう少し高度なギャグが要求されるこの頃だ。まあ、中学生もプロもリングの高さは同じ305㎝である。身長が170㎝の孫がダンクするにはどれだけのジャンプ力が必要か?身長170cmなら腕を垂直に伸ばすと指先の高さはだいたい220cm前後。高さ305cmのリングにダンクをするなら、15cmはリングより高いところに指先がなければ無理。
となると、垂直跳び100cmで届くことになるが、助走をつけてジャンプすれば80cm程度跳べばダンクは可能という計算だ。NBAにスパッド・ウェブという身長168cmの選手がいた。スパッドは1986年のNBAオールスター・スラムダンクコンテストで優勝もした。彼はこんな名言を吐いている。「小さかったら高く跳べばいい!」。なるほど…。名言というより、当たり前の言葉である。
離婚の続きを書こう。子ども時代に親が離婚した体験もない、親となって子どもに離婚を体験させたこともない。ただ、夫婦が別々に暮らして15年になるが、最近の用語では別居婚というらしい。別居婚と言うのは続にいう煩わしいから別居し、やがて離婚になるというその別居とは違うらしい。近年は籍だけ入れて、最初から同居しない夫婦も居たりと、これぞ正真正銘の別居婚。
住居を別にしたまま結婚するスタイルであり、なにやら不自然な気もするが、いろいろなケースがあってこういう形態をとるようだ。例えば、働く女性が増えた昨今にあって、互いのライフスタイルを崩さないために別居婚を選択する場合が多いらしい。他には再婚で子供がいる場合、とりあえず籍だけを入れ、子どもを慣れさせるために当面は別居婚から始めるというケースもある。
仕事の都合などから単身赴任となり、結婚当初は同居していたが、途中から別居になる場合は「別居婚」と呼ばないらしい。また、別々に暮らし、一緒に過ごすのが週末だけの場合、特に週末婚というのだそうだ。「別居婚」などという法的な定義があるわけでもないし、どうだっていいだろ。籍があって別々に暮らしているなら別居婚だろに。それがダメなら別居夫婦と呼べばいい。
という事で我が家は別居婚。妻は姑と二人で同居だが、頻繁に娘と息子のところに遊びにいっている。そうでもなきゃ、あんな姑とでは息が詰まってやってられないだろ。さて、親が離婚すれば就学児の子どもはどちらかに引き取られることになる。一概に離婚といってもその時の子どもの年齢によって、子どもの受ける印象は大きく変わってくる。まあ、離婚はないにこしたことはない。
そうはいっても、愛情のない夫婦が陰険な日々を送るのは、そちらの方が断然子どもへの影響はよくないだろに。こういう場合はさっさと離婚した方がよい。離婚をためらってさらなる不幸に陥るケースもある。具体的にいえば、刑事事件となるケースで、これはもう家族全員不幸である。夫婦とは不思議なもので、おしどり夫婦と言われても10年も立てば相手の嫌な面が鼻につく。
これが度を越すと、夫は家に帰るのが憂鬱となり、帰宅恐怖症候群に陥る。さらに妻が夫をないがしろにしたり、冷たく接したり、邪険に扱うと、ついに夫は実家や心休まる女性のところに逃げ込むようになる。妻には自分が夫を追い込んだとの自覚はなく、女を作ったと怒り心頭となる。作ったのは事実だが、自分がその原因の一端であるなど考えない妻に付ける薬はない。
反対に、夫が荒々しい性格であったり、暴力をふるうなどで妻を追い込んでいるケースもある。心やさしい善意な妻は、夫が愛人とヨロシクやているのに、夫の帰りを待ち続けていることとなり、こういう善意な人間はどんどん憔悴していく。離婚はこういう場合から起こってくる。別居の理由は夫の浮気だから、当初は妻の親族も周囲の人たちも、はた夫の親さえ彼女に同情、味方になる。
「慰謝料もらって離婚した方がいいんじゃないか」、「新しい人生を始めるべきだよ」、「男運が悪かったと思うしかないね」などと周囲は意見をする。昨今は、「女は我慢よ。何が何でも離婚は損だしね。ご主人だって、一瞬の気の迷いだから、長い目で見てあげたら…」、「浮気の虫がついただけで、待ってるとそのうち相手にも飽きて帰ってくるよ、我慢、我慢」という意見は少ないかも。
夫婦の離婚が特別なことでなくなった現われかもしれない。女性が離婚して生活が苦しくなるのは事実であっても、それ以上に我慢を強いられる時代ではない、今や離婚は女性にとっても市民権を得たのだろうが、昔は、「石にかじりついてでも我慢しなさい」、「離婚はしない方がいい」との意見が大勢だった。問題は子どもに対するケアで、そのメドがたてば女性は離婚に踏み切る。
かつて女性の離婚は、「出戻り」とされ、周囲から異端視され、実家にこもって肩身の狭い日々を送っていたが、近年は女性に離婚に対する社会の偏見はない。夫依存型の社会は様々な女性に対する差別的偏見を生んだが、すべては過去の遺物。価値観多様化は、成熟阻害現象といったが、結婚した相手とは互いの寿命が尽きるまで、添い遂げるのがよいとされた。
なぜ一生添い遂げるのがよいのだろうか?考えたこともない設問に答えを出すべく今、思考をした。結果、それがよいとの答えはでなかった。互いが浮気とは無縁であっても、一生添い遂げる夫婦が幸福とは限らない。という答となった。添い遂げることがよくない、悪いではない。喧嘩もしたし、浮気もあった、憎んだこともあった…、でも一緒にいて良かった。そんな夫婦も幸福である。
が、一生添い遂げる夫婦には、欺瞞を演じ、虚飾夫婦もある。単に別れないというだけなら、その"別れない"ことが素晴らしいわけでも、よいわけでもない。むしろ別れて別の誰かと新たな人生を始めた方がよいかも知れない。それをせず、婚姻継続する夫婦は他人がどうこう言う前に、本人たちが幸福と思っていない。で、幸福でないなら不幸なのかといえば、そうでもない。
別れるのもいろいろ難義、面倒くさい、ならばこのままでとりあえず問題はないのだし…。こういう夫婦は多い。以下は信じられない話だ。「僕たちは結婚4年目になります。昨年やっと子どもに恵まれました。それまで僕たちは、近所でも評判の仲のよい夫婦でした。それが、子どもが乳離れする前に、妻の浮気現場を目撃したのです。相手は妻が結婚する以前の恋人でした。
つまり、僕の恋敵であり、その男が僕の留守中に家にあがり込んでいたのですから、僕の驚きがどれほどであったか察していただけるでしょう。それ以降ずいぶん悩み、苦しみました。もう妻の顔を見るのも嫌になりました。離婚をしたいと思っています」。この夫の言い分に対し、妻はまったくのデタラメと否定した。「夫の嘘に呆れました。実際は、主人のほうに先に女ができたのです。
夫はそれ以後ガラリと変わりました。本当は離婚したくてたまらないくせに、自分の浮気では私が離婚しないと思ってか、私が浮気をしたかのようにいっているのです。私の浮気相手がいるのなら、どうぞ連れてきて欲しい。そんなに私が嫌なら離婚してあげてもいい。ですが、私が浮気をしたなどという大嘘は許せません」。こうまで話が食い違うというのは、どちらかが嘘をついている。
果たしてどちらの言い分が嘘であろうか?それを詮索したところで、二人の仲が円満におさまることはない。民法では、離婚の理由をいろいろ挙げているが、「婚姻を継続しがたい重大な理由」というのもある。この夫婦の場合、この食い違いは充分それに該当するし、離婚の理由となり得る。自分の勘では夫が嘘をついている。理由は、妻の態度は堂々と自己の潔白を述べている。
「あなたが断定する過去の恋敵とやらを連れて来なさいよ」といい点は、逃げも隠れも誤魔化すこともせず、積極的に真実に向き合おうとしている点からそれを感じるし、夫の言い分は自己妄想が無意識に事実と思い込んでしまったような言い草である。「そんなに言うなら相手を連れてきなさいよ」というのは、開き直った高等戦術の場合もあるが、潔白である場合に言える言葉に思える。
夫の言い分が真実なら、妻の言うように相手を呼んで客観的事実を証明すべきであろう。ただし、「実際は、主人のほうに先に女ができたのです。」と妻がいうように男がいたのは間違いない。であるなら、妻にも肉体関係があった可能性はある。それで上記の言い分なら、この妻は男を数倍上回る嘘つき、悪女であろう。あくまで、夫が「先」ということで自分の罪を軽減させている。
離婚の原因となる"浮気"は、夫の方と相場が決まっていたが、近年は男女平等のご利益なのか、妻の浮気も珍しくない。女の浮気は嘘と演技の巧みさもあって、なかなか尻尾をつかみにくいし、夫がマヌケという部分もある。こと浮気に関して夫(男)は正直すぎ、演技力は大根役者であろう。