確かに浮気そのものは、人の心を踏みにじる行為であるけれども、人より自分が大切なのが人間だから仕方がない。女の意地と言うのか、憎悪心の極みとでもいうのか、意地悪とでもいうのか、夫の恋人に対する嫉妬なのか、「夫の行為は許せない、絶対に離婚してやらない!」という妻もいる。これは何が何でも夫を取り戻したいという愛情というより一種の倒錯心理である。
憎悪にもいろいろある。新しい女と生活を始めた夫の心は取り戻すことはできないし、意地を張るのは自身の幸せに向けた選択といえない。離婚原因を作った夫は、民法上の有責配偶者として離婚は認められないが、夫が他の女性と結婚を望んでいる場合は条件のよい慰謝料等に応じる場合が多いので、つまらぬ意地をはるより離婚におけるベストなタイミングと捉えるべきだ。
上のような返報感情丸出しで幸せにはなり得ない。ならば、憎しみよりも自分の将来を見つめるべきだ。離婚には夫婦間で合意する「協議離婚」、家庭裁判所で調停委員を交えて決着する「調停離婚」、調停離婚で合意は得たが、その他の問題で難航したり、相手が外国人籍などの場合に家庭裁判所が下す「審判離婚」、裁判などで争って決着をつける「裁判離婚」がある。
が、裁判による離婚はハッキリ言って人生の無駄、これは止めた方がいい。というのも、日本の裁判は長々続くし、そこで二人の人生は止まってしまう。弁護士を雇う費用もバカにならない。気持ちを晴らすだけで、得るものよりも失うものが大である。さらには争いごとは人を疲弊させるし、子どもがいる場合には、その間の子どもの気持ちは安定しない状態が続くことになる。
オトナの都合で離婚をするわけだし、意地を張り通すより、罪のない子どものことを最優先に考えるべきだ。それでなくとも子どもに迷惑をかけてるわけだし…。徹底決着でボロボロになるより、少しの愛情が残っているうちに離婚した方がよい。確かに人と人とのこじれた問題は、白黒つけるほうがスッキリの場合もあるが、人と人との間に設けた子がいることをお忘れにならないよう。
「離婚によって子どもが不幸になる」、「母子家庭が子どもを不幸にする」なんてことはない。それをいうなら、「離婚しない夫婦の子どもはみんな幸せになるはずだ」。ありもしないことを離婚の抑止力にするよりも、二人の現在の状況や、修復の意思の有無などを含めた冷静な視点で婚姻継続か離婚かを考えるべきだ。離婚が不幸というより、現在の状況が不幸かも知れない。
同じ屋根の下に四六時中同居する夫婦は、気分が乗らないときでも顔を付き合わさねばならぬが、相手の心中を察し、あまり関わらない方がいいと感じたら愛ある無視をするのがいい。相手のちょっとした仕草や言動から、「何一人ですねてんの?」などは言わず、「Leave Me Alone」的な正しい放任と、それを実践す度量を互いが有すこと。
自宅に帰りたくない夫が多いという。原因がどこにあるかを判っているが、判っていながら解決できない本人のやり場のなさ、行き場のなさがパチンコなのか?最近のパチンコは千円あれば30分楽しませてくれるところではないし、遊びよりギャンブル性が強い。となると時間をつぶすならコンプレックスシアターか。ここなら1000円で二時間の暇つぶしが可能。
問題解決に向けて敢然と立ち向かうことのできない能無き男ならこうするしかない。誰が悪いと言ったところですべては自身の能力の問題だ。結婚する前に能力を準備しておくべきだし、何があってもキチンと解決して見せる、そういう物も結婚道具。妻が強い、怖い、顔をみるのも辛い。自分の稼ぎでローンで建てた我が家に帰りたくないなど惨めである。
国家は社会的弱者に対する加護はするが、家庭的弱者には手を貸さない。何事も行き詰まるほど後手を引いてしまってはどうにもならないことを、せめて知識として人間は知っておくべきである。知って行動できない者もいるにはいるが、行動は知らなければできない。行き詰まった時に何もしないで手をこまねいているのか、問題があっても何かをすべきか。
問題を解決せず、引き伸ばし、先送りにした結果、とどのつまりはもう一緒にいたくない。まさに男がダメな時代になり下がった。家庭環境か、社会環境か、ヘタレ男が急増している。斯くのヘタレ夫は、同じ部署の古参女子社員に泣き言をいい、同情心からしがない不倫がささやかな楽しみか。つい、「ガンバレ!おとうさん」と、いいたくもなる。
強い男の子も弱い男の子もいる人間社会である。強い男の子、弱い男の子は先天的ではなく、環境によって作られるのだから、親が作るということだ。しかし、親には強い男、弱い男を作ろうというそんな意識はない。多くの親に強くある意識は、勉強の出来る秀才を作りたいである。そういう親の思惑に抗った子は、強い子になるのではと自分は考える。
親の操り人形になる子は、すべてとは言わないが弱い子になるのではないか?つまり、自身の意思力、主体性の有る無しが大きく関わるし、甘えとは異質の反抗心も心の強さを作る。では、力と頭脳と一体どちらが支配者に相応しいのか?を考えてみた。どちらも兼ね備えるのがいいが、いくら頭が良くても粗雑な力を持った男にやり込められるケースを多く見た。
だからなのか、人間の組織には細分化された役職制度がある。その顕著な例は家庭にもみる。有名大卒の夫が高卒の妻にやり込められているのを見ると、役職制度で身分保障をされている会社に比べ、対等社会にあっては、やはり力がモノを言うようだ。女の強さと学歴はなんの関係もないし、フェミニズムもインテリたちの巣窟ではないようだ。
共産主義者にはインテリが多い。少数派であることからして、大を制するがためにインテリジェンスは不可欠であろう。それに比べてフェミニズムは、赤い旗と白旗を持って上げたり下げたりの論理なき感性世界のようだ。人を説得するには論理が不可欠だから、論理を信条とするフェミニストもなくはないが、男女同権を謳うフェミニストは総じて非論理である。
田嶋陽子が非論理の女性であるのは誰もが思うし、彼女たちの極端な女性優位発言は、男尊女卑の不条理を自覚させる効果と、女性の権利を主張する人全体へのマイナスイメージを作り上げるし、少なくとも建前上「男女同権なのが常識」になった現代において、後者の影響が大きい。もはやこのような言説は、完全に役割を終えている。
したがって、フェミニズム信奉者は、男を奴隷にするか、女が独身でいるかの選択しか探る道はない。フェミニスト上野千鶴子に、『お一人さまの老後』という著書があるが、彼女たちの偏ったフェミニズムは、気づいたら周囲には誰もいなくなったということだ。孤独というより孤立である。人生やり直せるなら、フェミニズムなんか止めたい心境であろう。
女が男の本当のやさしさを知る、味わうとはどういうことかを自分なりに考えてみるに、その男といることによって、「素直になれる」、「安心できる」、「心を解放できる」それが男のやさしさを体現した女ではないかと。それくらいに心に余裕のある男でないと醸せないのが本当の男のやさしさであろう。フェミニストはそういう男のやさしさなども求めていない。
こんなことを言っても突っ張るだろうが、男を隷属させるのが難しいなら、フェミニズムは独身礼賛主義に絞った方がいい。彼女たちは不幸にもやさしい男に出会わなかったのだろうな。いや、男に対する偏見、無価値感が災いしたのかも…。どんなにやさしい男に出会っても、あんな男蔑視の態度なら傍に入れるはずがない。だから、気づいたら一人になっていた。
非論理で感情丸出しのフェミニズムは、であるがゆえに消えていくしかなかった。「諸悪の根元は男にある」とした理由は、世に存在する全てのものが男性中心に作られており、そのために女性は二流市民に甘んじるしかない。社会システムも学問体系も全ては男性中心。故に男性を排除せよという結論を導いた。つまり、女が男の上に立とうとした。
当たり前だが、立つのは男と決まっている。立つは勃つと言った方がいい。それさえ気に入らないからと、70年代には、レズビアン・フェミニズムというのが存在した。「異性間の性交渉とは、男性が女性を服従させるために行われるもの」と難癖をつけ、SEXの体位自体が男女間の上下関係を現し、性交渉によってこの上下関係が固定化されていくとこじつけた。
バカも休み休み言えである。動物は後から突っ込むだけだが、馬乗りになった事がないのか?もしくはそういう体位を知らないカマトト女の発言かといいたくなる。正常位で男が上というのが気にいらないならと、騎乗だけに専念するのか?あれは上になったり、下になったり、斜めになったりするものなのに、女が上であるべしというゲスな感情論フェミニズムなどくだらんこった。
よってフェミニズムは、「非論理性に満ちた感情論!」と批判する。それに対し、彼女たちは見事に反論する。「論理に基づく学問体系は男性的価値観に塗り固められており、フェミニズムがその価値観に合わないこと、つまり非論理的であることは当たり前」だという。こういうその場限りの独善論が失笑に価するのは、多くの論理的思考をする女性の存在である。
小保方晴子は別にして、多くの女性学者が素晴らしい研究成果をあげている。学者(=学問)とは論理の世界であり、女性が論理的になれないために成功できないというフェミニストの言い草は、明らかに男性中心主義に基づく誤謬である。支離滅裂な感情論のフェミニズムが、多くの矛盾から消滅したのは仕方のない道理だが、それでも敗残兵たるフェミニストはいる。
異性とは性が異なること。あらゆる生物不滅の原則であるなら、互いのよいところを見出すことこそ、異性に向き合う方法であろう。批判は進歩を生むから大事だが、ネガティブな非難から新たな物が生まれたためしがない。相手を罵倒することで優位に立つ者は遅かれ引きづり降ろされる。優秀な人は、相手を尊敬することで、自身が敬われることであろう。
男が足りないバカならさもありなんだろうが、明らかに夫が優秀でありながら、妻が大きな顔をして実権を握る社会が、真に機能的社会とは思えない。が、大きな顔をするだけのバカ女は、そんなことも分からないし、問題ではなかろう。ようするに、気が強いか、弱いか、ヒトがいいのか、性格が傲慢なのか、だけで実権を握る妻は家庭における悲劇である。
J・F・ケネディの大統領就任演説の全文は公開されているが、「共に新しく始めよう…」、「共に考えましょう…」、「共に作り上げましょう…」、「共に努めましょう…」、「共に手を取りましょう…」などと、国民に cooperateを呼びかけた。「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか」。言語に絶する素晴らしい言葉。
「あなたがわたしに何をしてくれるかではなく、わたしがあなたに何ができるかを、共に考えよう」という気持ちを、恋人が、夫婦が、男女が、すべての人間が持てばいいのだが…。「最後に、アメリカ市民の皆さんも世界市民の皆さんも、どうぞ我々が皆さんに求めるのと同じ水準の熱意と犠牲を我々に求めてください。」、ケネディはこのように締め括った。
ケネディは子ども時代、体が病弱で不健康だった。生まれつき背骨部分に障害があり、怪我をしやすく、しばしば激しい苦痛に襲われたという。戒律の厳しいカトリックの寄宿学校ではなぜか「モッカー(校則違反者)」のあだ名がついていた。子ども時代は誰にでもあるが、その子の将来など誰も予測はできない。その子の将来はその子の志とある種の家庭環境になる。
ケネディは46歳で凶弾に散った。これも誰も予想し得なかった。下半身は緩い人であったが、脳は英知で充満した人であった。人格のない下半身をあげつらうよりも、人間の英知を評価すべきである。ケネディが存命であったなら現在98歳である。もし、彼が生きていたら世界はどうなっていたろうか…? 答えは、「世界の人口が間違いなく一人増えていることになる」。