近年はウォーキングブームと言ってもいい時代である。熱心にウォーキングする人を見かけるし、自分が歩いてみると頻繁にウォーカーたちに遭遇する。なかでも爺や婆が多く、数年前と違うのはみなさんの井手達が実にカッコイイのである。ウォーキング・ウェア、ウォーキング・シューズ以外にもさまざまなウォーキング・グッズは、ウォーカーにとっては人気となっている。
ウェア、シューズ以外のウォーキン・グッズといえば、水筒、ランニン・バックパック、ランニング・ウォッチとよばれる脈拍計、サングラス、キャップなどなどがある。ウォーキングの目的は個々によって違うが、自分の場合は肝臓の危険信号数値を現す、ALT(GPT)、AST(GOT)の改善によいと聞いたからで、特に下戸の人、非アルコール型の脂肪肝には最適であるという。
肝数値は以前から悪く、タウリンがよいと聞いていたので、タウリン配合栄養ドリンクを毎日1本飲むようにしていたし、それなりに効果はあった。それプラス自転車・クルマ類は極力避けるようにしていたが、やはり有酸素運動は理に敵っている。ジョギングよりウォーキングが効果を発揮する。片手間にはやっていたが、やる気で初めると、上記の肝臓数値がみるみる改善した。
肝臓についた脂肪を燃焼するには運動が効果的で、特にウォーキングは脂肪燃焼効果の高い有酸素運動で、歩くだけなので長期間続けられる。さらにもう一点、9月初旬に受けたCT検査で尿管結石が見つかったことも理由である。結石は5年前に一度経験しているが、今回は直径が11mm(前回は7mm)と大きく、前回も排出まで1年かかったが、果たして自然排出なるだろうか。
医師は、11mmの石が自然排出ってのはあまり聞かないし、尿管砕石術(TUL)になる可能性が高いという。幸い今回は全く痛みがない(前回は七転八倒の痛みであった)ので、気楽に構えている。したがってウォーキングコースは坂道を登り、下りのときに意図的にドタドタドッタンと跳ねるように歩く。というより、坂を駆け下りる感じでやっている。とりあえず膀胱まで落すことが先決だ。
尿管の径は5mm程度なので、11mmが重力の影響でどれほど下がるかである。水も1日2リットル以上は飲む必要がある。石を出しやすくするのと、水分を取って尿の濃度を薄くしないと、結石が尿管の中で大きくなるからだ。表題の「Walkingという、Working」のとおり、歩くのはまさに仕事である。自分は面倒くさがり屋なので、ウォーキングウェアなどは着ないで、半パンにポロシャツで歩く。
あんまり改まったスタイルに拘らず、普通の外出着で歩く。水筒も不要、あちこちに自販機がある。ランニングバックパックなども普通のリュックにタオル、財布、携帯、ポロシャツ&アンダーシャツの着替えを入れている。シューズも普通のスニーカーでやっていたが、ウォーキングシューズのクッション性と軽さに惹かれ、これだけは外せない。あと、キャップにグラサンは必須である。
小学生の黄色い帽子は交通安全のためだが、自分もクルマに跳ね飛ばされないように、シューズ、リュック、キャップは黄色にした。というのはジョーク、もともと黄色は好きなカラーである。晩秋から冬にかけては、トレーナーの上にダウンべストの井出達がいいかと、ベストも今回新調して3着体制である。そうはいえど、気に入ったウィンドブレーカーがあれば購入したい。
ウォーキングの楽しさは、歩くことにある。答えになっていないが、確かに歩くことで景色がゆっくり目に入ってくる。クルマに乗るということは目的地に着くだけだが、歩くというのは歩くことが目的であり、どこかに到着するということはない。だから、歩くことが楽しくなければ続けられないだろう。自分は歩くことの楽しさは、普段目にすることない景色と出会う人との交流である。
交流といっても、小学生に声をかけるだけだ。それを交流と自分はいっているが、正確にはすれ違いであってナンパではない。まさか小学生にナンパはなく、女子高生、若い女性、中年のおばさんにも声はかけない。自分はウォーキング中なのだ。が、行き交う人々に様々な想像をめぐらせる。この人たちにも家庭があり、子どももいたり、生活をしているのだな、などと…
ナンパは懐かしい、ナンパは楽しく、ナンパはオナゴを手に入れるという実入りがある。実入りというか、自分の身を入れるわけだから、"身入れ"というべきか。などとおバカなことを考えるのも楽し。どんな男でも風雅の道を解さん男はダメぞなもし。風雅と書けば、風雅とはなんぞやと、調べる人もいるであろうから、親切に書いておこう。風雅とは、高尚で雅な趣きのあること。
とネットの辞書にあるが、「風雅巻き」という熊本の銘菓があるぞなもし。有明産の若摘み焼のりと、厳選した豆を使用した海苔菓子。名前の由来はよくわからん。おそらく風雅なのであろう。風雅の道とは、究極的には男と女のことであり、風雅の道を解すとは、色好みということになる。見た目はいい男なのに、真面目だけでは女は寄って来んぞ。なにせ女は基本スケベである。
自分を上手いこと口説いてくれる男を待っている動物じゃで。糞マジメで甲斐性なし男を江戸の時代に「玉の盃底なし男」といった。「玉の盃」とは読んで字の如し、玉(ぎょく)と呼ばれる貴重な石で作った盃のこと。その盃の底が抜けてるのだがら、何の役にも立たん。つまり、糞マジメ男は何の役にも立たん、あれも立たんということだ。後の言葉は自分の加筆である。
ナンパをする男が色好みであるという決め付けは当たってもいれば、そうともいえん。見ず知らずの女(男でもいいのだが、女の方が身入りがある)に声をかけて、知り合いになるというのは、実にドラマチックなことである。行き交う人とただすれ違ったからと言って、ドラマチックでも何でもないし、そこで一声かけるというのは、永遠に逢えない人と、ひとときを過ごせるわけだ。
「ナンパ師」に対する風当たりは強いが、どっこい上記の理由からすれば、「ナンパ師」という言葉は大層不順である。これまさに風雅の道である。言い訳でも口実でもなんでもない、ただ声をかけるだけで、後は野となり山となりである。結果はともかく、プロセスに意味がある。結果は附録と思えばいい。「彼女ォ、お茶しない?」と、この程度で色好みということではなかろう。
パンツを脱がせば色好みという事かもしれぬが、では、脱がされた女(自意思で脱いだも同然)は色好みではないのか?十分、色好みであらせる。よって、こういう場合の男は、色好み女性のサポーター的存在と言える。ナンパの基本はまともな恋愛にならないと決め付けるのもよし、いやいや、動機は不純でも、その方法以外で二人が出会う術はなかったと考えるなら素敵な出会いである。
たしかにあの時代(自分たちの青春時代)、まともな恋愛の対象になるような控え目なお利口さんは、ふらふら町など歩いてなかった。仮に町にいても、ナンパされるなど彼女たちの自尊心が許さなかった。したがって、真面目ないい女をナンパするのは、「ナンパではありませんよ」という打消しの言葉が必要だった。「ナンパじゃないです」と言って、「ほんとにですか?」と言う女。
も、カワイイではないか。見え透いたことであっても、真剣に打ち消せば伝わる女というのは、心が汚れていない。だから汚してはならない。やる目的で声はかけないから、遊び女より真面目女がいい。結果を求めないところが、自分の「雅」さである。こういう自負を持つ男を、「ナンパ師」と呼んではいけない。「声かけびと」と呼ぶべきだが、そういう言葉はない。
よいお嬢様は、山の手の広い庭のある広~いお屋敷に住み、広~い自室でジャージなどは着ず、オシャレをめかして音楽など聴いているものだ。と、いうのは正しくもあるが、偏見でもある。東京にいる女の半分以上はおのぼりさんだから、アパート暮らしである。あの時代、マンションというのは、豪邸のことを言った。大体が「和光荘」、「曙荘」のように、いかにも「荘」であった。
ちなみに自分は、「一新荘」、「小浦荘」というアパート名を覚えている。それから、「サニーハイツ」、「喜多見マンション」などとゴージャスになっていった。が、最初の一新荘は四畳半で、トイレ、台所ナシで9000円であった。場所は杉並区高円寺、サニーハイツは杉並区堀の内。どちらも吉田拓郎の居住地の追っかけであった。何ともミーハーであるが、確かにミーハーだった。
ウォーキングについての書き出しも、数行書けば書くことナシ。あとは好きに書く。ということで、『徒然草』の、「よろづにいみじくとも」にあやかった。「よろづにいみじくとも、色好まらざん男はいとさうざうしく、玉の巵(さかずき)の当(そこ)なき心地ぞすべき」(第三段)。訳は、「万事に優れていても、恋に夢中になれないような男は、物足りなくて盃の底が抜けるほどに味気ないものである。」
法師は第百七段では以下の如き女性を辛辣に批判する。「女の性は皆ひがめり。人我(にんが)の相深く、貪欲(とんよく)甚だしく物の理(ことわり)を知らず、ただ迷ひの方に心も早く移り、詞(ことば)も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず、用意あるかと見れば、また浅ましき事まで、問はず語りに言ひ出す」。彼は理想の女性を追うタイプだから、率直に書けるのだ。
女性も同様に理想の男を求めるならば、ダメ男のことを書くものだ。方や、清少納言は『枕草子』第六十三段「暁に帰らむ人は」において、逢瀬の翌朝における、別れ際におけるダメ男の風情、あり方ブリを綴っている。勝気で男勝りなイメージが強い清少納言は、『蜻蛉日記』や『和泉式部日記』のように、生々しき自体験は書いてはないが、彼女の恋愛観に辛辣な乙女心を見る。
現代も古典も男は男、女は女であり、ダメ男はダメ、ダメ女もダメに変わりはない。1000年経って男がダメに、女がダメになったのではなく、ダメ人間は昔からいた。いつの時代も男と女の恋愛である。暁に女のところからいとま経験はあるが、今に思えば清少納言の指摘するような、いそいそ感もあったろう。女の目ざとさというのか、清少納言は怖ろしき感受性の持ち主である。
身なりについては、『徒然草』の第百九十一段が面白い。「夜になると、暗くてよく見えないなどと言っている人は、馬鹿に違いない。様々な物の煌めき、飾り、色合いなどは、夜だから輝く。昼は簡単で地味な姿でも問題ない。だけど夜には、キラキラと華やかな服装がよく似合う。人の容姿も、夜灯りで一層美しくなる。話す声も暗闇から聞こえれば、その思いやりが身に染みてくる。
香りや楽器の音も夜になると際立つ。どうでもよい夜更けに、行き交う人が清潔な姿をしているのはこの上ない。若い人は、いつ見られているか分からないのだから、特にくつろいでいる時などに、普段着と晴れ着の区別なく、身だしなみに気をつけよう。美男子が日が暮れてから髪を整え、美少女が夜更けに抜け出して、こっそりと洗面所の鏡の前で化粧を直すのは、素敵なことだ。」
生活自体が便利に快活になったせいもあってか、現代人の感性は退化するばかり。清少納言や兼好法師のような研ぎ澄まされた感性は、もはや現代人には望めないだろう。生活が便利になれば人間が横着になり、バカになるように、人が人を無機的に捉える昨今にあって、人に対する感性も鈍くなる。古典を読むにあたってのドキドキ感、忘れたものを蘇らせてくれる。
彼らは当たり前のことを指摘してくれるだけなのにドキドキする。それほどに我々の感性は、悲しいかな鈍化してしまっている。我々は月の明りというものを経験しなくなったし、白熱電球の人肌の色明りも今はない。蛍光灯からLEDへと時代はさらに変わり行く。かつて夜には月明かりというものがあった。現代人が、月の光を光と思えぬのは、昼の光に目を潰されたからだ。
ドビュッシーに『月の光』という名曲がある。フレデリック・ショパンは、ドビュッシーより50年前に生を受けている。彼は21曲の『夜想曲』を書いた。約200年前に生を受けたショパン当時のピアノの両脇には燭台がある。言うまでもない、月の光や燭台に灯る明りが、彼らの名曲を生んだ。法師は、「夜になると物の見映えがしない」などと、何を抜かすかと怒っているのである。
そういう奴は「馬鹿」とまで言っている。確かに…、そうかも知れんな。というより、あの時代の感性に寄り添ってみれば、言ってることのまことしやかさ。『月の光』は、部屋の電気を消して、月明りだけで聴くといいだろうし、ショパンの『夜想曲』も、蝋燭もしくは、アロマテラピーのささやかなゆらぎ、そして香りに包まれて聴いてみるべし。暗いからこそ見えてくるものがあろう…。